第9話 強者と弱者

 家に着くとそのままソファに倒れこんだ。


 顔が埋もれると息ができなくなる。それでも思考の鮮明さは変わらない。どれだけ普段、息をしないで生きているかがよく分かる。


 もっと肩の力を抜いて、のらりくらりと深呼吸しながら生きていけたらいいのだけど、どうにも昔からそういうわけにはいかなかった。


「あーあ、勿体ない」


 わたしの頭上で、落胆した声が聞こえた。


「せっかく助言してあげたのに、まさかお掃除だけして終わるなんて」


 ガバッ! と顔をあげると、昼間も見た少女がふわふわと浮いてわたしを見下ろしていた。


 三日月のように口元を歪めながら、くすくすと笑っている。


「散らかしっぱなしにしたら怒られちゃうから」

「ふーん。意外と冷静なんだね。お姉さんみたいな人間はもっと驚くようなものだと思ってたのに」

「昼間にたくさん変なの見たから。ねえ、あなたもあの化け物と同じなの?」

「くひひ、化け物。化け物ねえ。そうなのかもねーお姉さんがそう思ってるのなら」


 人の形をしていようが、目の前でふわふわと浮かれたらそれはもう、化け物なのではないだろうか。


 魔法使いように夢のある飛行形態ならもっと違う言い方があるのかもしれないけど、あいにく箒は手にしていない。それよりも、少女の背中に生えた翼とか腰から生えた尻尾とかが気になった。


 ガサガサと買い物袋を物色し始める少女の尻尾が猫のように揺れている。つい目で追いたくなってしまう挙動だ。


「サレアっていうの、お姉さんは?」


 名前、だろうか。


「ざくろ」

「いい名前だね」

「そう、かな」


 わたしの中にはざくろのように何かが詰まっているわけではない。名前負けしてるんじゃないかって時々思うけれど、そもそも名前勝ちしてる人っているのかな。あまり悲観しても仕方のない問題なのかもしれなかった。


「弾けたら、綺麗な花を咲かせそうだね。くひひ」


 少女・・・・・・もといサレアは何かを企んでいるかのように目を細めて笑った。


「お姉さん、このまるげりーた、食べてもいい?」

「いいけど」


 たどたどしい横文字に、あどけなさを感じる。サレアはコンビニのマルゲリータをそのまま食べ始めた。


「あ、あの」


 ツルツルとそうめんのようにマルゲリータを啜るサレアに問いかける。


「昼間も言ってた力って、なんなの? それに、わたし昨日死んだ・・・・・・気がしたんだけど、あれって夢だったのかな。というかやっぱりあなたたちは・・・・・・なんかよくわからないことばかりで混乱してるんだけど」

「そんなにつんのめらないの。質問一つにつきざくろの腕を一本食いちぎっちゃうよ?」


 サレアの口元から、鋭い牙が覗く。


 蛇のような瞳に見据えられると、カエルのように身動きがとれなくなる。


「答えてあげるのは一つだけ」

「じゃ、じゃあ・・・・・・わたしはいったい、どうなったの?」


 サレアや昼間の化け物たちがどういう存在なのかも気になるけれど、それよりも自分の身に起きたことが一番大事だ。


「ざくろは悪魔になっちゃったんだよ」

「へ」


 あ、悪魔?


