10
不良学生たちを撒いたあと。海一は一旦学校に戻り、黒川の机に仕掛けていたボールペン型盗聴器を回収し、それから家に帰った。
遠目からアパート室内の灯りがついているのを見て、綾香が先に来ているのだとすぐに察した。朝に合鍵を貸してあるし、彼女はあれからすぐにこの家に向かったのだろう。
だが、部屋の戸を開けた瞬間。海一は不測の事態に顔をしかめた。
室内から、外気よりも圧倒的な熱気と湿気があふれ出してきて、彼の全身を不快に包み込む。
「うう~……」
中からうめき声が聞こえる。
「綾香、いるのか?」
一歩中に踏み込んだ海一が目にしたものは。
「自滅したぁ……」
およそ夏に似つかわしくない、ある食べ物の刺激的な匂い。なんだか目も痛い。体感室温は四十度近くあるのではないだろうか。
そんな中に、狭い台所で開けっ放しの冷蔵庫に上半身をなだれ込ませて溶けている綾香がいた。
命からがらといった声で、
「笑わないで~……」
と訴えていた。
「……笑わないというか、笑えない。というより、笑ってる場合じゃない」
これまで見たことのない光景。今までの人生の中でも一位、二位くらいにわけの分からない状況に、海一の声は冷たく尖る。
冷蔵庫から顔を出して、暑さで真っ赤な顔をした綾香が、刺激臭に瞳をうるませながら言う。
「バカにしないで聞いてくれる?」
海一はその場に膝をついて、まっすぐ綾香の目を見て言った。
「安心しろ、常日頃からバカにしているから。そして今はいつにも増してバカだと思っている」
今に始まったことじゃない、と語る彼はいつになく誠実な眼差しで、この言葉に嘘が微塵もないことを証明している。
こんなところで普段めったに見せない真摯さを見せるなと、綾香は言いたい。言いたいけれどあまりの暑さに気力がわかない。
「昨日……課題を手伝ってもらう代わりに雑用をやれって言われた中で、ご飯作れって言ってたでしょ? あんたに散々こき使われてイジワルされたからやり返してやろうと思って、このド真夏に激辛キムチ鍋食べさせてヒィヒィ言わせてやろうかと思ったら……キッチンの換気扇の紐を引き抜いて壊しちゃうし、エアコンと冷風機のリモコンは探しても見つからないし……熱くて暑くて死ぬ……目が痛い……」
と、ヒィヒィ言いながら綾香が事情を説明した。
「えいっ。あ」と、力任せに換気扇の紐を引き抜いて壊す綾香が目に浮かぶようで、海一は悩ましげに指先で眉間を押さえる。
もともと暑く狭いこの部屋で、冷房も換気もせず、刺激臭あふれる湯気の出まくる鍋をやればこうもなるだろう。
海一はとつとつと語られる告白を黙って最後まで聞いていたが、話が終わると立ち上がって心当たりを探る。
するとすぐに発見できた。綾香が放り投げたであろう彼女の学生鞄の下に、エアコンと冷風機のリモコンが仲良く並んでいた。
何も言わずにじっと綾香を見る。
「かわいそうなものを見る目やめて……」
海一は出来る限りの換気をしたあと、エアコンと冷風機の二台体制で冷房を入れた。冷房が効いてくると、蒸し風呂地獄が天国に変わり出す。
溶けきった冷蔵庫の中身を整理しながら、淡々と言う。
「俺への嫌がらせとして料理を作ろうとしたと言うが、お前がうちで勝手に作ったんだから、責任を持ってお前も一緒に食うんだぞ。あと、換気扇壊すな」
暑さから回復した綾香はすっかり元通り元気になっていて、「はいはい」と軽くあしらうように返事をしている。
冷房がガンガンに効かされた部屋で気を取り直して、再びコンロの上の鍋に向き合っていた。
「まっ、部屋さえ涼しくなってくれたら夏のお鍋だって楽しいものよね。冬にコタツで食べるアイスみたいなものよ」
ルンルン楽しそうに鍋をかき混ぜている。
「お前はそれで俺をはめるつもりだったんじゃないのか」
「それはそれ、これはこれよ。先に味見いただきまーす」
一口、スープを飲んだ綾香。その直後、激しくふき出す。
「ぐふぅっ。辛い! 死ぬ……!」
ケホケホつらそうにむせる彼女の様子を見て、海一が近付いて鍋の中身を覗き込む。
その中には、身の危険を感じるような原色に近い赤色をした、どろどろした何かが入っていた。海一は、鍋の中に入れられる具材にかわいそうだと同情したのは初めてだった。
