11
まだ、早朝の静けさが町全体に漂っている時間帯。日中はあれだけうるさいセミたちも、まだ活動を始めていない。
「……おはようございます」
空調の利いた、物の少ない、広いマンションの一室。彼女は電話口で朝の挨拶を告げる。
きちんと櫛(くし)の通された髪。しわ一つない衣服。ピンと伸びた背筋。早朝とは思えないほど身なりが整っている。
「……はい、大丈夫です。……それで、あの……出来れば私も……」
スマホを支える彼女の華奢な両手に、緊張で力がこもる。
「……はい。あの、でも……。いえ……。はい、分かりました……。はい。問題ありません。失礼します」
通話が切れる。
彼女は黙って、スマホの画面に表示された名前を見つめた。
いつからこの人がこんなに遠くなったんだろう。
本当は一番近かったはずなのに。
何がいけなかったんだろう。
ああ、多分あの時だと思う。
全部、全部、自分が悪い。
こうなったのも、こうなっているのも、全部。
始まりの根元で絡まった糸は、先端をどういじくったって、もう、絡まりは取れないのだから。
彼女は諦めのため息を一つ、不甲斐ない自分に対してこぼした。
休み時間を利用して、海一はある人のもとを訪れていた。
この学校に潜入して数日が経つが、任務内容である個人情報流出事件に関して一向に何の手がかりもつかめていない。
SS本部からの当初の指示では、この学校のセキュリティルームのメインコンピュータを一手に管理しているのは、デジタルセキュリティ主任の黒川という教師だという。元大手IT企業勤務という経歴から任命されたらしい。あらゆるアクセス権限は彼にあり、何をするにも彼のマスターアカウントの承認が必要になるという。だからこそ、彼が最重要被疑者として浮かびあがったのだ。
黒川に対し、盗聴器による身辺の調査、手荷物の捜索、車に発信機をつけて行動調査、空き授業や放課後の監視など、SS本部にご丁寧にも指示された方法で調査を続けてきた。
これを続けていれば、必ずどこかでぼろが出るだろうと。海一もそう思っていた。SSとして基本的な捜査方法だ。
だが、現状では依然として何も分かっていないわけで。
海一は、もしかしたら調査の方向性が間違っているのかもしれない、と思い始めていた。
SS本部からは、疑われていることを察知されて逃亡を図られたり証拠を隠滅されたりするとまずいので、出来る限り本人への接触は避けてくれと言われていた。だがそれは、出来る限りであって絶対にだめと言われているわけではない。
屁理屈のようだが、最終的に事件解決に導くためには一つのルートでたどりつけるとは限らない。現場では自分で判断して臨機応変に行動するのも、SSの能力の一つだ。
そんなわけで海一は今、黒川の目の前にいた。
「他の先生から聞いたんですが、黒川先生がこの学校のメインコンピュータの管理者なんですよね? 僕はデジタル技術のことを勉強したくて、デジタル先進校であるこの学校に転入してきたんです。この学校のコンピュータのことなど、いろいろ教えていただけませんか?」
学校モードに自分を切り替えて、教師に好まれるよう誠実に言葉を繰り出していく。任務を円滑に進めるためなら別にこのくらいの演技はどうということはない。
職員室で一服していた黒川は、データで見た履歴書の写真と変わらない気の抜けたような顔でにっこり笑うと、
「ああ、ごめん。実はね、僕、パソコンのこと全然詳しくないんだよ」
と、あっけらかんと言い放った。
海一は声に戸惑いをにじませてみせる。
「ええと……黒川先生はたしか、以前はIT系の大手企業にいらっしゃったとうかがったのですが」
海一が、人から伝え聞いた風を装ってそう尋ねると。
黒川はどう説明しようか困ったように、寝癖だか癖毛だか分からないふんわりした頭を掻く。
少し声をひそめて、海一に近付いて喋り出す。
「それはそうなんだけどね……。大手ってなると、みんながみんなIT技術のスペシャリストってわけじゃないんだよ。僕はどちらかというと事務とか経理とかそっち系だったから、パソコンの専門知識はちんぷんかんぷんなわけ。でも、民間企業の勤務経験のない学校の先生たちって、そういうの分かってない人多いでしょ? だから“デジタルセキュリティ主任”なんて大層な役職を押し付けられちゃって……」
生徒相手にだいぶ大人の内情を話してしまっているようだが、黒川は気にせず続ける。
「セキュリティルームのコンピュータなんてあんな難しいの見ても何がなんだか全然分からないから、本当に何かあった時しか触らないようにしてるんだ。マニュアル見ながらね。ほら、変にいじって大変なことになったら、自分じゃどうにもできないからさ」
