第13話 人間なんです

 翌日も同じように早出をして、朝礼で全員残業を言い渡された。しかし今日はそれに加えて、休日出勤も付け加えられていたので、阿鼻叫喚となったのは言うまでもないし、それを怒鳴り声一つで黙らせた社長のこともいつもの風景と言ってしまえばそれまでだった。


 声が大きいと得をする。それはすごく動物的だと思った。正論かどうかを無視してしまえば、途端に理屈が遠い存在となってしまう。わたしたちはそれを求めて頭を悩ませるのに、肺を膨らませて声を張り上げて済むのならそもそも会話というものが破綻しているように思える。


 チラ、と遠くの席に座る虎刺さんを見やる。どうにか出勤した彼女は、目元を赤く腫らしたままだった。いつもは整えてある前髪も今日は無造作に散りばめられていて、心の映し鏡のようにも見えた。


 業務の内容はどんどんと激化していき、体調不良を申し出る人が増えてきた。それも、社長の一喝でなかったことにされる。田代さんも田代さんで、社長に乗せられたように声を張り上げていた。なんでそんなに元気なんだろう。


 正直、わたしよりも元気に見える。悪魔を超えた人間。冗談にならないので、頭から振り払った。


 味のしないお昼ご飯を食べたあともノンストップで作業は続いた。


 もしわたしがこれまで通りの体でいたら、とっくに病院に送られているだろう。想像するだけで、消毒液の臭いが鼻を掠めた。


「おい!」


 また、社長の声だ。


 ここ最近で更にひどくなっている。聞くところによると奥さんに逃げられたことが原因でこのところ機嫌が悪いのだとか。噂の信憑性はどうであれ、自分の都合で人に当たっているのは、なんだかなあという感じだった。


 時折思うことがある。


 人間はストレスで寿命が縮むというけれど、そのストレスというものは基本的に外部から持ってこられる。しかも大半が人間からだ。


 ということはだ、わたしたちの寿命は、身近な人間によって毎日削り取られていることになる。それってなんだか、悔しい。


 なんでわたしの人生なのに、誰かに左右されなくちゃいけないんだろう。


 そう考えると、苛立ちにも似たざわつきが、胸の奥に広がっていく。


 それはわたしが当事者であったからかもしれないし、一度味わった、自分の身を自ら滅ぼすというあまりにも甚い行為を知っているからかもしれない。


 自暴自棄というのは、振り返ってみれば寄生虫に支配された虫のように、感情を持たない。意識を失う直前に流した涙が、それを物語っている。


「虎刺! お前昨日はすぐ帰ったようだな! 草むしりはきちんとやったのか!」


 絡まれているのは虎刺さんのようだった。怯えながらも、彼女は元気よく立ち上がった。


「はい! やりました!」


 わたしが地面をひっぺがしたあの後、虎刺さんは自分の手柄ではなく先輩のおかげだ、と言ってはくれたものの、他の人に手伝わせたなんて社長に知られたら虎刺さんがなんと言われるか分かったものじゃない。だからわたしの名前は出さなくていいよと言ったのだ。


 もちろん、ひっぺがした地面はきちんと二人でならしておいたのだけど。


「なに? 言っておくが俺は嘘を吐くようなヤツがなによりも許せん。少しの漏らしもないんだな?」

「は、はいっす!」


 虎刺さんの飾り気のない前髪がぴょこんと跳ねる。


 社長は虎刺さんを一瞥してから、のそのそとその鈍重な体を引きずって窓を開け放った。


 揚げ足の一つでも探しているのだろうが、社長の顔はあがらない。わたしと虎刺さんは目を合わせて「やったね」のようなアイコンタクトをとった。


 だが、どうもそのカンペキっぷりが社長の機嫌を損ねてしまったらしい。ピシャっと窓を閉めると眉間にシワを寄せたまま虎刺さんの前に立ち塞がる。


「やればできるじゃないか。そう、やればできるんだよ。言われればやるのに言われなければやろうとしない。それは頭を使っていないからだ。頭を使わないヤツはバカだ。お前たちも! やれできないしたことないと抜かして仕事をサボるが、そんなものが通じるか! できないじゃなくてやれ! 現にお前たちはこうして残業もできているじゃないか!」


 この場にいる全員が顔をあげた。


 それは、できないことを無理してやっていると言い換えられるんじゃないだろうか。


「社長、それは」

「お前は黙っていろ! 自分のことで精一杯のヤツに仕切ることなどできるか!」


 反論しようとした田代さんは、社長の言葉でシュンと萎れてしまう。あれほどわたしに怒鳴りつけた田代さんですら、この社長の理不尽な言葉には敵わない。


「これからは月に一度、このような週を設けることにする。いいな」


 周りがザワつく。


「静かにしろ! 仕事というのは儲けなければ意味がないんだ。毎日定時であがるなんてのは無能が仕事を見つけられていないだけだ! 仕事なんて腐るほどある。自分の仕事が終わったら新しい仕事を覚えるよう努力しろ! 社内の掃除だっていくらでもできるだろう! 忙しいのが当たり前なんだ!」


