第12話 腐り落ちてしまう前に
その日は社長の言うとおり、早速残業となった。
十時過ぎまで続いた初日、他の人たちはまだ余裕があるようで、帰り際に「今週は大変だね」なんて話をしていた。
わたしはといえば、ほぼ寝ていない状態に等しいはずなのに体はピンピンしていた。ただ強くなったのは肉体だけのようで、疲れ切った頭は酔ったように思考が鈍い。
そんな日々が二日、三日と続き週の半ばに近づいた頃には他の人たちの余裕もなくなっていた。
毎日十二時間以上の労働を当たり前のように行って、平気なはずなどない。中には会社に布団を持ってきて泊まっている人もいたくらいだ。
昼過ぎになると社長が帰ってきて、毎日誰かを怒鳴りつける。営業なんてやったことない、残業が多すぎる、契約と違う。そういうSOSを、大きな声でかき消すことを、どうやら説教と呼ぶらしかった。はたから聞いていたわたしには、それが人を説き伏せるようなものには感じられなかった。
そうやって今日もいつも通り廊下が騒がしくなった頃、機嫌の悪そうな社長が扉を勢いよく開けて事務所に入ってきた。
新卒の女の子を呼び出して、ひどい言葉を浴びせていた。そこに気遣いや思いやりのようなものは一切含まれておらず、人の良心を踏みにじるような罵声にその子は完全に怯えきってしまっていた。
怒られている子の名前は
長い罵詈雑言が続いたあと、虎刺さんは別の仕事を言いつけられたらしく事務所を出て行った。
事務所が静かになると、再びタイピングの音が部屋を支配する。ため息を吐く間もなかった。
「おい! 田代!」
一瞬、わたしが呼ばれたのかと思いビクっとするが、どうやら社長の標的はわたしの隣に座る田代さんのようだった。
「お前がしっかりしないから他の人間がたるむんだ!」
バン! と社長が机を叩く。
さすがの田代さんも連日の疲れが出ているのか顔はやつれているように見てた。社長に対する返事もどこか頼りない。
田代さんは何かの役職についているわけではなかったが、この会社にいる時間が一番長いということで、何かと社員の統率役に回ることが多かった。それもあって、わたしを怒る人はだいたいがこの人に限定される。
「これで十七年間もチャラだな! チャラなんだよ。給料あげてほしかったらそれ相応の働きをしたらどうなんだ!」
大きな声に、田代さんは少し言い淀んでから、力なく頷いた。
「くひひ、いい気味だね。やなおばさんが怒られて」
するとどこからともなくサレアが現れて、相変わらずの悪魔らしい笑みを浮かべてわたしの目の前に着地した。
「ね、ざくろももっと喜べばいいのに」
サレアが正面からじっとわたしを見つめてくる。
わたしは田代さんが苦手だ。どこか会話のテンポも合わないし、口を開けばわたしを怒るか、嫌味のようなことを言ってくる。些細なことで怒鳴るし、なんでそんな言い方しかできないの? って苛立ったことが何度もある。
正直、わたしの精神を磨り減らした張本人は田代さんに他ならない。会社に行くときの憂鬱な気持ちの中には必ずこの人の存在がチラついて離れなかった。この人のせいだ。
わたしが苦しんだのはこの人のせいだ。
わたしが自分で自分の命を断とうとしたのはこの人のせいだ。
この人がわたしを殺した。
「あたしも見ててムカついちゃったもん、こんなおばさん。死んじゃえばいいのにね」
そう言ってサレアが指を指揮者のように、優雅ともいえる所作で動かす。指先が田代さんへと向くと、ぼうっと黒い光が灯った。
「だ、ダメ!」
嫌な予感がして、サレアの腕を引っ張る。
すると、突然近くの花瓶が割れて悲鳴があがった。
「な、なに!?」
飛び散った水があたりを濡らす。社長も驚いたようで、足を滑らせて体勢を崩していた。
花瓶は木っ端微塵になって破片は無情に横たわっている。間違いなくサレアの仕業だろう。あんなものがもし誰かに当たっていたかと思うと、ぞっとする。
鼻腔の奥で微かに鉄の香りがして、サレアを睨むと、あちらも同じようにわたしを睨んでいた。
「なんで邪魔するの」
「殺すのはだめ、だめ」
周りが割れた花瓶の破片を集めている中、わたしは小声でサレアに耳打ちする。