「……お前、この、おとぎ話に出てくる悪い魔女が作る鍋みたいなもの、どうやって作ったんだ?」
なんとか咳が治まった綾香が目じりに涙を浮かべながら説明する。
「え? 時期的にスーパーにお鍋の素が置いてなかったから、適当に本格キムチの素の瓶を三、四本ぶち込んでみたんだけど……」
海一は額を手で支えるしかない。
「一本でもそのままだと辛くて鍋にならないぞ。だし汁とかで割るんだ、こういうのは」
「作ったことないから知らないわよらないわよ~」
知らないならなぜまず行動する前に慎重に調べないんだ。そもそも知らないものをよく作ろうとするな。海一は言いたいことが山ほどあったが、
「食べられるものと食べられるもので食べられないものを作るな。どんな才能だ」
の一言にまとめることにした。
この任務中、話さないといけないことは山積しているのに、どうして自分はこんなバカなことを言い合っているのだろうと、海一は心底疑問に思う。
まさか八剣と冴木も同じようなことをしているのだろうかと考えて、いやそれは絶対にありえない、想像もつかない、と海一は思い直した。
「うーん……。何を足したらここから甘くなるかしら。私が飲もうと思って買ってきたイチゴのミルクティーならあるんだけど、思い切ってダバッと入れてみる?」
「料理に思い切りは必要ない。二百メートル全力疾走した直後に引き抜くジェンガくらい絶対に失敗するからやめておけ」
余計な手を加えてさらに事態を悪化させようとする綾香の手から調理道具を奪い、狭い台所から追い出した。
海一が同年代の男子とは思えないほど料理が出来るのは、前回の任務時に綾香も確認済み。素直に言うことを聞いて退場する。
料理を引き継いだ海一は、相方がバカである人にはそれ相応の手当てがつかないものかと、本気で考え始めていた。
その後、海一がなんとか食べられるようにした鍋を二人でつついていた。
綾香はそれをハフハフと口に入れては、水をガバガバ飲んでいる。おいしいはおいしいのだが、とにかく辛くて熱くて暑いのだ。激辛本格キムチの素数本をしたり顔で買った数時間前の自分を、どうにかして怒鳴りにいきたい。
時間を食ってしょうがないので、およそ会議には不適切なこの食べ物を囲みながらの話し合いになった。
現在の自分たちを取り囲む状況の間抜けさは自分たちが一番よく分かっているので、悲しくなるからあえて触れないようにした。
「……っていうかさっき、八剣くんたちがまさかあんな一目散に逃げちゃうとは思わなかったわ。前に絡まれたこともあるし、もっと好戦的な性格かと思ってたのに」
「まあ、あの場合顔を見られる前に逃げるのが得策だったと思われるからな」
綾香は口に箸を運んだまま、少し固まって思案すると。
「冴木さんのあの感じからしてさぁ……もしかしたら、冴木さんは走ったり戦ったりするのがあんまり得意じゃないんじゃないかしら?」
と、意見を求める。
海一は額に浮かんだ汗を拭って言う。
「それはあるかもしれない。彼女はSSとしてもかなり小柄な方だしな。一応、SSの選定には身長・体重や身体能力の最低基準があるはずなんだが、家柄があれば多少基準に満たなくてもなれるだろうからな」
そう言ってから、表現を少し訂正する。
「なれるというより……ならなきゃいけない、というか」
SS長官の息子として、SSにならなければいけなかった一人である海一がそう言うのなら、間違いないのだろう。
「そもそも、八剣くんはあそこで何をしてたのかしらね? 八剣くんの反応からして、途中で冴木さんが来たのは偶然みたいだったから、二人で居合わせたのはたまたまだったのかもしれないけど……。あんな路地裏、用もなく訪れるようなところじゃないと思うんだけどな。八剣くんも私たちと同じように黒川先生の車を追跡してたのかしら」
綾香は不思議そうに首をひねる。
海一は携帯端末を制服のポケットから引き出すと、先ほど路地裏で身を隠しながら見ていた黒川の車の進行ルートを改めて確認した。八剣に遭遇し、不良少年たちに追い回されていた間に帰宅していたようだ。黒川の車が何時にどういうルートをたどったのか正確に記録されていたが、やはり特にどこにも寄らず真っ直ぐに帰ったようだった。