海一はその話を聞いて思う。ああ、スマホも利用方法と価値が分からない人にとってはただの小さくて薄い板なんだろうなと。
「マスターIDはほら、忘れないようにちゃんといつもここに貼ってあるんだ。あ、パスワードは言わないよ。いくら生徒相手でもね」
そう、どや顔で言ってみせる黒川に、海一は絶妙に爽やかな表情を作って返す。
誰でも見られるデスクに付箋で堂々と貼られたIDを見て確信した。この人はデジタルのことなど、ましてやセキュリティのことなど何も分かっていないと。
「というわけで、せっかく聞いてくれたんだけど僕には教えてあげれあれそうにないんだ。ごめんねぇ。ちょっと前までだったら詳しい人がいたんだけどなぁ」
そう惜しそうに付け加えられた一言に海一が反応する。
「その方と言うのは?」
「ん? ああ、教育実習で来てた子でさ。技術科の先生になるから僕が指導についてたんだけど、夏前にはいなくなっちゃったからなぁ。彼に聞けばもう少しためになることを教えてあげられたかもしれないんだけど……」
黒川の使った三人称で、その教育実習生が男であることが分かった。
「実は彼には僕も、パソコン関連のトラブルで何度も助けられたくらいなんだ。こっそりね。……ここだけの話、セキュリティルームのコンピュータで訳の分からない画面を開いて閉じられなくなっちゃって。僕は何も変なことなんてしてないんだよ? その時助けてくれたのが彼だったんだ。本当にすごいパソコン技術だったよ。ばばばばばっと操作して解決しちゃってね~。やっぱりこういうのは若い人には敵わないねぇ」
何もしていないのにパソコンがおかしくなった、とまるで被害者のように訴えるのは素人の常套句である。
人の良さそうな、逆に言うと間抜けそうな糸目でアッハッハと笑う黒川を前に、海一は心の中で方針転換することを決めていた。
職員棟からの帰り。海一が考え事をしながら廊下を歩いていると、進行方向側から何やらペチペチと音がする。
顔を上げて見るとこちらの方向に歩いてくる綾香が見えた。裸足のままかかとを外して、上履きの先だけつっかけて履いているので妙な足音がしていたようだ。
肩にかけた大判のタオルで長い濡れ髪をがしがしと拭いている。体育の授業のあとなのだろう。
綾香は海一に気づいていると思われるが何の反応も示さないし、視線を合わせることもない。
周りはちらほらとしか人はいないが、ここでは自分たちは他人。面識のない、他クラスの生徒同士。そういう人とすれ違う時と同じように、意識を払っていないふりをする。
だが。すれ違う直前の、その刹那。
海一は綾香にだけ見えるように手許でスワイプするようなハンドサインを送ってみせる。
綾香はそれに気づいて、一瞬だけ視線を合わせると、ほんの少しだけうなずくような仕草をみせた。周りが見ても気づかないくらいの小さな動作。
するとその時、クラスメイトの女子生徒が教室から出てきて綾香の手を引いた。
「あっ。綾香ちゃん、授業始まっちゃうよ。早く早く」
良かれと思って急かしてくれるその手を断るのは申し訳なかったが、綾香は片手で手刀を作ると、
「ごめんっ。ちょっとトイレ行きたくなっちゃった。授業さぼるから、適当にごまかしといてくれない?」
と、苦笑いでお願いする。
「えぇ~? また?!」
黒川の空きコマを追跡するために、海一と交互とはいえ結構な頻度で抜けているので、女子生徒も呆れ顔である。綾香は周りにさぞやお腹が弱いと思われているに違いない。
綾香も本当は保健室に行くとかの嘘を言いたいのだが、持ち前の元気っぷりがクラスメイトたちにばれているので、なかなか仮病をやりにくいのである。しかも、その後何事もなかったかのように教室へ戻ってこないといけないわけで。
その点海一は、元々のすらりとした色白さや落ち着いた雰囲気から、いつ保健室に行くと言い出してもなかなか疑われないし、しれっと戻ってきても特に何を言われることもない。
綾香は「ごめ~ん!」と再度謝ると、方向転換して教室から離れていった。
授業がはじまり、静まり返る校舎内。
綾香は誰もいない女子トイレの個室にこもっていた。新設されたばかりの校舎なので、トイレの中もかなりきれいだ。ちょっとしたおしゃれなショッピングビルのトイレなんかよりもちゃんとしているのではないだろうか。
綾香は制服の下から自分の携帯端末を取り出すと、SSの専用チャットアプリで海一との会話を開始する。
『どうしたの?』
『さっき黒川に話を聞きに行った。奴は確かにIT企業出身ではあるが、デジタル技術に関してはさっぱりらしい。今も極力、セキュリティルームのコンピュータには触れないようにしているとか。あくまで俺の見た限りだが、嘘をついているようには思えなかった』
『えー?! じゃあSS本部の見立ては間違ってたってこと?』
