第11話 やれと言われたらやれ

 音速でも追っているのだろうか。


「いいよー、ざくろ。速いよー、すごいよー、かっこいいー」


 間延びした声は人を小馬鹿にしているんだか、褒めているんだか分からない。返事をしようとしても唇がめくれあがってそれどころじゃない。


 わたしは慌てて自分の足を止める。滑走路でも滑るように進んで、ようやく風を感じなくなった。なんだか焦げ臭い。今煙出てなかった?


「ちょっちょっちょ、速すぎない?」

「そんなのあたしに言われても困るよ。急いでたのはざくろでしょ?」

「そうだけど、え、こんなにスピード出るの? 昨日はこんなにならなかったよ?」

「ざくろは魔力の使い方が下手っぴだから、いらないところで使っちゃってるんだよ。間に合わない間に合わないーって急ぐから、それに呼応するみたいに魔力もあふれ出しちゃう」


 かかとを踏んで家を出たわたしは、走りだそうとしたその一歩目から爆速で歩道に飛び出した。磁力にでも引かれているかのような不自然な進み方で、わたしは風になるどころか風すら追い越していた。


「そんな急がなくても大丈夫だよ。今のざくろなら普通に間に合うから」

「そ、そっか。なるほど」


 言われたとおり、早歩きくらいの速度にしてみると、体の表面に焼き付いていた熱のようなものも取り払われた。


「というか、サレアも来るんだ」

「ざくろが悪魔と混ざった理由、まだ詳しく分かってないしねー」


 つま先から頭まで、舐めるように見られる

と佇まいも落ち着かない。気を抜けばまた音を追いかけそうだったので前を向く。ジェットコースターみたいで楽しくはあるけれど、絶叫するのはさずがに恥ずかしい。


 うあーおわー、と叫ぶ自分を想像すると、自然と笑みがこぼれた。


「どうしたの?」

「ううん、なんていうかね。久しぶりに誰かと喋ってるなって思って」

「そう? 昨日だっておばさんと話してたじゃん」

「あれは、喋るとはちょっと違うんだ。定型文を並べてるだけっていうか。だからこうやって自然な会話は――」


 四日ぶり、かな。


 わたしの元を離れていったあの人は、今頃何をしているんだろう。吹っ切れたわけじゃないし未練だって残ってる。部屋のものを捨られないのがその理由だ。


 大事、だったんだなぁ。


 思えばわたしの心が崩れていったのも、あの日からだった。支えるものがなくなると、人は重力に従うしかないらしい。地べたを這いずって、差し伸べてくれる手がないのなら口の中には砂利の味が広がっていく。それが今は無味無臭の悪魔に成れ果ててしまったのだから笑えない。


 けれど、苦くないというのなら、顔をしかめる必要もないのかもしれない。


 くすぐったい気持ちでサレアを見ると、あまり面白くなさそうな顔で睨まれた。



 サレアの言うとおり会社には始業前に到着することができた。頬に張り付いた冷気を手の平で取り除きながら、仕事の準備をする。


 引き出しから資料とFAXで送られてきた注文票を取り出して机に置こうとするが、そこには処女雪のように白い太ももが先客として乗せられていた。


「ここがカイシャってところなんだねー、ざくろがとってもとっても怖がってる、あの」


 何故か知らないけれど、サレアも会社の中に入ってきていた。今後はこんな感じでわたしに付いてくる気なのだろうか。


 サレアの姿は他の人には見えていない。とはいえ、サレアの服装は正直露出度が多く、そんな肌色が社内で見えるとなるとどうにも落ち着かない。


 サレアの華奢な体を包むのは黒い薄生地だけで、それも局部にしか施されていないため肩やおへそ、太ももなどが丸見えだ。冬なのにそれは寒くないのだろうか、という質問は悪魔に対して杞憂なのかもしれないが、人間としての倫理観を合わせ持つわたしからしたら、まだ年端もいかない少女がセクシーな衣装を着てもいいのだろうかという心配が先に浮かんでしまう。


「どうしたの? ジロジロ見て」


 視線に気付いたサレアがわたしの顔を覗き込んでくる。


 周りに人がいる以上返事をするわけにもいかないので、わたしは椅子に座って資料を整えた。机に座っていたサレアがくるりと宙を回転すると、そのままわたしの隣に着地する。


「ねえ、見てたでしょ」


 顔のすぐ横で気配がする。


 反応はしないにせよ、自分の耳に熱が集まっていくのを感じる。そんなわたしを見て、サレアはくすくすと笑っていた。


「朝礼やるよー!」


 朝の静かな時間を裂くような声に、わたしの心も現実に引き戻される。悪魔の力を取り込んで強くなったわたしの体も、怯える心を包み込む頼もしさは持っていない。


 視界と思考からサレアや悪魔のことが消え、わたしも急いで立ち上がる。ドクン、と心臓が不快な跳ね方をする。そぞろに並ぶ人たちは、当然のように前を向く。そこに目を背けたいものがあるかないかなどきっと関係ないのだろう。


 わたしも同じだった。


 嫌だ。億劫だ。憂鬱だ。怖い、行きたくない。そう思っても、吸い寄せられるように足は動く。


 田代さんが全員いることを確認すると、社長を呼びに行く。田代さんの顔を見ると、どうしても落ち着かない。目を合わせると、また怒られるんじゃないかとビクビクしてしまう。それが悪循環であることは分かっているのに、つい自分の行いを振り返り必死に粗を探してしまう。


 怒られるようなことはしていなかったか、気に障るようなことを言っていなかったか。


 そうやって自分の悪いところを探していくと、自分がちっぽけで無力な人間であることを自覚してしまい、一層気が滅入ってしまう。重力が増したかのように、顔をあげるだけでも一苦労だった。


「はい、おはよう」


 やがて社長が部屋に入ってくる。背丈は低く、やや小太りな体躯に清潔感はない。鋭い目つきと眉間に寄ったシワが、社長の人柄を表しているような気さえしてしまう。


 今月の成績と、それから今年の納め目標などが発表される。今年は異常気象のせいで鮮度のいい果物が採れず例年と比べて売り上げはよくなかった。


「そのため、それを年末までに取り返す必要がある。ここの人たちにも営業をしてもらうから、肝に銘じておくように」


 わたしたちは互いに顔を見合わせた。営業なんてやったことがない。それに。


「あ、あの。社長、そんなのやる暇・・・・・・」


 事務の片山さんが社長の話に割り込む。太い首筋には、多くの湿布が痛々しく貼られていた。


「やるやらないじゃなくて、やれって言ってるんだよ。拒否する者には今年のボーナスは出さないからな」


 社長が片山さんを睨み付ける。その目力は猛禽類のように鋭い。ただれた瞼から覗く眼光には威圧感さえあった。


 この事務所には女性しかいない。男性である社長の野太い怒号に刃向かえる人はいなかった。


「それから、今週は毎日残業をしてもらう。もちろん早出もだ。体調管理を怠らないように。以上だ」


 残業に早出って・・・・・・。


 始業は通常八時なので、早出となるとだいたい六時出だろうか。それに残業となると、終業は九時か十時。それで体調管理を怠るな、なんて無理にもほどがある。


「返事は」


 社長がわたしたち全員を睨む。


 か細い「はい」という声が、バラバラに続いた。

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