第7話 悪魔の囁き
始業のときに田代さんに怒鳴られて以降は、なんとか滞りなく作業を進めた。
時々化け物のことが脳裏によぎって、あれはなんなんだろう、どうすればいいんだろうと、当然の疑問を抱きはしたけど、それよりも大事なことで埋め尽くされたデスクの上で、わたしは張り付くように仕事を続けるしかなかった。
仕事は仕事だ。これをきちんとこなして、それ以外のことは帰ってからゆっくり考えよう。
浮ついた心を失い、消沈したものを思い出したわたしは、これまで通り、鬱屈な時間を過ごした。
午後になると作業は片付けや、明日の準備に取りかかる。わたしの主な作業は印刷物や商品のカタログの発注などだった。それ以外では手の足りないところへ手伝いに回ったりする。
今日は月末近くということもあり注文はそこまで多くなかった。比較的平和な業務となっていたのだが、会社の近くに停まったトラックの音で、社内は一気に騒がしくなった。
「え? このあいだの小学校からクレーム?」
田代さんが対応しているのを横で聞いてしまった。
この青果センターは主にお中元やお歳暮などのギフトを主に扱っているのだが、月に何度か、市内の学校に出る給食のデザートなんかも取り寄せたりする。冷凍みかんや、アップルシャーベットなどが対象だった。
それらはセンターで使っている箱を使用して学校へ送るのだが、どうもその箱に泥のような汚れが付いていたとのクレームが入ったらしい。
洗ってはいるものの使い回しているため、多少の汚れというか、染みのようなものが付いている場合はある。それでも本当に大きなものはなく、よく見たらあるなぐらいのものだ。それに、箱には袋をかけるのでそもそもクレームがくるほどの大きな汚れがあれば気付くはずだ。
不思議に思っていると、対応をしていた田代さんがわたしのほうへ歩いてくる。
話しかけられる。そういう雰囲気を感じただけで、背中に冷や汗が伝う。向かい合っていたモニターの文字もさっぱりわからなくなり、軽いパニック状態になってしまう。
「牡丹山さん」
田代さんはあまりわたしを名字で呼ばない。呼ぶときはだいたい、怒るときだ。
「先週の小学校への納品、箱はあなたが出してたわよね?」
「は、はい、そうですけど」
「その箱に汚れがあったってクレームがあったんだけど、袋かけるときに箱の中見なかったの?」
「えっと、見ま、見ましたよ。というか、以前もストローのゴミが入ってたというクレームもあったじゃないですか。その件もあって、一応、全部拭いてから使いました」
「そうなの?」
「はい、あと、それって金曜日納品のやつですか? 先週は小学校が続けて二校あったと思うんですけど」
「あったけど、じゃあなんで箱に汚れついてたと思う?」
「え、わからないですけど、とにかく、えっと、わたしが担当したのは木曜日なので、金曜日の場合でしたら、ちょっとわからな――」
「絶対汚れなんて見えると思うんだけどね、おかしいわよね」
「あ、はい。でも、洗ってないものがたまに混じってるときがあるって、あの、洗い場の人たちが――」
「え? 洗ってないの使ったの?」
「そ、それはわからないです。わたしのときはすでに出してあって、そこの使ってって配達の人がおっしゃっ――」
「でも拭いたんでしょ? じゃあ分かるわよね」
「はい・・・・・・」
「分かったわ、配達の人にはそう伝えておく」
田代さんはバインダーを抱えて、二階にあがっていった。
なんか、全然喋れなかったな・・・・・・。
伝えるべきことをすべて伝えられたかどうかは分からない。でも、クレームが入ったってことは連帯責任でもあるし、わたしも気をつけよう。
そう思って、いっそう身を引き締めたわたしなのだが。
夕方ごろ、クレーム対応、それから現物を引き取るために学校へ出向いていた配達の人が会社に帰ってくると社内は一気に騒がしくなった。
「牡丹山さんいるかね!」
やや訛りの強い大きな声は、配達の小出さんのものだった。男の人特有の野太い声で、事務所内が揺れたような感覚だった。
「は、はい」
「ちょっと来て! 早く、急いで」
吐き捨てるような言葉と共に小出さんは事務所を出て行く。わたしは作業を中断して、急いであとを追った。
