第4章

第16話 腹の底から嗤え

 *



 ――喰え。


 生まれたときには紫色の空が視界いっぱいに広がっていた。鬱屈とした世界は淀みあるまま果てなく続いている。そこに浪漫や美学なんてものは微塵も含まれておらず、生き血の滓や死骸の腐臭がガスとなり色を付けているだけだ。まったくもって、気の利かないというかなんというか、生かす気のない世界だと思った。


 思えばそのときからすでに、兆しはあったのだろう。


 あたしが成長して大きくなると、お父様は見たことのない世界へと連れて行ってくれた。


 そこには青い空が広がっていて、真っ白い一点の輝きが凜々と地上を照らしている。歩けば影は揺れ、寝そべると全身にほのかな温かみが広がる。


 ああ、温かい世界だと思った。


 ――喰え。


 その世界であたしは色々なものを学んだ。語学、倫理、世界を取り巻く仕組みを余すことなく、教えてもらった。


 中でもあたしが気に入ったのは絵本というものだった。


 漢字が少なくて読みやすいというのもあったが、なによりその物語が好きだったのだ。


 辛いことや理不尽なことに遭いながらも最後は笑顔で締めくくる。好きと言えば相手も好きと言う。愛していると言えば、互いに抱き合う。永遠の愛を約束して、そんな二人を周りの人はおめでとうと祝福し、鳥や魚までもが幸せに歓喜し、涙する。


 なんて素敵な話なんだろうって思った。


 キラキラと光るドレスや宝石、手を引かれて空を駆ける幻想的な光景。憧れなんて抱かなかった。ただ、それが当たり前で、幸せを願った先には当然のように絵本のような物語が存在するんだって、そう思っていた。


 ――喰え。


 夜中、あたしは見知らぬ一室にいた。


 身動きの取れなくなった男の人の上に、あたしは跨がっている。


「ねえ、お父様。知ってる? お姫様と王子様は永遠の愛を誓うの。すると宝石が光って、王子様は元の姿に戻るんだ。最後は王国も無事繁栄して、幸せな中二人はキスをするの。他にもね、とっても素敵な」


 ――喰え。


 お父様はあたしの後頭部を掴み、目の前の裸体に押しつけた。


 肌の密着、温もりの交換。けどそこに、愛はない。


「素敵な、物語が」


 ――喰え。


 両手を掴まれ、あたしは上下に揺さぶられた。月のヒカリが、結合部を映す。それはまるで、化け物が肉を喰らうようだった。


 ああ、そうか。あたしは、化け物なのか。


 臍下に熱いものが注がれる。粘っこく、雄々しい、あまりにも醜悪な生気が止まることなく放たれ、あたしの器を満たしていく。零れだしたそれは、シーツを黒く汚していった。


 ――何を泣いている。


 お父様の声だ。怒気を含んだそれは、あたしの髪を掴み、顔を上げさせる。


 ――嗤え。


 ヒクヒクと震える体は、体内を迸る魔力に歓喜しているかのように止まらない。


 ――餌を前にして泣く奴がいるか。嗤え。


 汗、涙。ありとあらゆる体液が混ざり合い、あたしの体を滴り落ちていく。


 ――餌に嗤え。搾取するしかない己を嗤え。忌々しい我が娘よ、貴様の生を、嗤え。


 あたしの体躯とは比べものにならないほどの大きい腕に掴まれて、ビクともしない。お父様とあたしは、違う。違うからこそ、あたしは泣いて、お父様はこんなにも怒っている。


「くひ」


 同種族間の交配から、まったく違う種族の悪魔が生まれる現象は、あたしを含め多数報告されている。そういった者は異端生物として処理されるか、自然の摂理に淘汰されていくのが常だ。