サレアは納得していないようで、口元を締めてわたしを見下ろした。普段笑っていることが多いサレアの威圧的な表情は、生き物として根源的な恐怖を覚えてしまう。
このまま「うるさい」と一蹴されてしまえばわたしにできることなどなかったが、幸いサレアはその指先を社長に向けようとはしなかった。
「ざくろの必死なお願いに免じて許してあげるけど、あんまり優しいと損するよ?」
低い声が、血を這うようにわたしの耳に届く。
「死ぬその寸前に、優しくしすぎたって後悔しないといいね」
サレアはそう言って、周りのコップを割ったり、新聞紙を破いたりしながら壁をすり抜けて消えていった。
めちゃくちゃ怒ってる・・・・・・。
サレアも怒るんだな、なんて場違いな感慨を抱いてしまうが、悪魔の死生観というのは、わたしたち人間とはやはり違うのだなと思い知らされる瞬間でもあった。
一時パニックになった事務所内だったが、ほとぼりが冷めると社長から帰れとの指示が出た。労いの言葉くらいかけたらいいのにと思ったのは、おそらくここにいる全員だろう。
掃除をして着替え始める。更衣室では、「今月から残業代出ないらしいよ」とか「○○さん辞めるってさ」などとネガティブな会話ばかりが飛び交った。
子供がいる人も帰りが遅くて弁当を作ってあげられないと嘆いていたし、医者通いしている人もいく暇がなくて腰が痛い。などと話していた。
あ、わたしは通院、これからどうしよう・・・・・・。
いきなり治りましたなんて言ったら、やっぱり精神的なものだね、なんて片付けられてしまうかもしれない。会社の人にだって、あまりにもわたしがピンピンしていたら今までのがサボりだったんじゃないかと思われてしまいそうだ。
明日から疲れたフリしたほうがいいかな、なんて考えてしまう。
「愚痴言ったって仕方ないでしょ! 明日もあるんだからさっさと帰る! 戸締まりも忘れないでよ!」
田代さんの一喝にその場の全員が押し黙り、黙々と着替えては足早に帰り始めた。
わたしも早く帰ろう。
気まずい空気を背に、わたしも更衣室を出る。
もうじき今年も終わる。振り返っても気分が下向きになるだけなので、外気の冷たさに憂うくらいにとどめておこう。マフラーに口を埋めて、身を縮めながら帰路に就く。
「うぅっ、ぐすっ・・・・・・」
会社の駐車場を横切ったとき、近くでハッキリと鳴き声が聞こえぎょっとして足を止めた。
周りを見ても変な化け物がうろついているだけだ。あれも悪魔なんだろうか。今度サレアに聞いてみよう
なんて考えながらキョロキョロしていると、会社の庭に人影があるのを見つけた。どうやら鳴き声の出所はそこらしい。
「え、虎刺さん? どうしたの?」
驚いた。庭に植えられた木のすぐ下で、虎刺さんがうずくまって肩を震わせていたのだ。ただごとではないと思い、わたしは柵を越えて庭に入る。
「大丈夫? どうしたの? みんなもう帰ったよ?」
矢継ぎ早に質問してしまい戸惑わせてしまっただろうか。わたしの気の利かない質問に、虎刺さんは腕の中から顔半分を出して、答えてくれた。
「社長さんに・・・・・・草むしりしてから帰れって、言われたんすよ・・・・・・」
悲しげな声が痛々しい。彼女の若々しいとも言える無邪気な明るさを知っていることもあって、わたしまで胸が抉られるようだった。
「そんな、もうこんな時間なのに。それに今夜は寒くなるって・・・・・・」
そこまで言って、虎刺さんの体が震えている理由が涙だけではないことに気付く。
「こんなところにいたら風邪引いちゃう。今日はもう帰ったほうがいいよ」
「でも、ここの草全部取り終わるまで帰るなって社長さんに言われてて」
「ここの全部って・・・・・・大人数でやっても半日はかかるよ。さすがに無理だって」
「やらないとまた明日怒られちゃうんで」
庭には多くの雑草が生い茂っている。除草シートを敷けばいいのに社長はそういう道具をあまり好んでおらず、放置した結果わたしの膝ほどまで雑草は伸びきってしまっていた。
「冷凍みかんが好きだったんすよ、小学校の頃」
虎刺さんが草を手でいじりながら独り言のようにつぶやく」
