19

 夜の会議のため、綾香は数日ぶりに海一のアパートを訪れていた。


 パソコンの画面を見つめている海一の横顔を盗み見ていると、昼間に八剣が話した自分が知らなかった頃の海一の話を思い出してしまう。


「……制服盗難の話だが。警察に通報はされたものの、先週末に職員会議で話されていたようにやはり公にはされないそうだ。一応、生徒のプライバシー保護の名目でな。今日の放課後、職員室の盗聴器で聞いた」


 急に話しかけられて驚いた綾香。深く考え込んでいたためとっさに言葉が出てこなくて、「えっ? あっ、そうかもねっ」と、ちぐはぐな返事をしてしまう。


 振り返った海一は何を言うでもなくただ視線を向けて、長くて深いため息をついた。


 口に出されなかった彼の台詞が、綾香には聞こえてくるようだった。どうせ心の中でボロクソ言っているに違いない。


 綾香はわざとらしい咳払いを一つして、よく喋る海一の目を黙らせる。目がうるさいだなんて人生で初めて思ったかもしれない。


「……それから、お前がクラスで聞いたという気になる発言を調べてみたが、たしかに以前にも女子制服の盗難はあったようだ。二ヶ月ほど前だから、以前の貴重品盗難の時期と重なるな」


 海一はまたあの学校用の外面を使って、クラスメイトたちから聞き出したのだろう。


「この学校、短期間に盗難事件が多すぎない? 私たちが転入する前に、貴重品盗難が一件。制服盗難が一件。私たちが転入してからも、貴重品盗難と制服盗難が一件ずつ。計四件も起こってるのよ?」


「しかも、いずれも犯人は分かっていないようだ。職員会議の内容によると、不思議なことに監視カメラに犯人が映っていないそうだからな……」


 今までの情報を頭の中で整理して、黙って考え込む二人。それによってふいに一瞬あいた間に、きっと二人とも同じことが脳裏をよぎっていただろう。


 これは自分たちに指示された任務とは関係がないことなのだ、と。


 それは分かっている。自分たちに課せられた任務は、二ヶ月前にあった個人情報流出事件の犯人と目される、デジタルセキュリティ主任の黒川の調査。


 それでもやはりSSとして、目の前で起こっている事件を無視して放置することなどできるはずもなかった。もしそれができるのなら、二人はSSとしてとっくの昔に失格でさえあっただろう。


 難しい謎を解くような顔で腕を組んでいた綾香が、アッと思い出す。


「ところで、この間あんたが本部に請求した資料って何だったの?」


 いろいろな騒動が相次いで起こったため、このことについて話す機会をすっかり逸していた。


 海一はファイルを開いて、パソコンのディスプレイにに表示させる。


「一、二ヶ月ほど前に教育実習生として来ていたという大学生、増渕だ。黒川から聞いた話によると、こいつもセキュリティルームのコンピュータに触れることができた一人だったそうだ」


 綾香は画面に現れた増渕の経歴と、照明写真と見つめあう。


「うーん?」


 ふちの太い黒縁眼鏡に、撫で付けるようにセットされた黒髪。


 なんとなく見た気がすることもないこともないこともない、という感じ。照明写真なんて個性は殺されるし、三割増しで指名手配犯のような顔になる。みんな似たような雰囲気になるのだ。


「どう思う?」


 海一に感想を求められた綾香は、一言、


「……うさんくさい顔」


 と、素直に言った。


 海一は、自分がこの男の写真から感じた詐欺師のようないかがわしさは、やはり間違っていなかったと確信する。


 情報請求に関してSS本部とひと悶着あり入手が困難だったことは、話がややこしくなると思ったので端折ることにした。何より、そうなると宮乃に直接連絡して資料を送ってもらったことを話さなくてはならなかったし。SS本部からのイレギュラーな指示形態のことなど、こういうややこしいことはとりあえず自分個人で調べておこうと海一は思っていた。


 その後、二人の話し合いは夜の十一時過ぎまで及んだ。


 盗難事件に関して、お互いに見たこと、聞いたこと、知ったことを報告しあい、情報を整理した。


 その中で、冴木の身に起きた出来事も俎上(そじょう)に上がる。


 照明落下のアクシデントは、事故ではなく意図的なものであった可能性が高いと、海一は目撃した情報を交えて意見を提示する。


 綾香は昼休みに冴木が上級生に当たり屋のような行為を受け、絡まれていたことを話した。自分が間に入ったこと、気を失った冴木を保健室に連れて行ったこと。


 中でも一番気になっていたことも伝えた。


「その三年生のがら悪い男子生徒たち、なんか見覚えあるなぁと思ったのよ。前に路地裏で煙草吸ってた不良たちに追いかけられたことあるでしょ? そこにいた顔っぽかったのよね」


