第26話 行きたい場所へ
弱気な言葉だとは思わなかった。それはサレアが、凜とした表情をしていたからだ。
「そりゃさ、自分が同じ種族とは違う道を歩んでるって分かってるし、それでは生きていけないってことも分かってる。でもそれはあたしが決めたことだし、それは本当に、後悔してないんだ。でも、もしどこかに間違った選択があったのだとしたら、それはあたしが、この世界に生まれたことだったのかもしれないって、そう思う」
吐き捨てるように、いや、吐き捨てたのだろう。きっとその言葉の矛先に、標的なんていらない。曇天に向かって叫ぶような、ひとつの存在による慟哭だ。
サレアは床に落ちた絵本を拾い上げて、ゆっくりとページをめくった。
「自分が生まれた世界にさ、全然色がなくて、和気藹々としたものがなくて、ただ機械的に生きる存在ばっかりだったから、絵本の中の物語を見たとき、鳥肌が立ったんだ。ああ、こんな素敵な話があるんだ。こんな風に、誰かを愛して、愛されて、笑うことができるんだ、って」
くひひ、と。表情を変えず、サレアは癖のように喉を震わせた。
「あたしが生まれるべきだったのは、この絵本の中だったのかもね」
パタンと絵本を閉じて、サレアが呟く。
「本当、くだらない世界に生まれちゃった」
「サレア・・・・・・」
「ざくろに、どうにかできるの? あたしを、絵本の世界に連れて行ってくれる? あたしに、幸せを教えてくれる?」
真正面から見つめられると、背筋が凍る。サレアの瞳は、この世界を完全に諦めている、そんな冷たさを宿している。それに射貫かれると、わたしまで、芯から凍りついてしまうようだった。
でも、ここで諦めたら、それは死ぬことと同じだ。命があるかないかという違いだけで、身を削るようなこの痛みは魂さえも蝕んでいく。
「わたしもね、本当にたまにだけど、自分の、女性しか愛せないってこと、人に言うとき、あるよ」
信頼してる人。大好きな人。
実際に出会った人から、インターネット上で知り合った人まで、様々だ。
悩みを共有できると思った。自分を偽ることもなく生きていけると思った。だから藁にも縋る思いで、自分をさらけ出した。
けど。
「みんな心配してくれるだけだった。大丈夫? いろんな人がいるよ。いろんな恋愛があるよ。珍しいことじゃない。変なんて思わないよ。そうやって優しい言葉で、同情して、慰めて、気を遣ってくれた」
それは多分、無自覚なんだ。わたしたちが過ごすこの世界は、集合生命体のように、日々変化していく。それは人の感情に揺られ、価値観を映すように。磁場のようなそれは、一カ所に集まって、渦を巻く。それが世界だ。紛れもない、大多数の賛同によってできあがった、偏見と常識による、差別のない素敵な世界なのだ。
「でも、我が儘かもしれないけどさ、わたしが本当に欲しかったのは優しさじゃないんだ。わたしはただ、みんなと同じように生きたかった。人の目をいちいち気にしないで、胸を張って、自分という存在を、恥じないように、生きたかっただけなのに」
それなのに、人は、わたしを異端な存在だと、かわいそうな存在だと、まるで、飛べない雛鳥をかわいがるようにして群がった。乱暴に差し伸べられる手は、雛鳥にとって、圧死の要因でしかない。
「どうせ世界なんて変わらないんだよ」
「じゃあ、あたしに変われって、ざくろはそう言うの?」
「サレアを引きずって、男の人の部屋に放り投げれば、サレアはまた、生きられるよね」
サレアはわたしを強く睨んで、胸元を掴んでくる。
殺気すら感じるサレアの迫力に、しかし動じず、わたしは話す。
「でも、そんなの嫌だ。サレアが無理して、泣きながら生きるのなんて、わたしが嫌だ。そんなの、死ぬのよりも辛い」
わたしを掴む手の力が緩む。
「ねえ、サレア」
「なに」
「サレアは、自分のこと、好き?」
「変な質問するんだね」
