12

 放課後。綾香は部室棟をうろつくことにした。


 幸いなことにまだ部活動見学というカードを切っていなかったので、その体(てい)でいろいろと見てまわれそうだった。


 転入してすぐ、校舎内は一応すべて周ったので、部室棟に行くのは初めてではない。


 それでもやはり、この学校の特殊性には驚かされてしまう。


 この学校は敷地内の三つの建物から成る。生徒たちの教室がある教室棟。職員室や職員用ロッカールームなど、職員用の部屋が多く入る職員棟。残りの一つが、部室が多数入る部室棟だった。


 都心という立地の関係で横に広く取れないためか、建物はいずれも縦方向に伸びている。


 教室棟は六階までに生徒の教室が入り、その上の二階に理科室などの科目別教室が入った八階建て。


 職員棟は必要な部屋数が少ないので三階で収まっている。


 そしてこの部室棟は五階建てとなっている。この学校は各部活の自主性を尊重しており、同好会レベルで人数の少ない部活であっても部室をあてがってもらえるということで、部室数がかなり多いのだ。


 各棟はそれぞれ独立しており、入り口ではもちろんウォッチをセンサーにかざして自動ドアを開く必要がある。面倒といえば面倒だが、教室だけでなく廊下にもしっかり空調を入れている以上、このくらい気密性を保持できる方が空調効率的にも都合がいいのかもしれない。


 加えて、教室棟と職員棟は目と鼻の先なのだが、部室棟だけは校庭を挟んだ先にあり、少しばかり距離がある。教室棟から続く長い渡り廊下を歩いて行く必要があった。


 部室棟は放課後しか使われないし、校庭やプール、柔道場などの運動場が近い方が運動部にとっては便利なので、特に不満の声は上がっていないようだが。


 綾香は長い渡り廊下をてくてく歩き、部室棟へ向かった。


 渡り廊下では、ジャージに着替えて部活動の準備をしている何人かの知り合いの生徒と出会い、声をかけられた。


 「何してるの?」と訊かれたので、素直に「部活動見学に行こうと思って」と答えた。すると今度は「何部? 友だち紹介しよっか?」と言われたので、「文化部なんだけど……」と遠慮がちに言ってみたら、「嘘でしょう?」と笑われた。


 出会って数日しか経っていない子たちにも、綾香が文化部だなんて不似合いすぎるとすっかり見抜かれていた。


 部室棟入り口のセンサーにウォッチをかざすと、瞬時に反応して自動ドアが素早く開いてくれる。毎度のことながら、とても中学校とは思えないハイテクっぷりだと綾香は感心してしまう。都心の一等地にある大企業の自社ビルなどだったら、こういう機能も当たり前のようにあるのかもしれないが。


 入ってすぐ右手に向かう。一階の一番端にある運動部の用具管理室。部室のロッカー、ベンチ、机、椅子など、運動部共通で使う道具をパソコンで管理しているそうだ。部活用に持ち出す人はパソコンでコードを読み込み、申請すればいいらしい。ちらりと中を確認すると、確かにパソコンが鎮座している。


 文化部を当たっていくことにする。階段を上がり、上階へ。出入りの激しい運動部は下、文化部は上の方の階に配置されているようだ。


 全部の部室に入っていてはきりがないので、覗き見すれば済みそうな部活は、できるだけドアの窓や隙間から覗いて調べてみることにする。


 華道部。隙間から覗くと和室が広がっていた。どうみてもパソコンがある訳がない。


 囲碁将棋部。右に同じく。


 軽音楽部。学校の作り上防音がしっかりしているとはいえ、アンプから爆音で音を流しているのか、かなり漏れてくる。所狭しと楽器が置いてあり、パソコンを置くスペースなどありそうもない。


 演劇部。中で台本の読み合わせをしているようだ。部室というより大道具の保管場所となっているようで、特に電子機器はありそうにない。


 裁縫部。その名のとおり、室内で女の子たちが裁縫をしながらお喋りに興じていた。パソコンとは無縁そうだ。


 その後いくつかの部活をまわった。デジタル先進校にもかかわらず、パソコンがある部室はかなり少数派ということが分かってきた。


 どうやら生徒たちは、情報が必要になると生徒向けに開放されているパソコン室で自由に調べ物をしているようだ。ウォッチのIDを入力すればいつでも誰でも自由に使えるらしい。


