第25話 わたしたちの、生まれた意味

 マンションに着いて、ソファにサレアを寝かせる。


 サレアは絵本を抱いたまま、わたしを見て笑っていた。


「くひひ、ざくろ。いろんな人に見られてたね。はずかしー」

「いいよ、そんなの」


 コートをハンガーにかけて、早速晩ご飯の準備をする。といっても、いつものホットケーキだ。わたしはわたしで、別の物を用意してもよかったのだけど、負い目を感じてそれはできなかった。


 それに、サレアと同じ物を食べているという事実が、廃れた関係をつなぎ止めてくれるような気がしたのだ。


 すっかり慣れてしまった手つきで盛り付けをして、絵本を食い入るように読んでいるサレアの前に持って行く。


「なんで、絵本?」

「好きだから」

「読んだことあるんだ」

「悪魔は魔力の使い方を覚えたら一度人間界に連れて行かれるんだよ。そこで人間の生活とか、人間の言葉とか、いろいろな物を教わるの」

「そこで絵本を読んだと」

「気になる?」

「え?」

「あたしが好きなもの、ざくろは気になる?」


 サレアが絵本から目を離す。細められた目は、素っ頓狂なわたしの言動を心待ちにしているようだった。


「うん。気になる」

「くひひ、教えない」


 サレアは意地悪だ。


 どれだけ体が弱っても、それは変わらない。ちょっとくらい弱い部分を見せてくれてもいいのに。サレアは相変わらず、わたしをからかってくる。そうして決まって、肩を揺らして笑うのだ。


 けど、そこがサレアらしいと関心するところでもあったし、わたしが憧れ、惹かれる部分でもある。


 何事にも、どんなときでも、自分を貫く。そんなサレアを、わたしはとっくに――。


「ホットケーキ、冷めちゃうよ」


 フォークで細かく切って、小皿に乗せる。しかし、サレアはそれを突っぱねた。


「要らない。どうせ食べられないし」

「食べられないって、なにそれ」

「もう喉を通らないんだ」


 それってもう、相当に体が弱っているということなんじゃないだろうか。


「柔らかくしてもダメ?」

「ドロドロになるまで柔らかくしてくれたら食べるよ。無理だろうけど、くひひ」

「できるよ、それくらい」


 小皿に乗ったホットケーキに魔力を込める。ドロドロの溶岩を想像すると、ホットケーキがぐにゃ、と形を変えて、そしてそのまま、液状になって溶けてしまった。


「余計なものを流し込みすぎなんだよ。形状の種類を変える。それだけでいいのに、ざくろは現実にあるものを想像するから、目的と思考がごっちゃになってる」

「じゃあ、どうすればいいの?」

「だからざくろには無理なんだって、諦めて」


 わたしはそのあとも何度も試したけど、やっぱりダメだった。わたしが失敗するたびに、サレアは満足そうに笑っていた。


 最後の一切れを、口に放り込む。


 味なんて、とっくに分からない。これが甘いのか苦いのか。噛みしめても舌から伝わるのはその脆さだけだ。咀嚼してしまえば、それは料理する前の姿に戻ってしまう。それはまるで、人間の生と死を表しているかのようで、不思議な感覚だった。


「サレア」


 口にホットケーキを残したまま、サレアを呼ぶ。


「これなら、食べられる?」


 動物も、赤ちゃんに肉を食べさせるときは一度親が咀嚼して柔らかくしてから食べさせるという話を聞いたことがある。


 口の中を指さして、あー、と声を出す。サレアはそんなわたしの口を見ると、少し怒ったような顔をして、わたしを押し倒した。


「ん、んんっ!」


 声が出せなかった。口づけとか、抱擁とか、そんな優しいものじゃない。獣が獲物の首を噛み締めるときのように、サレアは乱暴にわたしの口内をまさぐった。


 舌と舌が絡み合う。ざらざらと小麦粉の感触がして、脂のせいで普段よりも粘つきが多くなる。


 わたしの舌に付いたカスまでも、サレアは舐めとっていく。


 口の中からホットケーキがなくなっても、口内の交わりは終わらなかった。鼻先同士が何度もぶつかった。サレアの膝が、何度もわたしの臍下を押してくる。体勢を崩して腕がずり落ちると、わたしの髪まで引っ張られて痛い。テーブルに足が当たるとガシャン! と音がして、小皿に乗っていたフォークが床に落ちる。


 そんなに、怒らないでよ。


 わたしはただサレアに生きて欲しいだけなのに。


 どうして怒るの?