帰路をたどりながら、海一は黒川の机に設置したボールペン型盗聴器に録音された会話をイヤホンで倍速で流しながら確認していたのだが、これも特に不審な会話はない。
調査すべき内容に関して、依然として何も分かっていない。
これまでSS本部に事前に指示されたとおりに、盗聴器の設置や尾行、車の追跡などの調査を続けてきたが、アプローチ方法を変えた方がいいのかもしれないと海一は思い始めていた。
「あと、そうだ。海一、今朝の盗難の話聞いた?」
神妙な面持ちで綾香が切り出す。
帰りや日中のゴタゴタですっかり話しそこねていたが、今日は朝一番に不穏なニュースが飛び込んできたのだ。
一年生のあるクラスで、貴重品の盗難があったという。
綾香はちょっぴり不安そうにつぶやく。
「この件って、手を出さなくてもいいのかな……?」
目の前で明らかな事件が起こっているのに、解決すべきはそれではないということ。
海一にもその不安はよく分かる。だが、海一にとっては不安というより不信感に近かった。
そもそも、これまでの任務の流れの後にこの簡単な任務に回されるというのも、いささか不自然なのだ。
事件が既に発生した後で、暴力性の強い事件でもなく、限りなく黒に近い容疑者が分かっていて、どう調査するべきかの具体的な指示もある。
すべては理由があって自分たちに回ってきたものなのだろうから任務内容に文句を言うつもりはないが、本来このくらいのレベルのものは一年目のSSが担当するのが妥当とされている。
二年目以降のSSでも、失敗続きのペアがリハビリとして比較的易しい任務に就くなどということはあるが、綾香と海一はこれまでのところ、なんだかんだ危ういところもありながら、なんとか調査や事件解決を完了し続けている。
それに、この学校では明確なイレギュラーがある。
一つの学校にSSが二組派遣されているということだ。SS本部がそれを把握していないはずがないので、どちらかに任務中止命令が出ていない以上、これは本部にとっては予定通りの事態なのだろう。
なぜこんな簡単な任務に、わざわざ二組ものSSが派遣されているのか。
何かこう、大きなことから目を逸らされているような違和感が、心の隅にずっとある。
「まあ……盗難騒ぎに関しては、わざわざ私たちが特に何かしなくても、この学校ならすぐに犯人がわかるのかしらね」
モヤモヤを晴らすように、綾香は楽観的なことを口にする。
なぜそう思うのか、と問う海一の眼差しに、綾香は当たり前のように説明する。
「だって、この学校って仮にも文科省肝いりの“デジタル先進校”なわけでしょ? セキュリティだって一級品。ウォッチがないと校門すらくぐれないし、校舎に入るのにも教室に入るのにもウォッチが要る。何よりあちこちに監視カメラがあるもの。内部の人間が犯行に及んでいたとしても、何らかの手段で部外者が入り込んでいたとしても、監視カメラに映らないで泥棒をするなんて不可能じゃない」
綾香と海一が授業を抜け出して空きコマの黒川をつけたり、学校を自由に歩き回る際に監視カメラに注意しているのは、あくまで不審な場面が映らないようにだ。
生徒が普通に歩いている場面が映っていてもおかしくない場所や時間帯の条件下では、逆に隠れないほうがいい。
映っているのがおかしい条件下の場合や、秘密の話し合いなどをしているときは映りたくはない。その時はカメラを意識してなるべく映らないように努める。
ただそれも、完全に監視カメラを避けることは難しい。防犯上カメラの多い場所では特に。
ましてや、思いきりカメラの監視下となる教室前廊下で、ロッカーを複数破壊し、中身を漁り、持ち出すなんてこと、どのカメラにも全く不審な映像を残さずに行うことなど絶対に無理な話なのだ。
だが、海一はその意見には同意を示すことができなかった。
綾香はまだこのことを知らないのだ。
「盗難発生の報せを受けて、各人で自分のロッカーを調べているときにクラスの女子たちから聞いた話なんだが……。実は二ヶ月ほど前にも同様の事件が発生しているらしい。前は二年六組のロッカーだったという」