 そして次は科学部。


 よりによってどうしてこの部活は窓から全様が覗き見づらくなっているのだろう。


 何人か男子生徒たちの姿が見えるのだが、人口眼鏡密度がすごい。それも、海一とは違うタイプの眼鏡。


 綾香が入ったら絶対に浮いてしまう。違和感がありすぎる。部活動見学だなんて嘘も絶対に通用しないと思う。


 綾香が科学部の部室の前で「うーん、うーん」と頭をかかえて悩んでいると。


「……川崎、さん?」


 遠慮がちに声をかけられた。


 それは綾香と同じクラスの文芸部の女の子二人組。二人とも眼鏡をかけている、三つ編みの三浦と、二つ結いの戸波だった。


「あれっ、三浦ちゃんと戸波ちゃん。何やってるの?」


 どちらかというと彼女たちの方が綾香に対して「何やってるの?」と問いたい状況だったとは思うのだが、控えめな彼女たちは聞き返すことなく答えてくれる。


「私たち、文芸部の部活動中で」


「文化部の回覧板を回しに来たんです」


 文化部に回覧板なる制度が存在したとは。どうやら文芸部から科学部に回すようだ。渡りに船とばかりに文芸部にひっついて、綾香も中に入れてもらう。


「科学部さん……。回覧板です」


 受け取りに来た科学部長の肩越しに、綾香はパソコンを二台確認する。


 文芸部の二人に混じって見慣れない顔があることを科学部長はかなり気になっていたようだが、踏み込んで尋ねる積極性もなかったようで、なんとか見逃してもらえた。


 外に出ると綾香は二人に感謝の言葉を述べた。文芸部の二人からすると、何にどう感謝されているのかよく分からなかっただろうが、「役に立てたなら良かった」と優しい表情を返してくれた。


「ところで、文芸部の部室ってパソコン置いてある?」


 突然の綾香の質問に、二人は面食らって顔を見合わせる。


「パソコン、ですか? 一応、一台ありますが……それがどうかしたんですか?」


 三浦が上目遣いに尋ねてくる。


 そんな不安な顔をされるとは思わず、綾香はわたわたと両手を振ってごまかす。


「いや、ちょっとね。全然大したことじゃないんだけど」


 すると戸波がこう教えてくれる。


「あっ。何か調べ物をするなら、パソコン室なら誰でも自由に使えるよ。学校がお休みの日曜日でも利用できるらしいし……」


「え、日曜にも使えるの? すごいわね」


 これもウォッチによるセキュリティシステムがあるからだろう。立ち入ってほしくない部屋や棟だけ、土日はセンサーにかざしても開かないように設定すれば、管理者が常駐していなくても生徒たちに自由に開放できる。


 と、そんな会話をしていたところに。


 下の階から上がってくる男の子たちの声が聞こえてきた。


 その中に、綾香の苦手な人物の声を聞き取る。


 絡まれたくなくて、「うひゃっ」と柱の影に隠れた。


 三浦と戸波は綾香の突然の行動に、目を丸くしている。


 声が聞こえなくなり遠ざかるのを、息をひそめてそのまましばらく待つ。


 もうそろそろ行ったかしら、と柱から顔を出すと。


 階段のところで綾香が出てくるのを待ち構えている男がいた。


「ぎゃっ!」


 自分の存在に気づいて綾香が身を隠したことなどお見通しとばかりに、がっつり綾香の方を見て足を止め、ニヤリと笑っている八剣だった。


 間抜けに驚く綾香を視界にとらえると、尻尾を踏まれた猫のような悲鳴に満足したのか、連れの男子生徒たちと上階に上って行った。


 八剣はやはり苦手だ。つかみどころがなさ過ぎる。反論したら壁に押し付けられたこともだし、海一にきつく当たるところも嫌だった。


 でも、一番困るのは、彼を強く責めるとそれを冴木が咎めることだ。どうしたらいいのか分からなくなる。


 柱に体を隠して顔だけ出しながら妙に神妙な表情をしている綾香に、三浦があることを思い出し、言った。


「あ……。もしよければ、部活動見学、されますか?」


 遠慮がちにモジモジと提案してきたのは、以前教室で綾香とお喋りをしたときにした約束を覚えていたからだろう。


 それはもちろん綾香も覚えていた。


 大体の部室のPC事情は調査できたし、文芸部にお邪魔するのも悪くない。


「行っていいなら、ぜひ!」


 見学と言ってもさほど見るようなものはないんですけれど、と断りを入れた上で、部室棟最上階の五階にある一番隅の突き当りの部屋に案内してもらった。


 部員が二人しかいないというのでかなり小ぢんまりとしているのかと思いきや、普通の教室の半分くらいの普通の部屋だった。壁沿いにメタルラックがいくつも設置され、資料用と思しき難しそうな本や、これまで制作したのであろう冊子や部誌が並べられていた。だが、新設校ゆえかまだ物が少なく、古い学校にありがちなごみごみとした部室の感じがまだない。


