第3章

第10話 陸に上がった魚

「くちゅんっ!」


 ぐわーってのぼせた感覚のまま鼻をかむ。


 体温計には三十七度と表示されている。微熱だった。


 原因はもちろん、前日夜が更けるまで外を走り続けていたことだ。あと、ほとんど寝てない。楽しすぎたからっていうと少し子供っぽいかもしれないけど、そういう無邪気な感情を思い出させてくれたのが昨晩の出来事だった。


 どうやらわたしの中には悪魔が眠っているらしい。弱かったわたしの体も普通の人間以上に強靱になった。


 けれど頭はぼーっとしたまま。眠いものは眠いし、鼻水はきちんと出る。倦怠感はないのに、不思議な感覚だった。


 人間と悪魔が半分ずつ均等に混ざっているのだとしたら、納得できる症状なのかもしれないけど。


 朝の天気予報を見ながら、フライパンを回した。生地を伸ばしたペラペラのホットケーキができあがると、朝の日差しに混じるバターの香りに心が和やかになる。


「これはなんていうの?」


 換気扇と同じようにくるくると回りながら声をかけてきたのはサレアだった。


 サレアもわたしと同じ悪魔、らしい。その少女のような容姿だけ見るとどうにも見分けはつかないが、飛んでいるところ、それから背中に生えた翼や腰から顔を覗かせる尻尾を見るとなるほどと納得してしまう。それにサレアの瞳は人間とは思えないほどに幻想的だ。


「ホットケーキっていうんだよ、食べる?」


 ストンと、サレアがわたしの隣に着地する。こうやって隣合わせると、サレアの背丈はわたしより二回りほど小さい。けれど、こちらを見上げる瞳は肉食獣のように鋭く、口元から覗く牙はまるで吸血鬼のように不気味だ。


 そして人をからかうような笑い声は、コウモリの羽音にも似ている。


「くひひ、ざくろを載せてもいいなら」


 わたしが食べられてしまいそうだったので、自分の分だけ皿に載せてテーブルにつく。


 サレアはそんなわたしを見ると満足そうに笑ってからテレビを見始める。腕を後ろに組んで立つその姿はどこか様になっていて、お嬢様のように気品があった。


「味なんてないんだから、なんだっていいのに」


 ホットケーキを切る手が止まる。


 わたしは悪魔になってからというもの、何を食べても味を感じなくなってしまった。それは本来悪魔が食べるべきものではないものを摂取しているせいだと、サレアに昨晩説明された。


