「昼休みの茶番は何だったんだ」


「頭強く打って忘れて……」


 海一の冷たい眼差しから逃れるように、遠い目をしながら綾香が言う。


 今は放課後。日が長い季節ながら、もう夕闇に暮れ始めた時刻。


 学校が職員用の駐車場として借り上げている場所で、車で帰宅する黒川を張っていた。学校から少し離れたそこで、昨日黒川の車を調べておき、先ほど発信機をつけた。


 綾香と海一は現在、その駐車場近くの繁華街のビルの合間、薄暗い路地裏に身を隠して携帯端末を覗き込んでいた。


 携帯端末は黒川の車の移動ルートをリアルタイムに表示している。学校の駐車場から遠く離れ、既に隣の区のさらに隣へ抜けて行っている。途中どこかに寄る様子もなく、まっすぐに自宅の方向へ向かって行った。


「この分だと、今日はどこにも寄らないかしらね」


「今日は、というか、どこかやましい所に寄っているのかどうかさえも確定しないんだがな……」


 海一はこの手詰まりな状況に少々焦りを感じつつあった。


 いつも通りなら、怪しいと思われる捜査対象人物の手荷物を調査し、盗聴器を仕掛け、何日か尾行すれば、いくらなんでも証拠の片鱗みたいなものはつかめていた。


 しかし今回は、ただ日数が過ぎるばかりで、依然としてなんの手がかりも得られていない。


 海一が黙り込んでいる隣で、綾香が何かに気づく。


「あれ? あの人たちさぁ……」


 綾香たちがいる路地裏の、さらに奥の方。ぽつんと一つだけある古びた外灯のもとに、まるで夜の虫が光に集うように、たむろしている集団がいた。


 先ほどから遠くに人がいる気配は感じていたが、街中なんて人はどこにでもいるし、こちらも別に見るからにやましいことはしておらず、遠くにいる分には特に問題ないと気にしていなかった。


 だが、綾香はあることに気づいたようだ。


 綾香の言葉を受けて、薄闇の先へ眼鏡の奥の目を凝らす海一。


 彼の視力に代わり、綾香が光景を口頭で描写する。


「なんかね、見るからに不良っぽい男の子たちが何人か溜まってるんだけど、ウチの制服っぽいのよね~」


 暗いしかなり距離はあったが、遠目が利く綾香だからこそ分かったのだろう。


 薄闇の中で綾香が目を凝らし続けていると、さらにもう一人気になる人物をとらえた。がらの悪そうな学生服の生徒たちと共にいる、制服姿でない、派手な金髪頭の人。


「海一、なんか変な人が――」


「よぉ。こんな汚ねぇところで偶然だな」


 綾香のセリフをさえぎって気配なく現れたのは、やはり八剣だった。


 びっくりしすぎた綾香は口から心臓が出るかと思った。海一もやはり気づいていなかったようで、表情こそ驚いて見えないものの、携帯端末を操作する指先が止まっていた。


 八剣の気配を消す能力はかなり秀でていてで、SSとして人の気配に極めて敏感な綾香と海一ですら気づけないほど。足音や衣擦れの音、物音はもちろんのこと、息遣いまで消しているのではないかと思われる。


 綾香は今や、音もなく突然現れて驚かせてくるのものいったら幽霊か八剣か、とさえ考えている。


 驚きの衝撃でピクピクと半分死にかけている綾香を見てフッと笑った後、八剣は視線を海一に移す。


「澄ました顔して、頬のケガは大丈夫か?」


 海一はじっと八剣の視線を受けたまま、答えない。


「まあ、昔よりかはひどい顔してないな」


 そう言って八剣は嘲(あざけ)るような笑みを浮かべる。


「覚えてるぜ。SS就任直前の、最初の連絡会。俺もあの時、実は都合で関東支部の連絡会に出席したんだ。あの時のお前は――」


「……調査は、進んでいるのか」


 海一は、閉じていた口を開かされた。挑発には乗らない、声を荒げたりはしない。けれど、触れられたくないことがこの先に待っていたから、仕方なく八剣の思惑通りに、この言葉をさえぎらされたのだ。