 戸波が「調理部からお茶もらってくるね」と出て行くと、三浦と二人きりになる。コンロや調理器具を持つ調理部が、つながりのある一部の文化部にその恩恵を融通してくれているらしい。なんとなくほほえましい交流だ。


 部室に物は少ないながら、三浦はいろいろなものを丁寧に案内してくれた。


 専用机の上に乗せられた立派なデスクトップパソコン。これでデジタル入稿を行うそうだ。使われていないモニターもいくつかおいてある。


 広めのテーブルの上にはノートパソコンが二つあり、これは戸波と三浦が執筆用に持ち込んだものらしい。


 メタルラックの本棚の中から、数冊抜き出し、自分たちが作った本などを見せてくれた。


「三浦ちゃんはどうして本が好きになったの?」


 何の気なく尋ねた綾香の質問に、三浦は少しだけ口ごもった。それは多分、建前の理由を話すか本当の理由を話すか逡巡していたのだろう。


「……私、小学生の頃、一時期なんですが、イヤホンが外せなかったんです」


 唐突な話に、綾香は思わず瞳をぱちくりさせる。


「耳の穴にはめ込む、ワイヤレスイヤホン、です。なんでもいいから、知ってる音楽を流し続けておくんです」


 たどたどしいながらも真剣にそう口にする三浦。綾香は姿勢を正して、時折うなずきながら話を聞く。


「ときどき、周りの音がどうしてもだめな時期があって、イヤホンをして他の音をシャットアウトしないと外を歩けなくて」


「喧騒の中とかじゃなくても?」


「はい。誰もいなくても、いても」


「耳栓じゃなくて、音楽の流れてくるイヤホンなの?」


「耳栓って、完全に音を消してはくれないんですよね……。小さい音がぼそぼそ聞こえてくるから、余計に気になって、それに集中しちゃって苦しくなっちゃうっていうか……。音楽がある程度の大きさで流れていれば、外の音は気になりませんから……」


 ふんふんと納得したように綾香が話を促す。


「学校からはすごく文句を言われたみたいなんですが、どうやら父と母が交渉してくれたみたいで……。つけたまま学校に登下校してもいいってことになったんです。学校内でも、必要があれば。だから休み時間は、イヤホンをつけてずっと一人でいて。クラスでも浮いちゃってて……」


 過去を語る三浦の目の奥が少しだけ輝いて見えた。


「そうしたら、母が『本を読んでみたら? 読むだけなら、耳は使わなくて大丈夫じゃない?』って言ってくれたんです。イヤホンをしたままで、母ともろくに会話もできない私を連れて、何度も本屋さんに連れて行ってくれました。私は本の世界に夢中になって……。もともと子どもの頃からデジタル機器関連が好きでいろいろいじらせてもらっていたこともあって、小説だったり専門書だったり、文字だったら何でも読みました」


 だからこそ三浦は、子どもながらにアプリ製作をしたり、パソコンを組み立てたりできるほどのデジタルの才媛に育ったのだろう。


 綾香が話を聞くのが上手だったのか、あるいは相性が良かったのか。三浦はらしくない饒舌さで、個人的な思いでも話してくれた。


「母に、『友だちを作れない娘でごめんなさい』って言ったら、『友人なんてその時になればなるようになるから、そんなこと気にしないの。あなたが毎日元気でいてくれたらいいのよ』って言ってくれて。今はイヤホンがなくても日常生活を送れるようになってるんですけど、あの時は本当にイヤホン生活が一生続くと思っていたから……。母が気にしていないって言ってくれて、すごく気持ちが楽になったんです」


 話し終えた三浦がとても温かい表情をしていたので、綾香も優しく目を細めた。


「……三浦ちゃんのお母さんは、やめられない行動をなんとかしてやめさせる方法じゃなくて、それをやってるからこそできる行動に目を向けてくれたのね。イヤホンしているからこそ、外出できるとか、心が苦しくないとか。イヤホンのことも、心の松葉杖みたいに思ってくれていたのかもしれないわね。……良かったわね、とってもいいお母さんで」


 そう言って綾香がほほ笑むと、三浦も珍しく白い歯を見せて笑ってくれた。


 思えば綾香の両親もそういう人たちだった。


 過去形でしか語れないことが本当に辛くて、悔しくて、いろいろなものに対してずるいと思ってしまうけれど。


 それでも、そんな両親の子どもでよかったと改めて思った。

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