「ん、ぅ・・・・・・」


 喋りたい。伝えたい。


 でも、サレアはそれを許してくれない。


 思い通りにならない、もどかしさが、わたしの体を熱くする。


 気付くと汗をかいていた。前髪が額に張り付いて、気持ち悪い。


 口の中の感触にも慣れて、口づけ自体が機械的な行為に感じ始める。ただ舌同士が絡み合うそれは、惰性のようにも思えた。わたしはサレアに口を犯されながら、目を開けた。


 サレアは、そんなわたしにも気付かないで、必死にわたしの口を舐めていた。飢えた犬が、死骸の骨をむしゃぶり尽くすようだった。哀れだった。


 わたしはそんなサレアの背中に手を回し、彼女を抱きしめた。頭を撫でた。大丈夫だよって、言い聞かせるように。愛おしかった。


 サレアもさすがに疲れたのか、息を荒くし、汗を滲ませ、肩で息をしていた。ようやく離れる唇。近くで、サレアと目が合った。


「なーんにも、意味ないね。くひひ」


 サレアは無意味を喜んでいる。


 サレアは無価値を楽しんでいる。


 そして、哀しんでいる。


「無理に笑わないでいいよ、サレア」


 サレアの後頭部に手を回す。


「泣きたいときは、泣かなきゃ」


 今度はわたしから、唇を押しつけた。貪るようなものではない。互いの存在を確かめ合うような、重ねるだけのキス。


 サレアはさすがに驚いたのか、すぐに顔を離し、自分の唇を手で押さえていた。頬は、やや赤いか。わたしの思い込みかもしれない。でも、そんなサレアを、すごくかわいいって思った。


 サレアが離れようとする。わたしはサレアの腕を掴んで、引き寄せた。


 抱き合ったまま、動かない。サレアの確かな熱を感じながら、耳元で囁く。


「笑いたくないときに笑うのって、疲れるよ」

「なに? 慰めてるつもり? くひひ、ざくろのくせに、生意気だよ」

「違うよ。サレアにはただ、笑っていてほしいだけだ」

「嗤ってるじゃん、こんなに」

「それは笑ってるんじゃないよ。ただ、誤魔化してるだけ」


 その言葉が気に食わなかったのか、サレアはわたしの腕を振りほどいて退いた。いきなり力を出したからか、サレアの顔色はよくない。


「それ以上言うと、さすがのざくろでも、殺すよ」

「ううん、言う。サレア。辛いときはね、辛いって言わなきゃダメだよ。そうやって誤魔化して笑ってると、他の人は本当に、楽しくて笑ってるんだって勘違いするんだよ」

「あたしは楽しいよ。だって悪魔だもん。弱い生き物を貪るときは、嗤わないと。嗤って喰らい続けなきゃ、なんだよ」

「それはサレアが本当に思ってることなの? それならいいけど、もし誰かから言われたことなら、それは――」

「うるさい!」


 金切り声が部屋に響く。


「ざくろに何が分かるの? あたしは楽しい。あたしは後悔なんてしてない。あたしはあたしの生き方を誇ってる。それで死んでも、いいって思ってる。それなのに、辛いって? そんなわけないじゃん。あたしの生き方はあたしが決める。だから、あたしの死に際だって、あたしが決めたっていい」


 わたしは首を横に振る。


 サレアは目を血走らせながら、わたしの頬を叩いた。ジーンとした痛みが、顔全体に広がっていく。容赦はない。思い切り、ぶたれた。


 取り乱したサレアは、わたしの首めがけて手を伸ばしてくる。


「うるさいんだよ、うるさい。ざくろはいっつもいっつも、分かったような顔しないでよ、あたしは平気だ。あたしはこれでいい。あたしは痛くない。大丈夫だ。心配なんていらない。あたしは、まだ、全然――」