 あの薄暗い中で、しかも結構な人数がいたので、全ての顔を認識できているわけではないが、綾香の目の良さなどを考えると気のせいと一蹴することはできなさそうだ。


「まさかとは思うけど……あの時に冴木さんが顔を見られて、その仕返しで絡まれたってことはないかしら?」


 海一は腕を組み、あごに指先を添えて思考する。


「あの距離とあの暗さでは、おそらく無いと思う。というより、万一顔を見られていたとしても、立ち位置や接触時間の長さ的に俺か綾香だろう。冴木はずっと顔を伏せていたし、八剣に連れられてすぐに立ち去っていた」


 やはりそうか、と綾香は自分が推測していた理由の一つを手放した。


 だとしたら、なぜあんなに執拗に絡まれていたのだろうか。冴木は物静かで、どちらかというと存在感が薄い方。目立って何かの標的にされたとは考えにくい。ただ彼らが無作為に選んだだけの、気まぐれの憂さ晴らしだったのだろうか。


 会議の最後に一応、黒川の机に設置した盗聴器の音声と車に取り付けたGPSを確認したが、やはり特に変わったことはなかった。このことで、二人はSS本部の指示した捜査方針が間違っていたことを確信したのであった。










 海一宅での話し合いが遅くまで及び、いつも使っている路線のバスが終わってしまった。最寄の電車も上り方面は運行を終了している。


 遠くはあるが歩けない距離ではないので、仕方なく徒歩で帰宅することにした。


 スマホに地図を表示させてルート検索を始めた綾香を、海一が「この辺りの道なら分かる」と制する。


 任務開始前に家の近所を下調べしていたとしても、綾香の家までは結構な距離がある。迷わないで歩いていけるのかしらと少し不安になったが、彼がそう言うのだからと、先に玄関を出た海一に黙ってついて行くことにした。


 家から一歩出ると蒸し風呂のような暑さが二人を包む。これでまだ夏本番の手前というのだから恐ろしい。湿気で一瞬にして肌がべたついた。


 住宅街を抜け、大通りへ。陸橋の下のトンネルを抜ける。車通りの激しい道も、この時間帯となるとさすがに台数を減らしている。乗用車が減り、長距離トラックのまばらな姿が目立った。


 川にかかる橋を越え、広い敷地に立派な建物が立ち並ぶ高級住宅街が見えてくる。門の隙間から見える車庫には、もれなく高級車がずらりと並んでいる。


 ここまでかなり歩いてきた綾香は、熱帯夜の暑さにやられて何度もため息をこぼしている。


「八剣くんたちは家が近いだろうから、打ち合わせ楽そうでいいなぁ」


 自分たちの家がぼろく、さらに互いの家の距離が遠いのは、同じ学校に関西支部のエリートペアたる八剣と冴木が派遣されているからというのは明白だった。


「八剣くんたちってどのくらい証拠をつかんでるのかしらね……。そもそも、二組のSSが足並みもそろえずバラバラに調査するって効率悪そうじゃない?」


 制服のブラウスをパタパタさせて胸元に風を送り込みながら、綾香が尋ねる。


 その指摘に、海一は思うところがあり真剣に考える。


 明確な証拠はまだないが、十中八九、八剣たちは自分たちとは別の指令を受けて動いている。それが何なのかはまだよく分からないが。


 宮乃からの情報によると、自分たちの今回の任務の指令は、関東での活動にもかかわらず関西支部から下されているそうだ。一つの学校に二組のSSというだけでも異例だが、こちらもかなりイレギュラーなことだと言えるだろう。


 一人の思考にもぐった様子の海一からの返事がなかったので、綾香は近くのお屋敷の門の隙間から出てきた猫を見つけて、うりゃうりゃと追っかけていた。


 彼が何か小難しそうなことを考え込んでいるときは、何を話しかけても無視されるか適当に流されるのは、そう長くはない付き合いだが十分に分かっている。


 ドラマでしか見たことのないような、いわゆるマダムが住んでいそうな超高級住宅街。こんなところにも野良猫がいるんだなぁなんて考えながら、接近できた猫をうりうり撫でていると。