小出さんの向かったさきは商品を送る箱が積まれた倉庫だった。小出さんはわたしが来たのを確認すると、再び大きな声をあげる。
「やっぱりこれ洗ってないよね。箱に汚れあったって聞いておかしいなって思ったんだよ。俺は洗った箱の場所覚えてるんだけど、そのまんま。そのまんまなのよ。洗ってないの使ってるの」
「あ、えっと」
いったいわたしはなんのことでここに呼ばれたのか、いまだに理解が追いついていなかった。
「そうだろうなとは思ったんだけど、現物と現場を見ないと返事はできないから、一度帰って見てきますと学校さんには言ったけどさ、洗ってないの使ったんだろうなとは思ってたよ。もうハッキリ分かりました。これは洗ってません。覚えてるから。もうそのまんま」
小出さんは怒るというよりは、やや笑いながら、呆れたように言う。
「ちゃんと洗ったの使ってくれる。洗ってない箱使ったら汚れ付くに決まってるわ。当たり前。なにをどうしたって付きます。そんなの考えれば分かるじゃん」
「あの、わたし・・・・・・」
わたしはそもそも箱を出していない。し、箱もわざわざ全部拭いてから使ったのだ。だから汚れなんて付くはずないのに。
「嘘ついちゃだめだよ牡丹山さん」
「え・・・・・・」
「箱拭いたなんてさ、嘘はダメだって」
大きい声で、呆れるような顔。だけど視線は真っ直ぐ、わたしを刺すように鋭い。
男の人の声は苦手だ。太く低いそれは、どうしたって怖い。とくに大きな声を出されると、昔からわたしはすぐ萎縮してしまう。
小出さんは一歩離れた距離から、わたしを睨む。男の人の血走った目が、怖い。でも、目をそらしたらわたしが嘘を吐いていることになってしまいそうで、目を逸らすわけにはいかなかった。
そもそも、嘘ってなに? 小出さんに事態がどう伝わって、わたしが今どういう立場にいるのか、何一つ理解できていない。
「だから嘘はだめだって」
「う、うそって・・・・・・あの」
「拭いたんでしょ? 箱」
「ふ、拭きました」
「だから嘘吐くのやめなよ。もう子供じゃないんだから。それで学校さんが汚れあったって言ってるんだから。あなたは箱を拭いてもないし、見てもないの」
「そ、そんな、わた・・・・・・あ、木、曜日、二日続けてあったじゃ、ないですか、それじゃ、なくて」
「洗ったの使ってください。分かった? 我々はきちんと洗ったのはこっちに置いてるんだから。もう場所は覚えてるの。そのまんま、そのまんまなのよ。あなたたちは洗ってない箱を使ったの。嘘なんてすぐバレるんだから」
「え、ち、ちが――」
「あなたは嘘ついたの」
普段温厚な小出さんの、言い聞かせるような声色が辛い。
細くなった眼光には、わたしを責めるものが含まれていた。目を離したくはない。目を離せば本当にわたしが嘘を吐いたことにされてしまう。
きっと田代さんに話したことがいろんな人を介している間に間違ったものに変わってしまったのだろう。それがそのまま小出さんに伝わってしまった。だから小出さんはわたしが嘘を吐いたと思っている。
でも、怒りすら感じる今の小出さんに、それを説明できる勇気はなかった。
ずっと目を合わせていると、視界がぼやけてくる。
泣くな、泣くな。
そう思いながらも、頬に粘り気のあるものを感じ、それが顎を伝い床に落ちていく。
それを見た小出さんは諦めにも近いため息を吐いた。
「給料もらってる以上仕事はきちんとして、それだけ。お願いします。はい」
小出さんは吐き捨てるように言って、去って行く。
整然とは言えない小出さんの足取りを眺めながら、わたしは悔しさのあまり、自分の唇を噛む。
最後まで、誤解されたままだった。
わたし、箱はきちんと拭くようにしてたのに。みんな面倒くさがってしていなかったけど、わたしだけは、きちんとやり方を守っていたのに。
それなのにどうして、誰よりもきちんとしていたわたしが誰よりも怒られるの?
悔しい。
悲しい。
理不尽だ、こんなの。
拳を握ったまま、流れる涙が止まらない。
『ヤっちゃいなよ』
――え?
『ムカつくんでしょ? じゃあヤっちゃえばいいじゃん』
どこからともなく、声が聞こえた。
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