「えっ? 前にもそんなことがあったの?」
綾香は何度も目をまたたかせる。
「らしい。そして、その犯人は未だ判明していないそうだ」
「うそ……。何で? こんなに監視カメラがあるし、入退室の記録もばっちり残るこの学校で、それっておかしくない? あ、学校側が犯人の正体が分かったことを隠してるって可能性はないの? 犯人が生徒や教師とかの身内だったから、大事にしたくなくて隠したままでいるとか」
「俺も噂話を聞いただけだから、そこまでは分からない」
納得いかない様子で唇をとがらせていた綾香が、今更こんなことを言う。
「手っ取り早く、一度夜に学校に侵入することはできないの? いつもみたいに」
そうなのだ。今回綾香と海一は、調査の定番である深夜の学校潜入を行っていない。
「セキュリティルームにある監視カメラの映像や入退室記録を見るのは難しいにしても、職員室なら職員会議の議事録とか、先生だけに通達された情報の履歴とか調べられるかもしれないじゃない」
海一は「今回は出来ないんだ」と、前に綾香が尋ねた時と同じ言葉を繰り返す。
「何校か前の任務で、セキュリティばっちりのお嬢様お坊ちゃま学園に潜入したときは、SS本部に頼んで夜中に学校のセキュリティシステムを一時的に全部落としたもらったじゃない?」
「あれは学校全体のセキュリティを外部の警備会社に委託していたから、SS本部もつけ入る隙があったんだ。この学校の場合、学校内だけで独立してセキュリティを管理しているから、外部からはどうにも出来ない」
綾香の頭の中は、はてなマークでいっぱいになる。
海一はどう砕いて説明したらいいか、しばし思案した。
「例えば……糸電話だと考えてくれ。前に潜入した学園と、セキュリティの会社が糸電話をしている。SS本部は二者をつなぐ糸電話の糸をつまんで、震えを止めることができた。これが前の学校でセキュリティを落とすことができた、ということだ」
「ふむふむ」
「だが今回の学校は、そもそも誰とも糸電話をしていない。だから止めることができない、ということだ」
かなり簡易化した表現のため、実際とはかなり異なる説明なのだが、綾香は天啓を得たかのようにぱあっと顔を輝かせて「なるほど!」と合点がいった様子だ。
「分かったわ。海一ってば、そんな幼稚園の先生みたいなかわいい例え話もできたのねぇ」
「幼稚園児レベルの頭の奴にどう説明すればいいか考えた結果こうなっただけだ。礼には及ばない」
か、かわいくないやつ。綾香は表情が引きつり笑いのまま固まる。
「そんなことより……」
深く息を吐いた海一は、机の上に視線を落とす。
「辛くて熱い……体の芯から暑い。どうするんだ、このちょっとしたクラス一回分の給食がまかなえるくらいの量」
それは、二人の目の前に依然として立ちはだかる大量の激辛キムチ鍋。悪い魔女が作るようなおどろおどろしい鍋と化していたあのかわいそうな物を、海一がなんとか食べられるくらいまで薄めた結果、大鍋になみなみ三杯分の量となったのだ。
「責任持ってもっと食え」
綾香の手元の取り皿の中身が少しでも減ると、まるでわんこそばのように海一に次々盛られてしまう。
「た、食べてるわよ~」
綾香も自分が撒いた種とはいえ、辛さと熱さと暑さで半泣きである。
真夏のおんぼろアパートで、汗をかきながら大量のキムチ鍋を胃袋に片付ける間抜けさ。八剣もまさか、敵視する名門神無月家長男がこんなことになっているとは夢にも思わないだろう。
「残したら鍋を背負わせてでも持ち帰らせるからな」
汗でずり下がった眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、レンズが白く光る。
いつもと代わらない落ち着いた声色に無表情だが、綾香からすると、大陸が丸々一つ氷河期に入りそうな冷たい声と表情に感じられる。
奴は本気だ。綾香は鍋を背負わされてヒィヒィ街中を歩く、数時間後の哀れな自分をリアルに想像することができた。
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