 長く続いていた塀がようやく開けた高い門の前で、ふいに海一が足を止める。


 海一はその門の先にある屋敷を見つめて、口を開いた。


「……そういえば、前に俺の実家がどうこうって話をしたと思うんだが」


 猫に夢中になっていた綾香が顔を上げると、海一がある家を示していた。


「これだ」


 その先に視線をすべらせた綾香が、


「はぁあああ?!」


 と、夜の住宅街に相応しからぬ大音声で叫ぶ。うりうりされていた猫は疾風の如く逃げ去った。


 超高級住宅街の中でもとりわけ敷地が広く、立派で歴史を感じ、格の違いを見せ付けているその屋敷。


「ちょっ、ここって歴史的建造物で観光名所とか、外国の要人向け老舗高級ホテルとかじゃないの?! 早く言ってよ! あんたはいつも言葉が足らないのよ! 私、多分テレビとか本とかで見たことあるわよ?!」


 海一が以前言っていたように、本当に迎賓館をそのまま少し小さくしただけのような、豪奢でデザイン性の高い洋風の建物。現代日本では見慣れない意匠や文様に歴史が刻まれているのを感じさせる。


 あまりの文化の違いに、綾香の口があんぐり開いたままになる。こんなところに住んで育っている人間がいるのかと。ここを実家と呼べる人間がいるのかと。


 地元の近所だったから道に詳しいと言っていたのか、と今更分かる。実家が近くにあるとすぐ言えばいいのに。海一はいつも肝心なところで言葉が足らない。


「ね、ねえ。ちょっと中覗き込んでもいいかしら? 不審者だと思われるかな?」


 遠慮がちにだが、ドキドキを隠せない眼差し。もし綾香に猫のような耳と尻尾があったなら、ピクピク動いていたに違いない。


「まあ、多分いいんじゃないか」


 自分の家という自覚が薄いからなのか、他人事のように海一は言う。


 綾香はデザイン性の高い門扉の鉄柵部分を両手でつかんで、ぐいと顔を寄せた。反対側から見たら、出せと訴えている囚人のように見えただろう。


「へぇ~っ。こんなお屋敷、本当に日本にあったのね! これが本物のセレブの家ってやつ? 私、本物を近くで見るの初めてよ」


 キョロキョロする綾香は、もう一年分くらいの心の底からの「わぁ~!」を言っている。


「建物が高い! 巨人が集団で肩車しても入れるわね! 窓おっきい! どうやって掃除するの?! はしご車?! 玄関広っ! 正面玄関までマラソンが出来るくらい遠い! 門や玄関をライトアップしてどうするの?! あれ噴水? 噴水照らしてどうするの?!」


 驚きと変な例えと妙な感想とつっこみを交えつつ、綾香はキャーキャーと興奮している。


 その背後で海一は、背の高い門の右上を見上げる。あるものと目があって、やはりあったか、と諦めにも似た表情で息をついた。


 しばらくすると、屋敷の方から一つの人影が小走りで慌ててやってくる。


 家人ではなく使用人ということは、近付くにつれ見えてきた服装ですぐに分かった。その人は濃紺のワンピースに白い長エプロンをかけていて、まるで昔の高級レストランで給仕をする格好のように見える。


 海一が以前に、家には使用人やお手伝いにあたるような人もいた、と言っていたので、きっとそういう人なのだろうと綾香は察した。


 綾香は騒いでいたことを注意されるのかと思いおっかなびっくりだったが、近くなって見えてくると、駆けてくる女性は海一のことしか見ていない。


 屋敷から門までの長い空間を突っ切り、息を上げながらたどりついた中年の女性使用人は、まるで幽霊でも見たかのようにびっくりしている。


「か、海一さん……」


 海一は姿勢を崩すこともなく、まっすぐ彼女を見て正対していた。


 門を少しだけ開けると、非常に言いにくそうに、申し訳無さそうに、使用人の女性は言った。


「あの……今夜はちょうど奥様がお嬢様に会いに来られているので、今、海一さんが屋敷に上がるのはちょっと……」


 綾香は海一の方をちらっと見上げると、小声で「奥様?」と尋ねる。


 海一は視線も動かさずに答える。


「……俺の、血の繋がってない方の母親。今は別邸に住んでる」


 要するに、神無月家の正妻にあたる人なのだろう。


「お嬢様って、宮乃さんのこと?」


 続けて尋ねた質問に、海一はうなずきだけを返す。


 そして、目の前の使用人の女性に言った。


「分かりました。特に用があったわけではありません」


 感情のない声でそう伝えると、踵を返し、目的地へ続く道へと足を進める。


 綾香は不安そうに海一の背を見守る使用人の女性にペコッと頭を下げてから、彼を追った。一度だけチラリと屋敷を振り返ると、ガラガラガシャンと、扉が厳重に閉じられるのが見えた。まるで海一の帰りを拒否するかのように。


