20
翌朝。
昨夜のこともあり、妙に寝つきの悪かった綾香は眠りが浅く、早朝に目を覚ましてしまった。
もう一度寝てしまうと再び良い塩梅で起きられるか怪しい時間だったので、仕方なく早めの登校をすることにした。いろいろな要因や偶然が重なって、なんだか最近妙に早起きな気がする。
空はどんよりしていて、日差しがない分肌が焦がされるような暑さはないが、熱帯のような不快な蒸し暑さが全身を包んでくる。
背の高い校門を越え、大きなあくびを手で隠しながら、綾香はウォッチを使って教室棟の入り口を開けた。
無人とまではいかないが、人の気配が極端に少ない。今ここにいるのは、部活や委員会の用事などがある朝一番の登校組だろう。
自分のクラスの下足箱の棚に向かうと、そこにはちょうど冴木がいた。彼女は早朝登校組の常連だ。だが、彼女の場合は用事などではなく、意識が高く規則正しい生活をしている賜物だろう。
冴木は綾香に気づいているだろうに、反応を示さない。
出会った翌日に面と向かって自分に関わるなと言われているので、その振る舞いも分かりきったもの。綾香は聞こえないくらいの吐息をほんの少し漏らしただけだった。
冴木が自分の下足箱を開けた時。中から白い何かがパラリと落ちてきた。
何だろうと思って反射的に綾香も目で追うが、冴木はサッと拾って、制服スカートのポケットの中に隠してしまう。
これはラブレターだとか色っぽいものへの反応ではないな、と綾香はすぐに見抜いた。これを見つけた後の冴木の顔色はどことなく悪い。
しかも、よく見もせずに隠したことから、そこに何が書かれているか分かっていて、かつ部外者には見せたくなかったものだと思われる。
一体何なのだろう。綾香の目が、疑念で自然と細められる。
冴木は綾香の視線を振り切るように、そそくさと教室へ向かってしまう。
綾香も革靴を上履きに履き替えて、冴木を追うように教室へ。
すると。教室のドアをウォッチで開けたすぐそこには、一点を見て呆然と立ち尽くしている冴木がいた。
「……わっ! 何これ?!」
綾香が声を上げたのも無理はない。
冴木の目線の先には、倒されて中身を全部出された彼女の机。その上、教室のゴミ箱の中身が派手にぶちまけられていた。
驚きと衝撃でしばらく固まってしまったが、すぐに再起動すると綾香は机に手をかけて、教科書等を拾い集め始める。こんなショッキングな光景は、一秒でも早く冴木の目の前から消したほうがいい。
「ひどい……。誰かのいたずらかしら」
綾香のつぶやきに、怒りが混じる。
「一人で大丈夫ですから」
拒絶する冴木の声も、掻き消えそうにか細かった。だから、綾香はその一言は聞こえなかったふりをして、片づけと掃除をそのまま最後まで手伝った。
どう見てもターゲットの絞られたいたずら。めちゃくちゃにされていた冴木の机とは対照的に、他の生徒たちの机は一切荒らされた様子はなかった。
何かの意図を感じるが、盗み見た冴木の横顔からは何も読み取ることはできなかった。
それからというもの、綾香は朝から冴木のことを小まめに視界に入れて、存在を確認するようにしていた。さすがに、ここまでのことが立て続けに起こっておいて、不運な事故とは片付けられないだろう。
強く蹴られたようなロッカー。落ちてきた照明。不良たちにもしつこく絡まれて。今朝には机が荒らされてゴミまみれにされていた。
しかもそれはあくまで綾香が認識している範囲での話だ。綾香が見ていないところでは、もっと何かが起こっているのかもしれない。
邪険にされているのは分かっているし、本人もそれを歓迎しないだろうけれど、綾香は彼女の周りに注意を払わないにはいかなかった。
休み時間なども、トイレに向かう冴木のあとをさりげなくつけたりしていたが、見たところ八剣は特に気にかけている様子は見られなかった。他人のふりを貫いているのか、気を配っている様子を悟られにくいだけなのか。
そして。何時間目かの教室移動時のことだった。
冴木のことを気にかけてはいるが、本人に拒絶されている以上常にべったりそばにいるわけにはいかない。綾香は近くにいた女の子たちと適当にお喋りをしながら、教科書を胸にかかえて階段を下りていた。