ソファの上で、わたしとサレアは向かい合う形になっていた。視線は交わらないが、指先は、互いを向いている。いつでも手を繋げるように、そんな気持ちを表しているかのようだった。
サレアがなかなか答えようとしないので、先にわたしが口火を切ることにした。
「わたしはね、わたしのことが大嫌いだった。不器用だし、すぐ失敗するし、体力もない。ずっと嫌だった。他の人は元気そうにしてるのに、わたしだけげっそりしてさ、具合悪そうにして、保健室に運ばれるの。今頃教室でなに言われてるんだろうって思うと、布団の中から出られなかった」
今でも消毒液の臭いを嗅ぐと、そのときのことを思い出す。
「運動神経も悪くてさ、準備運動すらまともにできなくて、わたしと組んだ子は必ず嫌そうな顔してた。一度にたくさんのことができないっていうか、特に球技とか壊滅的で、まともにできるのは水泳くらい。あとは本当、笑われるどころか呆れられるほどで、体育が嫌いだったし、そんな自分が、一番嫌いだった」
どれだけアドバイスをもらっても、それが実践できない。理解できない。しばらくすると、寄り添ってくれた人ですら、わたしの元を離れていく。
「おっちょこちょいっていうか、いっつも忘れ物をしちゃうんだよ。あとは、物を落としたり。なんでだろうって思っても理由は分からないし、どれだけ気をつけても気付けばまた忘れる。自分のこと、おかしいんじゃないかって何度も思ったよ。それで人に迷惑をかけることもあったから、もう自分は、人と関わらない方がいいんじゃないかとも思った」
人と会うことが怖くなった。普通の人と接してしまえば、普通じゃない自分が浮き彫りになるから。
「恋愛だってそう。好きな人ができて、ようやく付き合うことができても、上手くいかない。いつもあっちから、別れを告げられる。ああ、わたしは、誰かから愛されるには不十分な人間なんだろうなって、ようやく分かった。わたしは好きなのに、その思いが届かないもどかしさが辛くて、それでも、その辛さを紛らわすために人の肌を求めて、また、失敗しての繰り返し」
それがわたしの人生だ。
わたしという、変えようのない存在だ。
「本当、なんにもいいことない!」
「・・・・・・ざくろ?」
いきなり叫んだわたしを見て、サレアは驚いたように目を丸くしている。
「全然いいことなんてない! こんな世界大嫌い! 世界のどこを探しても、好きになれそうなものなんて一つも転がってない! あーあ! もう嫌になっちゃうよ本当に!」
どいつもこいつも、あれもこれも。なんでそんなにもカンペキなの?
どうしてわたしとは違って、そんなにも楽しそうなの?
どうしてわたしとは違って、世間に許されてるの?
分からない。
「好きになれる要素なんて一つもない。周りの人を好きになれ? 取り巻く環境を好きになれ? 仕事を好きになれ? ああ、あるよね。そういう、理想論。花も鳥も、魚も虫も、この世を取り巻くすべてのものが美しい。尊い。だから世界に目を向けろ、世界を好きになれ。そうすれば見える景色が変わってくる。笑っちゃうよね。そんなに、キレイなものが好きなのかな」
わたしは、シャツのボタンを一つ、二つ、外していく。
「わたしは、この世界が、大っ嫌い」
自分の胸に手を突っ込むと、掴んだ、白い糸をたぐり寄せる。
「でもね、だからこそ、わたしは、せめて自分くらいは、好きになりたい」
取り出したのは、激しく鼓動する、心臓だ。
「風邪ばっかり引くし、運動もできないし、おっちょこちょいだし、恋愛も下手くそだけど。それでもさ、ここまで二十年。一緒に頑張ってきた体だもん」
サレアはわたしの心臓を見て、何を思うのだろう。
「思い出せばさ、ちょっと頑張ってくれた日もあったよ。わたしが落ち込んでても、今日は頑張ろうぜ! って、無駄に張り切って朝から元気なときもあったよ。あれはわたしが、わたし自身を励まそうとしてくれてたのかもしれないよね。そうやって、弱いくせに、必死に生きようとしてくれてたこと、今思い出すと、すごく、この体が、愛おしく思えてくる。ねえ、サレア」
