第4話 もうなんでもいいや
空は晴れている。
わたしにとって夜とは悔やみ、恐怖するだけの時間だったので、どれだけ星空が瞬いていても綺麗だとは思えなかった。
仕事を終えて家に帰ると、異様に体が熱かった。体温計で熱を測ってみると三十八度六分だった。無理をすると熱を出すことはよくあったのだが、ここまで高くなるのは初めてだった。
残業を終えた今、病院はもう閉まっている。頭がふらふらして、トイレへ行くと胃液と共に今日のお昼に食べたものを吐き出した。トイレの中に酸っぱい臭いが充満して、さらにわたしの喉奥を刺激する。嘔吐は三回ほどで治まった。これでは夜食は食べられそうにない。
時計を見るとすでに九時を回っていた。明日も仕事だ。これくらいで根を上げてはいけない。
みんな同じくらい苦しいんだ。
「明日までに、熱冷まさなきゃ」
わたしは再びコートを羽織って外に出る。雪になりそこねた淡い雨が頬を伝っていく。わたしみたいだね。声が届くころには、消えていた。
ドラッグストアで栄養剤と解熱剤を買った。店員さんに大丈夫ですかと声をかけられたけど「大丈夫です」と返した。それから「ごめんなさい」も。
ポケットの中でスマホが震える。開いてみるとメッセージアプリの通知だった。もしかして、って思って急いでアプリを起動する。
スタンプショップからのお知らせだった。
わたしのトーク履歴が、公式サイトや運営のお知らせで埋め尽くされていく。
高校のころの友達とも、社会人になると次第に疎遠になっていた。それは時間の経過と人の成長による避けようのない事態だとわたしは楽観していたのだけど、最近、その友達同士が近くのカフェで集まっているのを見かけた。
けれど、ハブられたとは思わなかった。
人と人との関係っていうのは結局、損得を目安に構築される。
わたしの友達は偶然にもクリエイターや自営業の人が多かった。アプリのタイムラインを見ていると、漫画の連載が決まったとか、店を開いたとか、雑誌に載ったとか、そういう話題ばかりが散見される。
お金持ちの人と仲良くなればご飯をごちそうしてもらえるかもしれない。同業者の、それも成功している人と仲良くなればついでに自分の売名もしてもらえるかもしれない。
そういう、メリット前提での付き合いこそ、人間関係の本質だった。
比べてわたしには、何もない。
漫画が描けるわけでもないし、店を開ける資金と計画性もないし、雑誌に掲載されるほどすごいこともできないし、じゃあなにができるのかって考えると、わたしが蚊帳の外になるのはごく自然のことだった。
わたしはわたしと関わる人になにもしてあげられない。
昔はよく「ざくろはよく笑ってくれるから一緒にいると楽しい」と言われた。
それが嬉しくて、わたしはなるべく人の冗談などには笑うようにしていた。たとえそれが作り笑いだとしても、誰かに必要とされるために必死に続けた。
大人になると、笑っているだけでは生きていけないらしい。
人が欲しいのは愛想笑いではなく実績と、横の繋がりである。そのすべてが断ち切れた谷底で、わたしは先を行く人をすごいな、羨ましいなって、弱々しく眺めているだけだ。
孤独感。
劣等感。
わたしにはなにもない。
わたしを必要としている人など、どこにもいない。
空から降り注ぐ雨粒が、涙のように頬を伝う。
ふいに、車のライトに目を焼かれる。
水たまりが跳ね、服がずぶ濡れになる。重い足を引きずる。頭がどこか、ぼーっとしていた。熱のせいだろうか。もう、なんでもいいや。そういう開放的な気持ちでいっぱいだった。
赤信号で止まる。人が並ぶ。わたしの目の前を横切る車を、ぼーっと見つめる。
もしここでわたしが道路に飛び出したらどうなるだろう。
ただでさえ弱い体だ。衝撃に吹き飛ばされ、地面に頭を打ち付ければ、簡単に死んでしまうだろう。
それを見た人たちはどう思うのかな。
うわって、びっくりするかな。それから救急車を呼んで、警察が来て、翌日会社に連絡がいく。会社の人たちは、きっと驚くに違いない。
やがてこれが事故ではなく、単なる自殺だと分かると、みんな疑問に思うはず。
なんで自殺なんてしたの?
そこまで思い悩んでいたの?