 社長の言うことは、経営者として正しいのかもしれない。わたしたちには想像もできない経済の循環が関与して業界は人知れず切羽詰まっているのかもしれない。


 間違ってはいない。だから他の人たちも、声高らかに反論することができない。


 でも、なんだろう。


 間違ってはいないのだろうけど、正解でもない気がした。


 社長の怒号はいまだ続いている。顔も真っ赤になり、手に持った新聞紙を丸めて何度も机を叩いている。


 すると、その机からニュルッとサレアが飛び出してこちらへ飛んでくる。なんだろうって思ってると、そのままわたしの後ろについて「くひひ」といつもの笑い声が聞こえた。


 わたしの椅子はくるっと回転して社長の方を向く。


「え?」


 次の瞬間。


 わたしは椅子もろともスイーっと移動して社長のふくよかなお腹に激突した。


 顔をあげると、目を丸くした社長と目が合った。周りの人たちも、唖然としてわたしを見ている。


 さ、サレア・・・・・・!?


 すでに姿は見えないが、今頃楽しそうに笑っているであろうということは安易に想像できた。


「牡丹山、どういうつもりだ?」


 社長の低く落ち着いた口調が逆に怖い。


「あ、いや・・・・・・これは」


 どうしてサレアがこんなことをしたのか分からない。どういうつもりだと問い詰めたいのはわたしも同じだった。


 でも、そんなこと言えるはずもなく、高圧的な視線に、返す言葉を探す。


 やっぱり・・・・・・苦手だ。


 男の人の目は肉食獣のように鋭く、漫然として揺るぎない。垂れた瞼から覗く眼光が、わたしの過去と、心を鷲掴みにする。


「こんなことをして、どうなるか分かっているのか」


 思いやりや気遣いなんて微塵も含まれない言葉選びに、恐怖と同時に嫌気さえさしてしまう。なんでわたしたちは、こうも相容れないのだろう。


 人と人は寄り添い合って生きていくなんて幻想だ。そんな素敵な関係を、わたしたち人間は一つたりとも築くことができない。できたとしても、それはいつか、ある日突然、自分の元を離れていく。


「・・・・・・って、んです」

「あ? なんだ? なにか言ったか?」


 声が思った以上に掠れる。緊張と恐怖で喉がくっついて離れない。


「みんな疲れてると思うんです、もう」


 手は震えている。どんなに超常的な力を手に入れても、根本的なわたしは何も変わっていない。


「疲れていたら、し、仕事も捗らないと思うんで、す。だって、休めないし、眠れないし、頭もボーッとして、判断力も、鈍って。そ、それなのに効率よくなんて、あ、の・・・・・・無理な話だし、残業だって、本当はなんの意味も・・・・・・」

「言いたいことはそれだけか?」


 社長の低い声に、ハッとする。


 社長は茹で蛸のように赤くなった顔でわたしを睨んでいた。ああ、火を点けるっていうのはまさにこういうことを言うのだろう。


 あとは爆発を待つだけ。巻き込まれたわたしは、どうなるんだろう。


 ドクン。


 嫌な、嫌な記憶が蘇る。


 だから男の人は苦手なんだ。


 怖い。威圧的だ。敵わない。勝てない。それなのに知性的ではなく感情的だ。


「ああ!?」


 なんの意味も含まない声で、社長がわたしを威嚇する。驚いて、ついわたしは顔をあげてしまう。真っ直ぐ社長と目が合った。


 殴られる、壊される。わたしはまたあの時みたいに、誰かを嫌いになる。


 もう、いいや。って、白旗をあげそうになる。


 けど、社長の後ろ。瞳に光をなくした虎刺さんが見えて、その手を下ろした。


 だめだ。


 頬で地面を滑るその鮮烈な痛みと、冷徹な重力に意識を押し潰される恐怖と苦しみを知っているわたしが、負けちゃだめだ。


「お前ちょっとこっちに――」

「に、人間なんです」


 喉が焼けるかと思った。


「頑張れば疲れるし無理をすれば倒れる、追い込まれて逃げ場がなくなれば・・・・・・死にたくなる。わたしたちは人間なんです。い、命があるのにまるで機械みたいに扱って、しゃ、社長のほうこそ」


 何を考えているんだ。


 尻すぼみになっていく声の先でそんなことを言ったんだか言ってないんだか。わたしもわたしで、頭が真っ白のままなのでよくわからない。


「あ、いえ・・・・・・だからっ、その、ちょっとでも、考えてくれたら・・・・・・」

「なるほど」


 俯いてしまったので社長の表情は窺えない。


 するとわたしの目の前にドン! と大量の資料が置かれて他の人に説明するよう社長は言った。


「だから疲れていない私が全部やりますと、そういうことだよな? 牡丹山」

「へ」

「みんなよかったな。牡丹山がすべてやってくれるらしい。牡丹山以外は、土曜は出てこなくていいぞ」


 おそるおそる顔をあげると、無表情を貫いた社長が見えた。その平坦な顔が、緊迫感を煽り、一層不気味さを助長する。


「えっと、これは・・・・・・ど、土曜日の分?」

「ああ、それもこの場にいる全員分のな。・・・・・・できるよな。ああ、違ったな。やれ。終わるまで家には帰るなよ」


 ここにいる全員分の仕事を。一人で?


「分かったな」

「は、はい・・・・・・」


 なんだか、とんでもないことになってしまった。

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