 そんな異端生物がまさか、魔王のはらわたから顔を出すなんて。


「くひ、くひひひひひひ」


 確かにもう、嗤うしかなかった。




 目を覚ますと、あたしはソファの上にいた。どうも寝てしまっていたらしい。


 押しつぶしてしまっていた翼を何度かはためかせて解す。うんと背伸びをすると、こたつから鼻提灯を膨らませたざくろが顔を出していた。


 今日は正月というらしい。テレビも付けっぱなし、みかんの皮も捨てないで、ざくろは口まで開けて眠ってしまっている。


 こういう無防備なざくろを見るのは初めてだ。彼女はいつも、何かに怯えるように神経を張り巡らせているから眉間からシワが取れないし、肩には常に力が入っている。


 膨らんでいる鼻提灯を指で突いても、ざくろは起きなかった。お疲れのようなので、ここは寝させておいてあげよう。あたしから悲鳴をあげて逃げるくらいの体力は残しておいてもらわないと困るのだ。


 それにしても、変な人間だ。


 自分で自分の命を断とうとしたくせに、今度は誰かを助けようと自分の身を削ってみせた。


 臆病なくせに、勇気もないくせに、脆弱なくせに。それでも泣きながら、誰かの役に立とうとする。虚空に手を伸ばすような正義は、人間の中でもひどく歪で理解しがたいものだ。

 

 同じ場所を行き来することを葛藤と呼ぶのなら、この人間はおそらく死ぬまで、その道すがらを気付くことなく彷徨い続けるのだろう。


「――来たか」


 ふと、玄関の先で気配がした。


 あたしは立ち上がって、ドアの鍵を開ける。


「ヨルカトン=ヘル・アーマゲウス。ここに件の人間がいるな。約束通り、処分させてもらおう。時間は取らせない」


 影よりも暗い髪が、瘴気を纏ってたなびいていた。深紺色の瞳の中には何色もの光が埋め込まれている。巨大な魔力の持ち主である証拠だ。


 造物の美形が無表情であたしを見据える。これも何度目になるだろう、ほとほと呆れる。


「はいどうも、ご足労のところ悪いんだけど、帰ってくれる? あんたにあの子を渡す気なんてないから」

「約束が違う。魂の混ざった人間は世界の狭間に多大な影響をもたらす故、処分すると決まっている。それに、罪滅ぼしも含めて貴様がここに派遣させられているこということを忘れるな」

「それはそうなんだけどー、なんかね、死にたくないみたいだから」

「なに?」


 廊下を見やる。その奥の部屋では、ざくろが寝息を立てている。


「やっぱり生きたいみたい。だからごめんね、その話はナシ。もう帰っていいよ」


 言うと、そいつはマントの中から大きな剣を抜いて切っ先をあたしの眼前に突きつけてくる。銀色の輝きに、あたしの顔が数個に裂けて映っていた。


「思い上がるなよ。貴様のような異端生物は本来死して然るべきなのだ。種も残さなければ戦うこともしない。ヨルカトン=ヘル・アーマゲウス。貴様は悪魔として生まれ、何を思う」