 八剣は“勝った”とでも言いたげな嫌らしい笑みを口許に刻むと、「まあな」とだけ満足げに言い捨てる。


「大丈夫か、じゃないわよ! 八剣くん、海一にわざとケガさせたんじゃないでしょうね?!」


 なんとか衝撃から復活した綾香がプンスカしながら食ってかかる。


 しかし八剣はいつもと変わらぬ余裕の表情である。


「だとしたら何だよ? 神無月が弱いから悪い。それだけの話だ」


「はぁ?! そんなこと――」


 海一が弱いなんてことは絶対にないし、そもそも同じSSの仲間のはずなのにどうしてそんなことをするの。そう言おうとしたが、その先をさえぎられてしまったのは、ある人が姿を現したからだ。


「ん? 来たんか、冴木」


 八剣の背後から現れた冴木は、彼にペコリと頭を下げると黙って後ろにつき従う。


 八剣に噛みつかんばかりの勢いで迫っていた綾香を、冴木がその冷たい流し目で牽制する。


 綾香は冴木との朝の会話を思い出してしまう。二人きりで、「八剣さんに失礼な態度をとらないでください」、「分をわきまえない言動はよしてください」、と鋭い目つきで釘を刺された。


 冴木の登場によりしぶしぶ引いた綾香に、八剣の次なる牙が剥かれる。


「それより……ギャンギャン突っかかってくる川崎よぉ?」


 ニヤリと尖った犬歯を見せるが、目の奥が笑っていなかった。


「SS本部から聞いたぜ。お前、普通の家どころか、そもそも家族が一人もいないらしいな」


 綾香は目を見開く。


 頭から足先まで、体中をぞわりとする感覚が包み込む。


 まるで、みんなと同じように普通に生きていると思っていたのに、実はお前はもう死んでいたのだと突然現れた死神に教えられて、みんなと違う一人きりの死の世界に引きずり込まれたかのような。目の前が真っ暗になるような絶望感が襲う。


「ま、こんなことくらいじゃ驚きもしないし哀れみもしねぇよ。SSってのは特殊な秘密組織だ。お前のように天涯孤独だとか、身寄りのない奴なんて秘密が漏れなくて好都合だから、ワケありの奴は結構いる。別に取り立てた不幸じゃない」


 綾香は中学生になる直前に、父・母・妹の家族全員を事故により亡くしている。両親どちらにも身寄りがなく、そこをSSにスカウトされたという経緯を持つ。


 八剣の言うことは至極筋が通っていて、何も間違ってはいない。


 でも。


 彼の言うとおりなのだけれど。そうやってありふれた出来事として扱われるのが歯がゆくて。理由はうまく説明できないけれど、悔しくて。


「別に、そんなの、私……」


 同情してほしいわけでも、ましてや不幸をひけらかしたいわけでもない。でも、はたから見たらありがちなことでも、本人にとっては人生が変わるくらい、立っていた足場が突然なくなって奈落に落とされるくらい、つらくてつらくて、深刻なことなのに。今ここにこうやって立っていることだって、信じられないくらいの悲しみを乗り越えた結果なのに。よくある不幸だなんて、遠くの部外者にはそうとらえられてしまうのは、仕方がないことだと分かっているけれど。それでも。