「このめろんぱんは?」

「あ、それは明日の朝ご飯・・・・・・」


 へえ、とサレアは気にせず袋を開ける。


「って、そうじゃなくてっ、悪魔ってどういうこと!? わたし、悪魔になっちゃたの!?」


 自分の頭をペタペタ触る。角は生えていない。そもそも外見に変化があれば職場で指摘されているはずだ。


「なっちゃったというよりは混ざっちゃったって感じだね」

「混ざっちゃったって・・・・・・」

「ざくろが昨日車にばごーんって吹き飛ばされたときになにかが起きて魂が分かれちゃったんだと思う」

「なにかっていうのは」

「それはあたしも気になってる。普通人間と悪魔が混ざることなんてないし、そもそも関わることすらないはずなんだけどね。よいしょっと」


 サレアは食べていたメロンパンを放り投げると、突然わたしを押し倒し馬乗りになる。驚くほど軽いその体躯に、どうしてか抗うことができなかった。


 何をされるんだろうと思った次の瞬間、サレアの細い指がわたしの首を勢いよく締め上げた。


 ミシミシと骨が軋む音がする。


「痛い?」

「あ・・・・・・カハッ、ぁ・・・・・・」

「苦しい?」

「・・・・・・ッ、ヒユ、っ・・・・・・!」


 痛い? 苦しい? 当たり前だ。 


 首を絞められて平気な人などいない。


 けれどその感覚を声にして訴えることができず、わたしは白くなっていく意識の中で必死にサレアの腕を掴んだり、ソファに置かれていたクッションを投げたりした。


 もう、ダメ・・・・・・。


 ふっと体の力が抜けていくのと同時、首を絞めていたサレアの手から解放される。


「ケホッ、ケホッ・・・・・・!」

「苦しいものは苦しいのか」


 サレアの見下ろす視線は、まるでわたしを物のように扱っているようなひどく冷たいものだった。


「怖かった?」

「ハッ、ハッ・・・・・・」


 いまだに息の整わないわたしは、しっかりと呼吸している自分の喉に触れながら何度も頷いて見せた。


「そんなに泣いちゃって。かわいい」


 サレアがわたしの顎を撫でていく。


「泣くくらいなら、死ななきゃよかったのに」

「あれは・・・・・・けほっ、そういうんじゃないの」


 わたしにとっての恐怖は死のような肉体の滅びではなかった。そんな得体の知れないようなものじゃなくて、本当に怖いのは目を開けたそこにある、理不尽な叱咤と痛烈な怒号だった。


「強がる前に鼻水を拭きなよ」


 馬乗りになったサレアがティッシュを差し出してくる。わたしがそれを受け取ろうとすると、触れる寸前、サレアがそのティッシュをビリビリに引き裂いた。


「そんな目で見ないで?」


 わたしはどういう目をしていたのだろう。サレアは困ったように笑ってから、ふわりと再び宙に浮いた。


「ざくろがどういう人間なのか、よくわかった」


 わたしでも分からないことをサレアが分かったというのなら、是非教えて欲しい。けれど、きっと簡単には教えてはくれないのだろう。ともすればわたしも、彼女のことを少しだけど分かってきたということなのかもしれない。


「あたしは悪くないよ。悪いのは、簡単に破れちゃうこのティッシュ。弱いのが悪い。脆いのが悪い。そうでしょ?」


 ニタニタと、わたしを見てくる。


「強いあたしたちとは違うんだから」

「みんな同じ、じゃないの?」


 人はみんな同じだ。蓄積するものも、磨り減っていくものも、なにもかもが等しくできている。そう、教わった。恐怖がわたしの体に刻み込んでくれた。


 サレアはふわふわと部屋の物を物色しながら答える。


「違うに決まってるじゃん。くひひ、ざくろ、変なこと言うね」

「で、でも。田代さんがそう言ってて・・・・・・」

「ざくろの世界はあのおばさんがすべてなんだ。かわいそうだね。それくらい、あのおばさんが怖いんだ」

「え」

「弱い生き物は所詮、強い生き物に怯えて生きていくしかない。みんな同じ? そんなわけないじゃん。同じなら人間は手を取り合って和気藹々と生きていくはずだよ。でも、そうじゃないでしょ?」


 サレアが指をくるりと回すと、キッチンに置かれていた包丁が浮き上がって、その刃先がこちらを向く。


 照明を反射して銀色の輝きが見えると、包丁はわたしの首元めがけてものすごい速さで飛んできた。


「や、やめてっ!」


 防ごうとして手を突き出すも、避けたほうがよかったのではないかと逡巡する。しかし手のひらに来るはずの痛烈な感覚はなく、目を開けると包丁が空中で割れて、ガラス片のように粉砕したところだった。


 なにが起きたか分からずに床に散らばった破片を見つめる。そこには呆気にとられた表情をしたわたしが映り込んでいた。


「でも、ざくろはもう弱くないから」


 サレアは床に散らばったものを見て満足そうに目を細めた。


「ざくろはもう、こっち側。ね? あたしたちは、強い。強いんだよ」

「わたしが、強い・・・・・・?」


 強さとは何を指す物なのか。何かを破壊する力があれば強者となるのかは、その人の倫理感によるのかもしれない。わたし自身、その退廃的な力に魅力を感じることはなかった。


 でも。


「ざくろ、今日の体の調子はどう? いつもと違って調子がいいんじゃない?」

「あ、そういえば・・・・・・」


 今日、いつもの貧血のような症状は出ていない。


「ざくろの体には悪魔の魂が混じってるから、多少の疲れなら感じないはずだよ。試しに外でも走ってみる?」


 突風が吹き抜けると、ドアが一人でに開いてわたしを誘う。先行するサレアの腰から生えた尻尾を追いかけて、わたしも外に駆け出した。


 空は晴れていた。


 冬の夜は星がよく見える。


 そういう話は聞いたことがあるけれど、実際一年中星空を眺めているわけではないので比較することはできなかった。


「あっ」


 わたしが立ち止まっていると、サレアが背中を押す。


 前のめりになって、その勢いのままわたしは走り出した。


 冬の夜は静かだ。


 虫の鳴き声は聞こえない。人の喧噪も少ない。見通す先は積もった白に広がる紺色。


 視線も、音も、遮られることなく遠くに届く。


 ドタドタ。整然とは言えない足音だった。けれどそれは力強く地面を踏んでいる。前に進みたいと風を切る体は、自分のものであるはずなのにどうしてかひどく心強い。


 わたしは、自分の体が嫌いだった。


 何をしても一番先に根を上げるのはいつだって体の方だ。心はまだ負けていないのに、意地だけはまだ張れるのに、体が勝手に諦めてしまう。


 友達の家に行きたいのに、病院に連れて行かれて検診を受ける日々は、ずっと窮屈に感じていた。そんな当たり前を続けているうちに、わたしの心は脆弱な体に張り付くように居場所を変えてしまった。