 どうしてか当たり前のようにわたしの家にいるサレアだが、この事情を説明してくれるのが彼女しかいないので、追い出すわけにもいかなかった。


 ホットケーキを口にすると、トイレットペーパーを口に含んだような食感だけが粘っこく残る。どれだけバターを塗ったくっても、脂分が増していくだけで味はしない。


「サレアもそうなの?」 


 食事と呼んでいいのか分からない咀嚼を続けながら、サレアに問いかける。サレアも昨日、わたしが買ってきた弁当やパンを食べたりしていたみたいだけど。


「人間が食べるべきものを食べても味はしないよ」

「そ、そうなんだ。サレアは普段なにを食べてるの?」

「知りたい?」


 サレアが半身をわたしに向けて尻尾をぴょこぴょこ動かした。


 わたしは生唾を飲んで、サレアの口が動くのを待つ。最初に見えたのは、白い牙だった。


「教えない」

「え、なんで」

「ざくろの困ってる顔がかわいいから」


 なにがそんなに面白いのか、サレアは口元に手を当てて華奢な肩を震わしていた。


 言い様のない恥ずかしさに追われ、わたしは急いで味のしないホットケーキを頬張った。


「でも、そうだね。半分悪魔とはいっても、もう半分は人間。魔力は補給できないにしろ、栄養は摂ったほうがいいかもしれないよ?」

「なんだか難しいね。魔力っていうのはわたしじゃ補給できないの?」

「気管がないからね。悪魔にも当然種類がいて、それぞれ補給の仕方は違うから、一概には言えないけれど、ざくろには魔力を受容できるほどのスペースがない可能性がある」

「えっと、それって、この魔力は有限ってこと?」

「等しくそうだけどね。ざくろの場合は、顕著に、ってこと。大事に使ったほうがいいよ」


 そ、そっか。魔力を使っているなんて自覚はないけれど、そのあたりもきちんと学んでいかなくちゃならないのかもしれない。


「魔力が尽きたら、その・・・・・・わたしは死ぬのかな」

「死にはしないよ。厳密にはざくろはあの日死んだわけではないから。魂が朽ちる寸前に、混ざっただけ」

「な、なんだ」 


 ほっと息を吐くと、サレアが怪訝にわたしを見る。


「怖い?」

「え?」

「死ぬのが怖いの?」

「えっと、どうだろ。ちょっと、やだなって感じで」

「じゃあどうして自分で死のうとしたの?」


 もっともな質問だった。悪魔だろうと天使だろうと、疑問に思うのは当然だ。それに答えられるのはきっと、人間だけだ。


「死のうとしたんじゃなくて、ただ。なんていうか、あの日の夜は、いろんな嫌なことが積み重なって、自暴自棄になってて、それで」

「気付いたら身を投げてましたと」

「・・・・・・はい」


 説教されているようで、つい萎縮してしまう。


「気分なんかで生き死にが変わるなんて、変なの」

「そうだよね、自分でもそう思う。あの時のわたしは、たしかにどうなったっていいって思ってたから」

「今は違うの?」

「うん、ちょっと元気になった。悪魔の力で体も丈夫になったし、昨日走って、いろいろと吹っ切れたし。とかいって、また死にたくなるかもしれないけどね」


 あはは、と誤魔化すように笑う。感情は浮き沈みするものだ。その沈んだ瞬間地に着けば、わたしはまた自分の存在を憎むことになるだろう。


「というかサレアは見てたの? その、わたしが轢かれるところ」 


 するとサレアは面白いものを見つけたとでもいうように口角をあげて、わたしの近くにすり寄ってきた。


「見てたよ」


 ゾクゾクするような囁きだった。


「さくろのほっぺがジャリジャリって剥がれていって、真っ赤な歯茎が剥き出しになって、舌が力なく垂れて、よだれをこぼすみたいに血を流して。体をびくっ、びくって震わせながら涙を流して、水風船みたいに弾けるところ」

「い、言わなくていいよ」

「ううん、言う」


 つい背筋を逸らしてしまう。


 小鳥のように優しい声は、しかし悪魔の意地悪さを持っていた。


「さっきまで動いていた手足がビクともしなくなって、かわいく結んだ髪の毛も首と一緒に飛んでいって、ノリみたいにべったりした血が道路に染みて」

「ね、ねえ、わたしやっぱり死んでない?」


 言うと、サレアの口がわたしの耳に近づいて、吐息が耳たぶに当たってくすぐったい。力を入れることができなくなり、手に持っていたフォークを床に落としてしまう。


「死んでないよ、大丈夫。心臓が動いてれば、魂は在り続けるから」


 サレアの手が、服の隙間を縫ってわたしの胸へと伸びてくる。冷たい感触が鎖骨付近で触れると、つい息が漏れてしまう。


 サレアの腕にしがみつくようにするが、それが抵抗なのかは自分でも定かではなかった。


 それからサレアの手がどんどん奥を目指し、ひっかくように肌に触れると、わたしは小さく声を漏らした。


「はい、これ」

「へ、ぇ?」


 力の抜けきった、変な声だと自分でも思った。


「ざくろの心臓。ね? 死んでないでしょ?」


 サレアの手には、トクトクと鼓動する心臓が乗っていた。陸にあがった魚のように、苦しそうにしていた。


 心臓から白い糸がニュルっと出て、それがわたしの胸へと繋がっている。


「ちょ、ちょっと!? なにしてるの!? 戻して戻して!」

「くひひ、焦ってる焦ってる」


 サレアはひとしきり笑ったあと、持っていた心臓を落とす。すると繋がった糸がびよ~んと伸び縮みしてヨーヨーのように心臓をわたしの胸に戻した。そ、そんなのでいいんだ!


「び、びっくりしたぁ・・・・・・魔法ってそんなこともできるんだ・・・・・・」

「悪魔の力だって。魔法みたいにキラキラしたものじゃないよ」

「そうかもしれないけど・・・・・・」


 超常現象であることに変わりはない。


 目の前に現れたのが宇宙人でも未来人でも地底人でも、同じことだ。


「って、あ!」


 時計を見て、わたしは弾かれたように椅子から立ち上がる。


 頭がごっつんこしそうになるのを、サレアはふわりと飛んで避けた。


「仕事行かなきゃ!」


 始業まであと三十分しかない。朝礼はその五分前には行われるから・・・・・・。


「ギリギリ遅刻!?」


 どうやったって間に合いそうになかった。


 いつもは徒歩で出勤しているけど、それでは丁度三十分かかる。自転車を出そうにも雪が積もってるし、車は論外だ。


「どうしてそんなに慌ててるの?」

「お、遅れちゃうからだよ!」

「遅れるとどうなるの?」

「怒られる! すごく!」

「怒られるとどうなるの?」 


 支度をする手が、ピタりと止まる。


 たしかに、怒られるどどうなるんだろう。


「怖がる必要なんてないよ、ざくろ。ざくろはもう、強いんだから」


 わたしは、強い。


 たとえ包丁がわたしめがけて飛んできても、それを木っ端微塵に破壊できる力がある。本来、恐れるものなどどこにもないのかもしれない。


 それでも。


「怖いものは怖いの」


 いったいわたしは何に恐れているんだろう。


 曖昧模糊な感覚に包まれたまま、わたしは味のしないホットケーキを加えて部屋を飛び出した。

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