 強がる綾香がなんと言い返そうかと、視線を地面にさまよわせて唇をわななかせていると。


 うつむいた綾香が気づかない、その横で。


「八剣……」


 海一は八剣に射るような鋭い眼光を向けていた。


 それ以上言ったら絶対に許さないと、八剣が今まで見たことのない、殺されるのではないかとさえ思わせる目つき。


 睨まれただけにもかかわらず、八剣は身の危険すら感じて、完璧に制御しているはずの自分の体が勝手にビクッと震えた。


 八剣の攻撃が急に途絶えたのを不思議に思い、綾香が顔を上げる。


 強がりの中に焦りをにじませた表情で、八剣は不本意そうに口を結んでいた。


 と、その時。


「あ? なんだてめえら!?」


「あの制服……同じ中学の奴らか?」


 路地裏の奥の方から、こちらに投げられる声があった。


「何コソコソやってんだ!? チクんのか?!」


「逃げんなこの野郎!」


 綾香が再度よく目をこらしてみると、彼らの足元には踏み潰された煙草の吸殻が多数ある。やましいことをしていたから、気が立っていたのだろうか。そんなにピリピリするのなら、隠れて煙草なんて吸わなければいいのにと思う。


 煙草なんかでいちいちチクってたら任務が終わらないわよ、と心の中でSSにあるまじきセリフを吐いた直後。


 大通りに続く路地裏の出口に向かい、瞬時に駆けた。


 戦闘能力の高いSSと言えど、闇雲に戦うわけではない。逃げた方が得策であると判断できるときは、迷わずそうする。今の場合、顔を見られるのが一番面倒だ。この距離とこの薄暗さならば、外灯のもとにいる相手からこちらの顔は見えていないはず。


 四人はそう即座に判断し、訓練された反射神経で駆け出した。


 不良学生たちも追いかけてくる。


 立っていた位置的に、先駆けは八剣になる。俊足の綾香も驚くくらい足が速く、あっという間に距離をとった。


 このまま走れば、顔を見られることなく問題なく逃げ切れるだろう。


 だが。


 いつの間に最後尾についていた冴木は足が遅く、あっという間に三人と間が空く。そして。


「うっ」


 何もない道に足を取られて転倒してしまった。


 体を打ったときの衝撃で漏らされた声に気づいた綾香が振り返り、倒れている冴木を視界に入れるとまっしぐらに駆け戻る。


 いち早く追いついた不良学生の一人が、冴木をつかまえようと手を伸ばす。


 駆け込んだ綾香は、路地の脇に積み上げてあったビールケースを蹴り飛ばした。派手な音を立ててビールケースのタワーが崩れ、冴木と不良学生の間に降り注ぐ。


「わあっ、何だ?!」


 突然のことで不良学生がパニックになった隙に、綾香は冴木の手を取る。


「立てる?!」


 急いで冴木を立ち上がらせようとする綾香に、別の不良学生の手が伸びる。


「やりやがったな、この野郎……!」


 崩れ落ちてきたビールケースで頭を打ったらしいその不良学生が、冴木でなく綾香を狙う。


 その腕を、顔を見られないよう背後に回ってひねり上げたのは。


 綾香が足を止めたことにいち早く反応し、事態に気づいて逆走してきた海一だった。


「いだだだだだ!!」


 そうこうしている間にもう一人の不良学生が追いつこうとしていた。海一は腕をひねり上げていた少年を、追いついた別の少年に向けて蹴飛ばした。二人が団子になって倒れる。


 異常を察知して、溜まっていた不良学生たちが次から次へとやってくる。


 仕方ない。相手も殺気立っているし、必要なら戦うしかないか。綾香と海一はそう覚悟する。SSが四人もいれば、この人数相手でも対応できるだろう。そう思って構えた。けれど。