ぼうっと灯る光の中、影を作ったサレアに語りかける。
「サレアが教えてくれたんだよ」
「・・・・・・そうだっけ?」
「うん。サレアが、わたしに、メイクしてくれたの。わたしじゃ絶対似合わないようなメイク。でも、わたしが、してみたかった、メイク。小柄だし、顔も薄いから、大人っぽい女性になんてなれないんだって思い込んでたけど、サレアが、そんなの気にするなって、わたしにメイク、してくれたでしょ?」
「そんなつもりじゃなかったんだけどね」
「でも、おかげで、わたしはわたしを好きになれた。あの日、サレアを抱えて逃げたとき、いつものわたしなら絶対あんなことできなかった。それでもああして行動に移せたのは、あの日のわたしが、わたしのなりたかったわたしだからなんだ」
今でも、あのときのわたしを、わたしは褒めてあげたくなる。よくやった。よく転ばなかった。よく走り抜いた。たとえそれが、悪魔から貰った力なのだとしても、最初の一歩を踏み出したのは、わたし自身なのだから。
「だからわたしは、サレアにも、自分を好きになれるようになってほしい」
「それで、その心臓は、なに?」
「サレアにあげるよ、これ」
トクン、と手の中で脈を打つ心臓。
「これで、少しは持つでしょ?」
「・・・・・・あのね、ざくろ。それであたしが助かるわけじゃない。ただの延命だよ。そりゃ、心臓ごともらえば、生きることのできる時間は延びるけど、それだけだ。結果はなにも変わらない。それに、心臓をなくしちゃえば、ざくろはまた、人間の体に元通りだよ? それでも、いいの?」
「いいよ」
「よわよわな体だよ? また風邪引いちゃうかもよ? また倒れて、なにもかも、上手くいかなくて、それで、また死にたくなるかもよ?」
「大丈夫だよ。わたしは、わたしの体が好きだから」
「なんか、ヘンタイっぽいよ、それ」
サレアは困ったように肩をすくめるが、口元を柔らかく、ほころばせた。
それがたまらなく愛おしく、わたしはサレアを抱き寄せて、キスをした。
「忘れるよ、あたしと過ごした記憶も」
「知ってる。あの、男の、悪魔も言ってたね」
「いいの?」
「それは、すごく、寂しい」
「じゃあやめときなよ」
わたしは首を横に振る。
「それでも、わたしはサレアに、少しでも長く生きて欲しい」
「変なの、ゼッタイ損だよ、それ。もしかして、なんか企んでる?」
「好きな人に、損得もないよ」
「・・・・・・なにそれ」
「ごめん。わたし、恋愛下手だから。よく重すぎって言われる」
「くひひ、そうだね。ざくろは、下手くそだね。なにもかも」
「でもそれは、サレアもでしょ」
サレアが至近距離でわたしを見つめてくる。その瞳に、先ほどのような凄みはない。
「あー、なんで、あたし。ざくろなんだろう」
「どういう意味? それ」
「他にいただろー、って」
「うん」
抱きしめる。サレアがわたしの肩に、顎を乗せる。
「これじゃあ、お姫様と、お姫様じゃん」
「あ、わたし、お姫様なんだ?」
「うん、それで、あたしも、お姫様」
「そうだね、サレアはお姫様っぽい。ドレスも似合ってるし、我が儘だし、我が強いし、絶対に自分を曲げないし」
「そうでしょ? ずっと、憧れてきたんだもん」
サレアの両手が、わたしの肩に置かれる。真正面からサレアと見つめ合う。揺れるものが、あった。
「してよ。ざくろ」
「うん?」
「絵本、みたいなこと」
わたしは頷いて目を瞑った。
別に、引き寄せたわけじゃないし、自分から寄っていったわけでもない。
わたしたちは、わたしたちの行きたい場所へ。
重なるように、染まっていくように。
優しく、愛して、幸せを誓い合う、そんな、恥ずかしいけど、夢いっぱいの。
子供のような、キスをした。
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