第2章
第5話 無味無臭の朝
目を覚ますと自分の部屋の天井が見えた。
普通起床と同時に確認するのは現在の時刻だ。それなのにわざわざ見慣れた天井を見上げるのはきっといまだにわたしの意識がフラフラとどこかをほっつき歩いているからに違いなかった。
眠る瞬間のことを起きてから思い返すなど一度もしたことはない。だが、わたしの目の奥でぐるぐると回っているのは明滅する光と、反転する視界。それから、身が引き裂かれる瞬間の痛みと、水風船が割れたような鈍い音だった。
思い出すだけでも吐きそうになる、まるで現実味のない感覚が皮膚に張り付くように残っていた。
頬で地面を滑り、皮膚が削れむき出しになった歯茎に夜風が当たると神経に直接針を差し込まれているかのような痛みが走って、冷たいはずなのに、流れ出てくる血がとてつもなく熱い。
慌てて起きて自分の頬を触ってみる。よだれがついていた。
「夢・・・・・・?」
にしてはえらく鮮明で、痕のようなものが意識に残って離れない。
布団をめくるといつも通り寒い。昨晩は暖房を消してから寝たみたいだ。え、そうだっけ?
いつもは消さないけど、最近乾燥がひどいのと年明けの電気代が怖いなどの理由で消したのかもしれない。わからない。記憶がさっぱりないのだ。
これまでのことが全部夢ならよかった。間違った選択とか遅かった後悔とか、そういう取り返しのつかないものを取り返せるのが夢だ。
ベッドから降りると、ぐしゃぐしゃに折れ曲がった黒い枕が寂しげに落ちていた。リビングに行くと、シワの寄った手紙が一枚。空っぽのクローゼット、無数に残るわたしの発信履歴。
そこまで都合はよくないみたいだ。
きっとなにもかもが夢なんじゃなくって、弓梨に出て行ってしまわれた事実が、あのような悪夢を呼び寄せたのだろう。順序というのはいつだって整然としているものだ。
時計を見ると朝の七時だった。いつもより遅刻気味だ。
「仕事、行かなきゃ」
宇宙人が侵略してきても、仕事には行くんだろうな。と、憂いてみる。
嬉しいことや悲しいことがあったとしても、会社の電気は灯り、人はそこを目指す。
穴をふせがれようと水を流し込まれようと、それでもせっせと餌を運ぶアリたちの姿を思い出し、逃げようのない閉塞感に苛まれる。
昨日見た夢は正しい。
わたしは夢であっても、もし目を開けていたとしても、道路に足を踏み出すことをやめなかっただろう。
「行かなきゃ」
つぶやく。
トーストを焼きながら、現実と夢を行き来する薄い意識を戻しながら、つぶやく。
「行かなきゃ」
それが仕事だ。それが人生だ。
ここで何もかもを放り投げて布団に潜り込んだらどうなるだろう。いつもそういうことを考えてしまう。そんなことだから、自分で命を断つ夢なんて見てしまうんだ。
『なんで無断欠勤したの!』
なによりも大きな声が聞こえた気がした。
「す、すみません!」
家の中でわたしは頭を下げる。前髪がフライパンに垂れて、ジュッと音がした。
ダメだ。仕事を休むわけにはいかない。
どれだけ体調が悪くても、どれだけ精神的に追い込まれていても、大切な人と別れても、誰かが死のうとも、自分が死のうとも。
会社には行かなくちゃ・・・・・・。
わたしは半焼きのトーストに大好きなメープルシロップをかけた。憂鬱な気分は、甘いもので上書きする。
「あれ・・・・・・」
なのに、なんでだろう。
どれだけメープルシロップをかけても、味がしない。
足りなかったのかな。
容器をしぼる。
皿いっぱいにメープルシロップが盛り合わせられる。黄色い沼のようだった。
それでも味はしない。まるで砂を噛むような感触は、目の前にある美味しそうなトーストとは真逆で、混乱する。
ストレスで味覚障害になるという話は聞いたことがある。すぐにでも心療内科に行った方がいいのかもしれない。近くの心療内科は朝早くからやってるから大丈夫だろうけど。
でも。
「仕事、行かなきゃ」
メープルシロップだらけになったお皿を水につけて、わたしは急いで家を出た。
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