「くひひ、あんた達みたいな種付けするだけの淫魔風情には分からないことだよ、インキュバス」

「黙れ。崇高な我らと、搾取するだけの下等種族を一緒にするなサッキュバス」


 剣を握る手に力がこもっていくのが見て取れる。無表情の中にもしっかり悔しさや怒りの感情が眠っていることに安心する。


 あたしが嗤うと、インキュバスの体を無数の魔力が覆い始める。地鳴りすら起こしうるその強大な力が、彼の手に凝縮されていくと剣も赤く発光し震え出す。


「ヤるの? 勝てると思ってるんだ、あたしに」

「・・・・・・ちっ」


 しかし、すぐにその魔力はインキュバスの体内に戻っていく。押し引きを瞬時にできるのは、強者の証だ。えらいえらい。


「なに、別に今じゃなくてもいいさ。いずれ貴様の魔力は尽きる。それを見計らって、そうだな次はもっと大勢で来ることにしよう」

「それは楽しみだね、でもこの家にはもうこないでね。言っとくけどあんた、臭うよ? 餌の臭いは消してから来るのがマナーでしょ」

「餌を喰わない貴様に言われたくない、ヨルカトン=ヘル・アーマゲウス。・・・・・・それに、魔力を失った悪魔が最後どうなるか、分からない貴様ではあるまい」

「分かってるって、もう。心配してくれるのは嬉しいけどね。それから、あたしは『サレア』って名前なの。その長ったらしい名前はやめてくれる?」

「魔王様から受け継がれし冠名を捨てるとは、どこまで我ら悪魔を愚弄する気だ」

「愚弄したつもりなんてないよ。ただ、サレアの方がかわいいでしょ? 一応ね、アザレアっていう花から取った名前なんだよ。白のアザレアがあたしの髪に似てて、花言葉は『あなたに愛されて幸せ』なの。どう? よくない?」


 インキュバスが表情を変えないので、あたしは肩を竦めて言ってやった。


「まあ、否定と常識しか知らないあんたに乙女の気持ちはわかんないだろうね」

「貴様、いったいどこまで――」

「止まれ」


 一歩踏み出したインキュバスに言う。


「それ以上この部屋に入ろうとするなら、今ここでお前を殺す」

「・・・・・・・・・・・・」

「くひひ、あれ。もしかしてビビっちゃった?」

「・・・・・・今日のところはこれで失礼する。だが、ヨルカトン=ヘル・アーマゲウス。貴様はいずれ、淘汰される運命にある。この世界に、例外などありはしない」


 言い残された言葉は、さっぱりあたしの心に届かない。薄っぺらくて、芯を感じない。捨て台詞ってそういうものかもね。


 あたしは床に落ちた泥を払ってから、ドアを閉める。


 リビングに戻ると、ざくろはいまだに気持ちよさそうに寝息を立てていた。


「う・・・・・・」


 頭が一瞬フラッとして、飛行が停止してしまう。そのままゆっくり床に降りて、肩で息をした。


「くひひ・・・・・・ああ、なるほどねぇ」


 お腹が減るとは訳が違う。完全に断ち切られた魔力が、あたしの体を喰い漁っているかのようだ。ありとあらゆる臓器に、激痛が走っている。


 そのままソファに倒れ混んで、下で寝そべるざくろの体に手を差し伸べる。


 子供のような寝顔に、慈しみのようなものは生まれない。ざくろは困っている顔が一番似合う。驚いている表情も愉快で好きだ。そして、泣いている姿はひどく愛おしい。


 純粋な気持ちを抱けないあたしの劣情も、これはこれで、悪魔らしくていいのかもしれない。自分の感性に、疑問はなかった。


 それでも、その衝動的欲求に身を委ねることすらままならないのは少し、悔しかった。


 どうして愛するものを愛すだけじゃだめなのだろう。


 どうして食べたくないものを食べて生きなければいけないのだろう。


 どうして食べたいものを食べるだけじゃ体は満たされないのだろう。


 あたしの求めるものと、この体が求めるものは違う。


 夢を見たのが悪かったのかもしれない。


 あたしが絵本の中の素敵な物語に魅入られて、本当の愛とか、心からの恋愛とか、かけがえのない幸福を望んでしまったから、こうなった。


「ざくろ、あたしはね。後悔なんてしてないよ」


 それでも、と思えるほどの魅力が絵本の中にはあった。お城に行ってみたかった。あたしもキレイな宝石を身に纏いたかった。ドレスを着て、最愛の人と一緒に踊って見たかった。一世一代の告白をして結ばれたかった。魔法が解けるほどの口づけを交わしたかった。


 大好きな人に、愛してると、ありったけの想いを込めて、叫んでみたかった。


 ――喰え。


 ぐちゃ。


「ああ」


 それを願うと、あたしの体は朽ちていく。捨てきれない熱情が、命を焼いていく。


「そうだね、後悔はしてないよ。でもね」


 完全に象られたこの世界で、あたしが一つ愚痴をこぼしてもいいのなら。


「時々、本当に時々だけどね」


 ざくろ、聞いてくれる?


「生まれたこと自体が間違いだったんじゃないかって、思う時があるんだ」

 

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