 体が無理なら、わたしも頑張れない。ちょっと頑張ってみても、ふと頭に蘇るのは血の気が引いていく感覚と、薄れていく意識の色。その兆しすら怖くて、わたしは前に進むのをやめてしまう。


 やがて何もかもがわたしのせいなんじゃないかって思い始めた。みんなが特別なんじゃなくて、わたしが特別弱いだけなのだと。


 わたしは死ぬまで、快活に進む人たちの背中を追いかけ続けるのだと、そう思っていた。


 だからこんな自分が嫌いだった。こんな嫌いな自分を好きになってくれる人を好きになった。好きになった人に、嫌われた。またひとりぼっちになった。全部、わたしが弱いせいだ。


 でも。


「走れる・・・・・・」


 どれだけ走っても意識を保てた。


 息はあがりながらも、それは体内を迸るエネルギーを放熱しているかのようで、荒立つ呼吸が心地よくて仕方がない。


「ほんとだ。わたし、走れる・・・・・・!」


 およそ五百メートルを全力で疾走する。


 速く走りすぎて前につんのめったわたしは、そのまま見えた茂みに体を投げた。


「どう? 強くなった感想は」


 夜空にサレアが加わる。


 返事をしようにも、細かい息づかいと、それから興奮に邪魔されて声にできない。


 ただ、どうにも口元が締まりきらないことは自覚できた。


「すごい」


 ようやく出てきた言葉は他人事のようだった。それもそうだ。今まで走ることはおろか、椅子に座っているだけで根を上げる体だったのだ。


 それがまるで、野に放たれた犬のように駆けても許されるなんて。他人事ではいられない。


 しかし、空めがけて上がっていく白い息は、湯だったわたしの命の煙だ。


「楽しい」


 わたしは再び立ち上がる。


 すごい、すごいすごい。


 まだ走れる。


 まだ頑張れる。


 わたしの体が付いてくる。


 ずっと凍り付いていた心が、解きほぐされていくようだった。


「うわ、わ」


 こんなに楽しいの、いつぶりだろう。小さいころに戻ったような足取りで、わたしは夜道を駆け抜ける。


「くひひ、ざくろは悪魔だって自覚がないみたいだね。最初は仕方のないことだけど」


 サレアはわたしの前を飛びながら、振り返って笑う。その不適な笑みに、負けないぞってわたしも走る。


 勝ち負けを気にしなくなったのは大人になってからだ。闘争心のようなものが削り取られ、争いを生まない平衡性をこれまで辿ってきた。それが大人としての振るまいであり、社会を漫然と生きる手段だと思っていたからだ。


「さあ、その力で、憎い人間を・・・・・・」


 ついにサレアを追い越した。


 横切る寸前でサレアが何かを言ったような気がしたけど、それはあとで聞けばいい。


 あとがある。未来がある。わたしの意識は、まだ続く。


「変な人間」


 うわーって、わたしは走る。


「あんまり飛ばすとまた転ぶよーって、あーあ」


 そのままずっこけて、今度は違う茂みに突っ伏した。ゴロゴロ転がって頬についた泥を取る。


 これが、走るって感覚なんだ。


 もう無理だって思っていた自分の手足が、思い描いた以上に動いてくれる。


「サレア・・・・・・わたしっ・・・・・・」

「うん、なに?」

「わたっ・・・・・・ひぃ」

「なに喋ってるかわかんないよ」


 くひひ、とサレアが笑う。サレア、よく笑うな。


 小悪魔のよう、と誰が言い始めたかは分からないけど、その人はおそらく本当に悪魔を見たことがあるのだろう。


 あ、そっか。


「サレアは、悪魔なんだね」

「そうだよ、あたしたちは、とっても悪い、悪魔だ」


 わたしにはサレアのように翼は生えていないし、かわいい尻尾もないけれど、この足がわたし以上に進んでくれたら、それだけで満足だった。


 とはいっても、ネジの外れたみたいに動かれても困るんだけど。


「あ、あはは」


 口元が溶けていくように緩んでいく。


 なんだか久しぶりに、笑えた気がする。いつ以来とか考えてしまうと途方もない時間の遡行に意識が遠のいてしまいそうなのでやめておくけれど、この居心地は本来わたしが望んだものだった。


 深く息を吐いて、天を仰ぐ。冬の星空はやはり綺麗だった。

 


 

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