 宮乃がお嬢様と呼ばれ、海一がそう呼ばれないのは、正式な息子ではないから。そして、正妻である宮乃の母親が別邸に移り住んだ理由は、海一が来たから。


 用はないから、と海一は言ったけれど、彼は自分の家に帰るにも理由がいるというのだろうか。


 高級住宅街を過ぎてしばらく。大きな橋のかかった川辺に出る。遠くの水面には都会の夜の明かりが映りこんでいる。


 黙り込んだままだった綾香は、ポツリと口を開いた。


「なんか……ごめん。私が見たいなんて言ったからよね……」


 少し考えたら分かることだったろうに、さっきまでの浮かれた自分の無邪気さを呪いたくなる。


 海一はいつもと変わらない声色でドライに言う。


「別にお前が悪いわけじゃない。それに、いつものことだ」


 彼がそう言うのだから、本当にいつものことなんだろう。


 綾香が小耳に挟んだところによると、海一は長期休みもホテルなどを転々とし、家には帰っていないらしい。


 見つめる横顔はいつもと同じ淡白なものなのに、キムチ鍋うんぬんで騒いでいた時とはぜんぜん違う。


 綾香は八剣から聞いた話を思い出していた。名家である神無月家。その外れ者である海一。


 本当は、長居して見たいと言われた時も、気乗りしていなかったのかもしれない。でも、綾香のために我慢をしてくれたんだと思う。


 もしかしたら、家を教えてくれたことだってそう。綾香には分かる。彼は、ごくたまにだけど、とても分かりにくいけれど、不器用ながらに自分をすごく気遣ってくれるから。


 海一がここで、家の人たちに怒ってほしいわけじゃないのは分かっている。慰めてほしいわけでもない。


 だから綾香は努めてキュッと両の口角を上げて、彼の顔を横から覗き込んだ。


「そうだ。ねえ、今度、私の住んでたところにも行ってみない?」


「……お前の?」


 虚を衝かれたように、海一は珍しく目を見開く。


 綾香はクスッと笑った。


「うん。あのね、私の住んでたとこは市内でも住宅街のほうなんだけど、市街のほうは結構知れた観光地なのよ? 遊ぶとこや見るとこがいっぱいあって、賑やかで。小さい頃はホントに楽しかったなぁ」


 懐かしい景色を思い出すように目を伏せる綾香が、得意げに紹介したのは。


「知る人ぞ知る、地元民の隠れたB級グルメはね、なんとカレー味のアイスキャンディ! +三十円で練乳がけにすると一層おいしいってね。ふふっ」


「いや……。それは絶対おいしくないだろう。アイスにする前から分かるぞ。観光地は何でもかんでも名物をアイスに練りこむな」


 味を想像したのか、海一は眉をひそめてどん引きしている。


 そう喋っている海一がもういつも通りにだったので、綾香は安心して少しだけほほ笑んでみせた。


 そして、足を止める。


「あとね……。八剣くんが海一に、お母さんがどうこうって変なこと言ったって、聞いたよ。本人から」


 それを聞いたのか、と何か思うところがあるような顔で海一も足を止めた。


「八剣くん、言い過ぎたって反省してた。悪かったって」


 綾香は保健室で八剣から聞いたそのままを伝えた。


 そして、綾香の意見も添える。


「……無理かもしれないけど、あんまり気にしないで。本当のお母さんのこと……」


 温い夜風。ぽつぽつと灯された街灯が、水面に揺れている。


 何かを考えて遠くを見つめている海一は、何も答えない。


 綾香は、自分たちがまだまだ無力な子どもなのだと思い知らされる。


 彼の目に宿る、諦めと、寂しさ。拒絶。その奥にきっと、煮えたぎるような怒りを隠して。


 海一もきっと綾香の生まれのことが分からないように、綾香も彼のことは分からない。想像するしかないけれど、それは彼からすると恐ろしく見当違いなんだろう。


 その見当違いから出る言葉に、押し付けられる価値観に、海一はどれほど傷つけられて、どれだけ腹立たしく思ってきたのだろう。


 だから、八剣にああ言われたとき、彼は口をつぐむしかなかったのかもしれない。


 今の彼の横顔は、声の届かない別世界の人のようで。あと半歩の距離を、綾香は詰められなかった。


 ゆるやかな川辺の夜風が二人の髪をふわりと浮かす。


 二人は無言で、同じ景色を違う瞳で見つめていた。

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