「うち母子家庭で、お風呂に入れない月もあるくらい貧乏だったんです。でもお母さん、給食費だけは必ず出してくれてて、そのせいでお母さんはいつもスッピンだったけど、すごく嬉しかった」
「そうなんだ、いいお母さんなんだね」
「はい。給食で出てくるご飯は家で食べるのとは全然違って、その中でも冷凍みかんが私の大好物だった。そのおかげで私は毎日学校にも行けたんす。だから、市内にその冷凍みかんを扱ってる会社があるって聞いて、すぐに書類を送りました」
虎刺さんの履いている靴はつま先だけがやけに磨り減っていた。彼女の前のめりな性格を表しているかのようだった。
「それで面接を受けたら一発合格! よっしゃあ! って喜びました。自分の好きなことを仕事にできる。あの日私が貰ったように、私も誰かを笑顔にできる。そう思ったんす。でも・・・・・・」
現実は上手くいかない。
言葉は続かなかったが、虎刺さんの言おうとしていることは嫌でも伝わってくる。
「先輩、私は大丈夫なんで、先帰ってていいっすよ」
虎刺さんは目元を拭って腕をまくる。それが虚勢であることは理解できるし、本気でやる気なんだなというのも、彼女の人柄から推測できる。
そっか、頑張ってね。
そうやってわたしも言われたとおり帰ってしまえば楽だったのだけど、どうにも先ほど見た虎刺さんの涙が、まるで割れた鏡を見せられているようでつい立ち止まってしまう。悔しくて、どうしようもなくて、訳も分からず流れる涙を、わたしはよく知っている。
その涙が残した爪痕が放置された結果、どこに向かっていくのかも、痛いほどに分かる。
同じ、なのかな。
境遇は違うかもしれない。コンディションだって完全な一致はしたりしないだろう。でも、歩いた道は、きっと同じだ。
わたしもやったんだから。わたしも通った道だから。愛の鞭なんて都合のいい言い方もできる叱咤激励は、はたして当人にとってどれほどの価値があるものなのか。
考えると、舐めたコンクリートの味が舌を通して蘇る。
「わたしも手伝うよ」
わたしは自分のマフラーを虎刺さんに巻いてあげて、同じように屈んで草をむしる。
電灯の明かりだけを頼りに、目の前の緑を引っこ抜く。道具もないので一本ずつ。もちろん軍手もないから、手は傷つき放題だった。乾燥が憎い。
「あ、あのっ、先輩! ほんとに、大丈夫なんで!」
「大丈夫な人は泣いたりしないよ」
泣いてすっきり、なんてあるわけないのだ。涙がどんどん溢れ出す。その時点で、とうに限界を迎えている。
わたしと虎刺さんが同じかなんて、それは分からないけど、同じだった場合が怖いから。
「違ったら言ってね」
そうやって一つ一つ、声に出して確認していく。溜まったものが膿んでからじゃ遅いんだ。
「大丈夫、っす。ありがとう、ございます・・・・・・っ」
虎刺さんもそれ以上強がる気はないのか、鼻をすすりながら作業を再開した。
それにしても、寒い。
体もさすがに、怠くなってきていた。サレアの言うとおり、魔力というものも無限ではないらしい。
なんとかできないかな。このまま寒さに耐えながら草むしりなんて常識的に考えて無理に決まっていた。
「あ、虎刺さん。ちょっとそこどいてみてくれる?」
気分転換じゃないけれど、もしかして、と思い立ち上がって見る。虎刺さんは一瞬戸惑った顔を見せたけど、すぐにわたしの言うことに従ってくれた。
「ええっと」
どうせこのまま地道にやっても終わらないし、そもそもこれは社長の嫌がらせに違いない。そんな傲慢な大人の意地に付き合う必要なんて本当にあるのだろうか。考えると、胸の奥がざわついた。
サレアがやっていた指の動きを思い出す。たしかこんな感じでくるくるぽん。
手探りで指を回す。
すると。
ボガン!
草どころか地面がめくれあがって、緑が吹き飛んでいく。むしるどころか、草木が地に還ったような状態だった。
茶色に変わった地面を見て、やりすぎた・・・・・・と自分の力に愕然とする。
誤魔化すように笑いながら虎刺さんを見ると、彼女はポカンと口を開けていた。
「じゃ、じゃあ・・・・・・終わったことだし、帰ろっか」
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