そういえばあのとき、ひどいこと言った。もしかして自分のせい?
そうやって、はじめてわたしのことを分かってくれる。
わたしがどれだけ辛かったか、理解してくれる。
罪悪感と後悔を背負って、死ぬまで脳裏にわたしがこびりついて離れない。
わたしが死んだとなれば弓梨も戻ってきてくれるはずだ。
正直、自分で自分の命を絶つ人の思考がわたしには理解できなかった。生きたいからご飯を食べるのに、生きたいから眠りに就くのに、なんでわざわざそんなことするんだろうってずっと疑問だった。
でも、今なら分かる。
別に、死にたいわけじゃないんだ。
ただ、自分の苦しみを周りに伝える方法が、もうこれしかないってだけなんだ。
冷たい世界は、わたしの慟哭を聞き入れてはくれない。凍り付いた世間は、わたしを助けてはくれない。
だから、この体を差し出して、その氷を割ってやるしかないのだ。
自然と、足は地面を蹴っていた。光に集まる虫のように、わたしは吸い込まれていった。
そこになにがあるんだろう。その光と衝突すると、どうなるんだろう。自暴自棄になった頭は、まるで子供の頃に戻ったかのように制御が効かなくなる。
これまでいろんなことがあったけど、これから先、なにかが起こることはない。いつもみたいに不安に押しつぶされながら眠ることもない。劣等感に苛まれることもない。孤独を感じることもない。生まれたことを後悔する夜もこない。
なにかを削るような音が、わたしの耳を掠めていく。
――ものすごい衝撃だった。
さっきまで自分がいた場所と今自分がいる場所があまりにも違いすぎて、目の錯覚とか、夢幻とか、曖昧な認識ばかりが頭を渦巻く。
車のヘッドライトとわたしの視線が水平になると、日の出のような神々しさすら感じる輝きとなる。そういえば、わたしはいつだって車を見下ろすばかりだった。いつもお世話になっておきながら、一度も目を合わせなかったとは。ごめんね。
へへ、って、照れ笑いで罪悪感を誤魔化す。はじめて車に見下ろされると、塗装のされていない骨組みが顔を出し、よりいっそう冷たさが増していく。
少しの間滞空してから、ものすごい勢いで地面を滑った。スキー板の代わりに、わたしはどうやら自分の頬を使ったらしい。
ガガガガ、ズザザザ、ジャリジャリ。
滑る音。削れる音。脳の悲鳴。耳鳴り。砂利と血と、薄桃色の剥がれた肌が目の前を舞った。
あまりの痛みにわたしは口を開いて、声を漏らした。
道路に赤い道を新たに作りながら、ようやく頬が踏ん張りを効かせる。骨さえむき出しになっているのではないかと思ってしまうほどに、触れる空気が強烈な痛みとなる。
ああ、車に轢かれるってこんな感じなんだ。
押し潰されて死ぬのと、削り取られて死ぬの。苦しいのは絶対的に後者だった。顎の筋繊維が完全に断ち切れたようで、口がだらんと開いたまま閉まらない。あれ、ていうかわたし、まだ死んでないな。
地面に埋もれるように横たわると、道を行き来する車のタイヤが空に上がっていく。反転した視界が、徐々に明るくなる。
低い轟音が、奈落の底から放たれるように地面を揺らす。鼓膜付近で聞こえるおびただしい流血の音と混ざり、亡者の嘆きのようにも聞こえた。
ライトで照らされ、地面にわたしの影ができあがる。
どうせなら、一回で死なせてくれたらよかったのに。
生きるのも下手くそなのに、死ぬのまで下手くそなら、やっぱりわたしは、この世に存在していても意味のない人間だったのかもしれない。
納得と、安堵と、悲しみと、悔し涙が、涙。涙か。
わたし、泣いてるんだ。
涙が血を溶かし、コンクリートの地面を流れていく。
そこに映った、車体の先端。太陽が日陰を作るように、わたしの体が冷たさに包まれる。
でも、でもさ。
最後の最後に、頑張れたじゃん。勇気を出せたじゃん。
こんなこと、みんなできないでしょ? わたし、みんなに自慢できるところ、あったよ。
えへへ、すごいでしょ?
ねえ、誰か。
誰か、わたしを、褒めてよ。
目の前にタイヤが現れた、次の瞬間。
ゴリ、となにかが潰れるような音がして、わたしの意識は弾け飛んだ。
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