ふと、綾香はペンケースを教室に忘れたことに気づく。取りに戻らなきゃと後ろを振り返った瞬間。
ちょうど数歩後ろの段を歩いていた冴木が、振り返った綾香に向かってふわりと落ちてきたのだ。
その光景は一瞬の出来事だったはずなのに、綾香の目にはスローモーションのように見えた。
危ない、と思う間もなく、綾香の体が冴木を受け止めるような形で落ちて、つぶされる。
段差という足場と、上から覆いかぶされていることでうまく受身が取りきれず、全身を激しく打つ。頭と首だけはなんとか守った。
「うっ……!」
周りが一気にざわつく。通行人も何があったのかと足を止めている。
周囲は冴木が足を踏み外して転んだと思っているだろうけれど、彼女の体格で転んでもここまで勢いよく下に転げ落ちてくることはない。おそらくは誰かに突き飛ばされたのだ。
綾香はすぐに起き上がって上の階へ犯人を追いかけて行こうとするが、倒れた時に背中を痛めたのか、うまく力が入らない。
覆いかぶさっていた綾香の上から、冴木がなんとか起き上がる。体を痛めたのか、苦しそうに目を強くつぶる。
「さ、冴木さん……」
何かを問おうとする綾香の声。
冴木は真っ青な顔で視線を逸らすのみ。
綾香は、こうなっては本気を出すしかないと思った。
放課後。
大半の生徒たちが部活動の準備にとりかかる中、冴木はいつものように一人帰り支度を済ませ、いち早く玄関に向かっていた。
他の生徒たちの廊下の喧騒など、違う次元で起こっていることかのように反応を示さず、淡々とした表情で抜けていく。
教室棟の入り口である、正面玄関にたどり着いた。緊張を感じながら、しかしそれを極限まで押し殺して、自分の下足箱を開く。
すると、やはりあった。無くあってくれと願った心の中の祈りも虚しく。
冴木は周囲を見回し近くに人がいないのを確認して、その白い紙を控えめにそっと開く。
『冴木怜。オ前ノシタ事ハ分カッテイル。――ヲ――スルカ、全テヲ黙ッタママ転校シロ。人ニハ絶対言ウナ。サモナクバ――……』
そこまで視線を進めていた冴木が何かを気取り、バッと後ろを振り返る。
そこにいたのは。
すぐ至近距離に立っていた、腕を組んだ綾香だった。思わず冴木は口をパクパクさせてしまう。綾香は何かを察したように、静かな眼差しをじっと冴木に向けていた。
これだけ真後ろにいて人の存在に気づけないということは、綾香が本気で気配を消すと冴木は本当に察知することができないのだなと改めて理解する。
海一の言うように、能力的にある程度の基準不足があったとしても、名家の子というだけでかなり下駄を履かせられるらしい。
冴木はとっさに手紙を隠したけれど、その片仮名の多いパソコンで打たれた文面は既に綾香の目に入っている。位置的にところどころ見えない箇所もあったが、おっかない内容だということは一目瞭然だった。
綾香の真剣な眼差しが、冴木を射抜く。
「冴木さん……。何か、あるのよね? 事情を話したくないのなら、無理に話させることはできないけど……」
ばつが悪そうにうつむく冴木に、綾香は決意をこめて言った。
「私、勝手にでもあなたを守るわよ。きっと八剣くんにも言えないことなんでしょう?」
見た限り八剣が彼女に気を配っている様子はなかったし、分かっているとしたら彼女を遠巻きにでも見守り、こうやって一人にはしないだろう。総合的に判断して、導き出された結論だった。
冴木からすると、いつもヘラヘラして見える綾香がいつになくまじめな顔をしていることで、十分に非常事態を看破されていることは分かっていた。
でも。
「い……いいって、いいって言ってるのに……どうして構うんですか……!」
震える声を絞り出して、冴木は彼女らしからぬ悲痛な声を上げる。
「そんな顔してる人、放っておけるわけないでしょ」
気づけば冴木の顔は恐怖に歪み、瞳がうるみ、手紙を覆い隠す手が震えていた。
綾香は少し腰をかがめて背の低い冴木の目線に合わせると、彼女の震える手にそっと手を重ねた。
「もしかしたら、冴木さんは私のことをあんまり好きじゃないかもしれないけど。SSうんぬんじゃなくて、ただのクラスメイトの川崎綾香だと思ってもらっても、それでもだめかしら?」