『かもしれない』
『でも、言われてみたらたしかに、黒川先生って全然セキュリティルームに近付かないわよね。在校中の自由時間はほとんど私たちが見張ってるんだから、そんな私たちが近付くところを見てないってなると、本当に全然近付いてないんでしょうね』
『それに、そもそも黒川のパソコン技術では、セキュリティルームのコンピュータから個人情報を抜き取るということなどできないのではないかと思う』
『ってことは、どういうことになるの?』
『外部からの不正アクセスの可能性も捨てられなくなってきた』
『外部からって、この学校のシステムはSS本部からも干渉できないって言ってたくらいじゃない。だからセキュリティを落とせないって』
『外部というのは学校の外という意味ではなく、セキュリティルームの外という意味だ』
いよいよ話が分からなくなってきて、綾香は自分の頭でゆっくり考えてみようとする。
けれども、綾香の理解を待たず、海一からは次々と発言が送られてくる。
『セキュリティルームのコンピュータは学校内のパソコンも統制していると思われる。学校内のパソコンがセキュリティルームのコンピュータにつながっているなら、逆に、学校内のパソコンからセキュリティルームのコンピュータにアクセスすることも可能なのかもしれない。技術がある人間であれば』
綾香は意味が分からなすぎて、文字を読む気もなくしていた。だから。
『糸電話で説明してくれない?』
と、至極まじめに送る。
少し間が開いてから。
『学校という閉鎖された空間がある。学校から外に糸電話は出ていないが、学校の中では糸電話のネットワークがある。セキュリティールームのコンピュータから、学校内にあるパソコンに糸電話が通してあると考えてくれ』
『セキュリティルームのコンピュータの糸電話から学校内のパソコンに喋りかけることができるなら、学校内のパソコンからもセキュリティルームのコンピュータに喋りかけることができるかもしれないということだ』
『え、じゃあそれで決定じゃない? 学校内のパソコンから自由にセキュリティルームのコンピュータに喋りかけて、情報を引き出すことができるんでしょ?』
『現実はそう単純には行かない。学校内のパソコンは管理される側。セキュリティルームのコンピュータは管理をする側、要は格上みたいなものだ。格下からは簡単に入ってこられないように、何重にもガードされているのが普通だ。簡単に入ってこられるなら、セキュリティの意味がないからな』
『なるほどね』
綾香は思考を整理する。
SS本部の指摘どおりでいくならば、セキュリティルームのコンピュータを管理していた黒川が怪しいとこれまでは思っていたが、パソコンの能力やデジタルの知識的に、黒川には犯行は難しいのではないかと分かった。
この学校のセキュリティールームのコンピュータは学校の外には通じていないが、学校の中のパソコンとはつながっているはず。
学校内のパソコンのいずれかで、何者かがどうにかしてセキュリティールームのコンピュータにアクセスし、個人情報を抜き出したのではないか、ということだろうか。
なんとか綾香にも分かってきた。
これからあらゆる小難しいことを全部糸電話方式で説明してくれたら助かるのに、と綾香はちょっぴり本気で思う。
『で、私は何をしたらいい?』
『SS本部から事前に受け取った学校資料を読み直していたんだが、学校側が把握している範囲だと、学校内でパソコンがある場所は生徒の授業に使うパソコン室、職員室、校長室、事務室。部活系だと、運動部の用具管理室用に一つ。あとは一部の文化系部室、だそうだ。今挙げた場所に現在も本当にパソコンが設置してあるか確認したい』
『俺は教室棟と職員棟を確認するから、綾香は部室棟を頼む。どの部活が所有しているのかに関してはデータがないから、部室のある全文化系部活を片っ端から当たってみてくれ。現在使われていなさそうなものも含めてだ』
『OK』
部室を一つ一つ当たるだなんて面倒くさいことこの上ない調査が、しかしながら綾香は自分の気持ちがわずかに高揚していることを感じていた。
ずっと停滞状態だった任務。やっと調査が進む手がかりをつかめた。
もう会話は終わったかな、と思ったところで、また海一から発言が送られてきた。
『あと、少々気になる人物がいて、俺は後ほどその情報をSS本部に問い合わせてみようと思う。詳しいことはまた話す』
一体誰のことだろうと疑問に思ったが、後で話すと言っているのだからそこは流すことにする。
綾香は、
『分かったわ』
と送ると、携帯端末をしまった。
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