 急いで戻ってきた八剣はなんと、よたつく冴木の手を引くと、綾香と海一を盾にしたまま一目散に走って逃げてしまった。


「は?!」


 信じられない事態に、綾香は驚きを隠せない。海一も思わず目を丸くする。


 まさか八剣と冴木がそのまま逃げてしまうなんて。


 しかし、驚いているからといって不良学生たちが止まってくれるわけはなく。


 海一は殴りかかってきた相手の拳を受け流し、素早く相手の腹に膝を入れる。なるべく顔は見られないように、薄暗い場所で、顔を伏せながら。


 同時に綾香も、自分につかみかかろうとしてきた相手の手をつかんで蹴り上げ、相手が走りこんできたエネルギーを使ってそのまま投げる。


 だが、先ほどまで倒れていた不良学生たちがまた起き上がりはじめ、これではきりがない。


 らちが明かないと判断した二人は、薄闇の中で視線を合わせてうなずきあうと、同時に腕時計に手をかける。学校のウォッチではない。学校を出てすぐにSS支給品の腕時計に付け替えている。


 男たちが顔を上げたタイミングを狙って、最大照度にしたライトを向ける。暗闇に慣れた目に、懐中電灯の光の直撃を正面からまともに二つも食らったようなもので、男たちは激しく目がくらまされる。


「うわっ!」


「まぶし……」


 その一瞬の隙を利用して、綾香と海一は再び路地裏を脱出すべく駆け出した。


 ここまでされては、いくら大通りへ逃げられたとしても、不良学生たちとしても捕まえなければ腹の虫が治まらない。夢中で追いかけてくる。


 だが、大通りに出た瞬間。何の打ち合わせもなく、二人は二手に別れて逆方向に逃げた。どちらを追うべきか迷った追っ手たちが戸惑っている間に、二人はぐんぐん遠くへ逃げ、都会の夜の闇に溶け、人ごみに紛れきってしまった。


 顔が確認できず、同じ学校の制服を着ていた、ということしか分からなかった以上、これ以上は探しようがない。


 不良学生たちは仕方なく、先ほどまで自分たちがいた外灯の下に戻る。


「――さん、すんません。追いつけなくて……」


 そう言って、ある人に頭を下げていた。


 その相手は、停めていた原付に腰掛けて、缶ジュースを飲んでいた。


「いいよ、相手しなくて。偶然路地裏に入り込んじゃったバカップルかなんかじゃないの? 別に何もしなくて良かったのに」


 あんなに強いバカップルがいるわけがない、と反論する気持ちは、この人物に従順な不良学生たちには起きなかった。


「特に問題なーし」


 軽い調子で言うその人の髪の色は、染められた派手な金髪。不良学生たちは所詮、中学生としての範囲内での不良。彼らの中でも金髪はきわめて目立っていた。


 不良学生たちは、目の前のこの人が怒らなかったことに至極安心して、おっかない外見と裏腹に胸をなでおろしていた。








 追っ手を振り切った綾香は速度を落として歩き、上がった呼吸を整えていた。


 いろいろなことが一気に起こりすぎて、頭の整理が追いつかない。


 八剣が現れたことによってうやむやになってしまったが、不良集団の中に居たやけに存在感のある金髪の人は何者だったんだろう。遠目だったから詳しくは分からないが、制服姿でないことは分かった。


 今回の任務には関係がないことだし別にそんなことを気に留めなくてもいいのかもしれないが、SSとしての癖か、はたまた自分の直感か。やけに気になってしまう。


 それよりも、八剣と冴木のこと。まさかあの状況で逃げてしまうとは思いもしなかった。あれだけ海一に弱いのが悪いだのなんだの言っていた、圧倒的な戦闘能力を誇るはずの八剣が、あの状況でまさか追っ手に背を向けるなんて。まさか、自分たちに押し付けて逃げてしまおうと思ったのだろうか。


 しばらく理由を考えてみたが、妥当な答えは出そうになかった。


 綾香は学校を出たあとに調査の邪魔にならないよう鞄などの荷物を預けておいた、近くのコインロッカーに足を向けることにした。


「あっ! そうだ。そういえば……」


 歩いているうちに、綾香は昨晩のある約束を思い出す。


 そして、口許に笑みを浮かべる。


 それはかわいらしい少女のほほ笑みではなく、悪魔の黒い羽と尖った尻尾が似合いそうな、悪巧みを考え付いたときの顔だった。

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