「死んじゃうんだよ!?」


 サレアの爪が頬を掠める。滲んでいく血を拭いて、わたしはサレアの手を掴んだまま叫ぶ。


「そうやって抱え込んでたら、自分で自分を殺しちゃうんだよ!? 考えれば考えるほど、どうすればいいのかわかんなくなって、もう全部諦めて、自分を責めた分だけ、心細くなっていって、正常な判断もできなくなる。誰も助けてくれなくて、辛い、苦しい、って、泣き叫ぶわけにもいかなくて、世界の波に耐えきれなかった自分を愚かだと思い込んで、こんな自分、生きていても意味がないって、思っちゃうんだよ!?」

「くっ、離して」


 わたしはサレアの胸ぐらを掴んで、ソファに押しつける。


「死ぬときって、すっごくすっごく痛いんだよ!? 身が引き裂かれて、心臓の動きが弱くなっていくのを自覚しながら、なにを考えると思う!? 褒めて欲しいとか、誰かに必要とされたかったとか、そんなことばっかり頭に浮かぶんだよ!? 承認欲求とか、自己肯定感とか、そんな、結局は心の中でしか生まれない形のないもののせいで、死ぬんだよ!? なにもわかんないまま、なんでだろうって疑問に思ったまま、人生がそこで終わるんだよ!?」

「それが、死ぬってことでしょ。生き物の命なんて、結局そんなものだ」

「でも、サレアはまだ救われたいって思ってるでしょ!」


 サレアの目を見てハッキリと言う。その肉食獣のような瞳が、僅かに揺れたのが見えた。


「絵本が好きなんでしょ!? 夢とか魔法とか、まだ信じてるんでしょ!? 誰もが笑顔で終わる、そんなハッピーエンドが大好きなんでしょ!? だったら!」

「だからそれが無理だって言ってるんでしょ! あたしはサッキュバスだ。見ず知らずの雄に跨がって、腰を振って、吐き出された汚水を腹に溜めて生きていくことしかできない生き物なんだ! それのどこに夢がある! 愛も幸せもない。恋い焦がれたその瞬間、あたしには死しかない。だってそういう生き物なんだから! 生まれたときにそう決まってるんだから!」


 叫んだサレアは、喉を押さえて激しい咳を繰り返した。


「ほら、あるじゃん」

「・・・・・・は?」

「サレアにも、吐き出したいことが、あるじゃん」


 わたしはもう一度、サレアを抱きしめる。今度は、叩かれることもなかった。


「強がらないでよ、サレアの気持ち、聞かせてよ。愚痴りたいことがあるなら、言ってよ。わたし、サレアの力になりたいんだ」

「なんで・・・・・・」

「サレアのことが、好きだから」


 ピク、とサレアの体が震えた。


「だから力になりたい。助けたい、サレアに生きて欲しい。そう思う」

「・・・・・・変な、生き物」

「よく言われる。それでよく、泣いてた」


 どうして周りと同じように生きられないのか。何度も悩んだ。それで何度も、周りから冷たい目で見られてきた。


 わたしはそんな自分が嫌いだった。


 肩を並べて歩けない自分が嫌いだった。


 なんで同じ人間なのに、こうも他の人と違うんだろうって、ずっと悩んできた。


 だから、分かる。


 サレアだって、痛かったはずだ。


 何も痛くないなんて嘘だ。大丈夫だ、なんて嘘だ。心配いらないなんて、嘘だ。後悔がないはずがない。世界に認められないまま死んでもいいなんて、心の底から思ってるはずがない。


「ねえ、サレア」


 努めて優しく、サレアに問いかける。


 包み込む体は、ひどく小さい。しかし、それを包み込む、ズタズタに切り裂かれた青いドレスは、すごくキレイだった。


「わたしが、いるから。聞かせて、サレアの本当の気持ち」


 サレアは体から力を抜いて、わたしの胸に顔を埋めた。


 頼りない頭頂部を撫でてあげると、サレアは本当に、本当に小さい声で呟いた。


「・・・・・・生まれたこと自体が間違いだったんじゃないかって、思う時があるんだ」

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