冴木は首を横に振りはしなかったが、うなずきもしなかった。
「じゃあ八剣くん、呼ぶ?」
その問いかけには首を激しく横に振る。
「なら今日はせめて、送って帰らせてよ。ね?」
綾香はどうしても今の彼女を一人にしたくなかった。
冴木がしぶしぶ承諾してくれたのを確認し、二人は共に帰路につくことになった。
いつも教室でチラチラと冴木の姿を盗み見ていた綾香は、彼女は毎日すぐに帰り支度をして教室を出て行くなぁと思っていた。だが、何かしらの任務をこっそり行っているんだろうなとも思っていた。自分だって帰ったふりをして放課後に職員棟の盗聴に張り込んだり、荷物を学校外に移動させておいて外で海一と落ち合ったりしている。
しかしながら、冴木はいつもこうしてまっすぐ家に帰っていると言う。少し不思議に思いながらも、自宅へ向かう冴木に続いた。
冴木は口数が少ないというか、そもそも何を話してもほぼ無視されるので、仕方なく無言で歩いていた。
曇天の下、黙りこくった二人が歩く。ちらほら見られる下校する他の生徒たちや、近所の小学生たちは、対照的なくらい賑やか。
二人の周りだけを覆うお通夜のような空気に耐え切れなくなって、綾香は何度目かの会話の糸口チャレンジに挑む。
「……冴木さんの住居って、学校徒歩圏内なのね。いいなぁ。私と海一なんて電車よ。八剣くんちもこの近所なの? 私たちの家ってすっごく離れてて、毎晩会うのが大変なのよ」
と、そんなSSのあるあるネタみたいな共通話題で仕掛けてみたのだが。返事はなかった。
やっぱり黙殺かとガッカリしたあと、少し遅れて冴木が口を開いた。
そのセリフは予想外の内容だった。
「……八剣さんの住居、行ったことがないので知りません」
「えっ?」
綾香は目を丸くする。自分たち以外のSSペアに会ったのはこれが初めてだが、そんな人たちもいるというのだろうか。いくら電話やネットがあるとはいえ、プライバシーの守られる場所で二人だけで直接会って、顔を合わせて打ち合わせや話し合いができないというのは、任務を進める上でかなり不利ではないだろうか。
「おそらく八剣さんは私の住居を知っているでしょうから、いいんです」
そう話す冴木の横顔はいつもどおりの冷淡なもので、言葉に特別な感情を感じさせない。
「もしかして……一緒に捜査してないの? 別々のことしてるとか?」
そう踏み込んだことを訊いてから、綾香は保健室で八剣が言いかけていた言葉を思い出した。“俺が一人でも完璧に任務を遂行できればいいだけの話だ”と、気になることを言っていた
「……課された任務を無事遂行できれば、それでいいんですよね。それに、私がいても、八剣さんの役に立てることはほとんどないですから」
淡々と話していた冴木の声に、どんどん尖りが加わっていく。
「見られたから分かってますよね。私、走るのも遅いから逃げ遅れるし、運動神経も良くないので喧嘩なんて絶対できないですし。昨日みたいなああいう場面だとすぐにフラフラして気絶してしまうし。じっと隠れていることが精一杯です」
そこまで言うと冴木は足を止め、綾香を振り返った。
珍しく真っ直ぐ見つめてくる、小柄な容姿にそぐわない、大人びた切れ長の眼。
「……自分がいてもいなくても同じって辛さ、あなたに分かりますか?」
面食らった綾香が何も言えないでいると、冴木は「失礼します」と軽く一礼して、そばにあった高層マンションの中に入って行ってしまう。きっとちょうどそこが彼女の家だったのだろう。
綾香は声をかけることも追いかけることもできなかった。残り香のように置いていかれた気まずい空気が、彼女を動きにくくさせていた。
一人になった冴木はマンションの門をくぐり、エントランスを抜ける。一人きりでエレベーターに乗ると、誰に言うともなくポソッとつぶやいた。
「でも私、今回は違いますから……」
その二つの瞳に燃える青い炎は、危うい思いつめ方をしている人に特有のぎらつきを宿していた。
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