18
冴木の災難はそれで終わらなかった。
昼休み。
朝からのいろいろな出来事のこともあり、綾香は冴木のことがずっと気になっていた。さりげなく視界に入れて様子を確認していたのだが、昼休みになってから姿が見当たらない。
綾香が把握している冴木の昼休みの行動パターンとしては、購買部でパンを買った後、教室の自分の席で読書しながら一人でゆっくり食事をしているというもの。
SSの任務のため長時間抜けているのかもしれないとは思ったが、何となく胸騒ぎがする。
綾香はいつも一緒にご飯を食べている女子生徒たちに断って輪を外れると、冴木を探しに教室を出た。
食べ物や食事の場所を求めて廊下には結構な数の人がいたが、その中に冴木の姿はない。
購買部へ足を向ける。
違和感にはすぐに気づけた。購買部の入り口付近。人の流れがそこで止まっていたからだ。
遠巻きに眺める生徒たちの人垣の間を縫って進むと、人々が何に注目しているのか分かった。
身を縮こめた小さな冴木が見下ろされるようにして、三人の男子生徒たちと対峙させられている。男子生徒たちは上履きの色からして学年が上。しかもかなり大柄で、服装も顔つきもふるまいも、怖い印象をいだかせるものだった。いわゆる、不良とかヤンキーと称されるような。冴木とはまったく別世界に存在するような生徒たち。
「お前の肩がぶつかったって言ってんだよ。先輩に対してその態度は何なんだよ」
「……ごめん、なさい……」
消え入るような声を漏らすけれど、許してもらえない。周りの反応からすると、この当たり屋のようないちゃもんは先ほどから繰り返されているようだ。
「聞こえねえよ。ちゃんと詫びるんだったらもっと方法あんだろ」
恐怖で顔の色を失いながら、うつむくしかない冴木。
正直なところ、綾香から見ても彼らは怖かった。まともな学生の雰囲気ではない。何かまずいことに手を出していても、全然おかしくなさそうな。加えて、中学生とは思えないほどがたいもいい。背も低めで小柄な冴木と比べると、大人と子どものようにさえ見える。
綾香はそのときふと気づいた。この男子生徒たちに見覚えがあると思ったら、以前に八剣たちと四人で路地裏にいたときに、奥の道で煙草を吸っていた不良学生の一味だ。戦った時に顔を見た気がする。
「誠意見せろよ。土下座とか知らねーの?」
増長する男子生徒たちに、周りの生徒たちも戦々恐々と見守るだけ。それはこれだけおっかない見た目なら仕方のないことなのかもしれない。あと大半はきっと、興味本位でスリルを味わうために見ているだけだろう。
それでも、綾香は。
「ちょっと待ってください。男の先輩が寄ってたかって。彼女、怖がってるじゃないですか。何度も謝ってるんだから、それでいいしょ。あと何がしたいっていうんですか」
勢いのまま飛び出すと冴木を背にして、男子生徒たちと対峙していた。
背の低い冴木の体は綾香の後ろにすっぽりと隠されるような形になる。
綾香だって足がすくんでしまいそうなくらい、強面の不良たち。それでも綾香は視線を逸らさなかった。
最悪、三人は相手にできなくても、暴力沙汰になれば教師が駆けつけてくるだろう。それまでの時間稼ぎくらいなら、自分にもできる。衝動的な行動でも、頭の中では一応プランを考えていた。
だが。綾香の覚悟とは裏腹に、責めるような眼差しを受けた男子生徒たちは、興がそがれたとばかりに舌打ちをすると、そのまま綾香を無視して踵を返してしまう。
その去り際に彼らは、冴木が落としたのであろう彼女の買ったパンを、見せ付けるようにわざと踏んで行った。
「ちょっ、謝りなさいよ……!」
その場にいる誰も彼らを止めることなどできるわけもなく、男子生徒たちの姿は消えていく。
すると、人垣を作っていた野次馬の生徒たちも散り散りになっていった。緊張状態だった雰囲気は消え、すっかりいつも通りの空気を取り戻す。
「大丈夫?」
ようやく肩の力が抜けた綾香が振り返ると、文字通り、張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろうか。口も利けずに震えていた冴木はふらりと、糸を切られた吊り人形のように、気絶して倒れこんでしまう。綾香は慌てて、崩れ落ちる彼女の体を支えた。
「さっ、冴木さんっ! しっかり!」
綾香はその時ふと、自分たちに向けられている視線に気がついた。
視界の隅の人ごみの中に。焦りの中に困惑の色をにじませた八剣の姿がある。
八剣と冴木は何の関わりもない他クラスの生徒であるし、SSのペアは原則的に他人としてふるまわなくてはならないため、彼女のピンチに気づきながらもどうしたらいいかと考えあぐねていたのだろう。不安そうな、複雑な表情を浮かべている。
綾香はちらっと八剣に視線を合わせたあと、わざと大声で、
「すぐ保健室に連れていくからね」
と、気を失った冴木に伝えて、彼女の華奢な体を背負った。
ベッドに冴木を寝かせると、綾香は確認をしに保健室の外へ出た。
するとやはり綾香の予想通り、気配なく壁に背を預けた八剣が、人気のない廊下にたたずんでいた。八剣は決まりの悪そうな顔で綾香に尋ねる。
「……冴木は?」
「気を失ってたから、ベッドで横になってもらってる。お昼休みで保健の先生がいなかったから、勝手に借りたわ」
八剣を中に招くと、「冴木さん、八剣くんが来てくれたよ」と声をかけようととして、「無理に起こさんでええ」と制された。
眠っている冴木を除けば二人しかいない室内。綾香とは先日色々あったため、八剣は居心地の悪さを感じていたのだが、綾香は真剣な顔で悔しそうにこうつぶやく。
「がたいのいい、怖くて大きな男の先輩。しかも三人も。あんな風に迫られたら、怖いわよね……。周りの人たちも何もせず見てるだけだっただし……」
何の罪もない彼女をこんな惨めな気持ちにさせるなんて許せないと、綾香は憤慨していた。
そんな彼女に、八剣は眉間にしわを寄せて首をかしげる。
「……何で冴木を助けてくれた? 俺は神無月に……。お前、怒ってたんじゃないのか?」
彼の真剣な問いに対し、綾香はキョトンとした表情になる。
「何でって……。八剣くんが海一に当たるのと私が冴木さんを助けるのは、全く別の話しでしょ」
何言ってるの? とでも言いたげに、不思議そうに眉根を寄せている。
不意をつかれたような顔になる八剣。思わず綾香と数秒見つめ合ってしまってから、八剣はフッと笑い、表情を崩した。それは、いつものあざ笑うようなものではなかった。
「はぁ……ほんと、むかつく」
そうつぶやいて、アッハッハと笑う八剣。綾香は彼が壊れたのかと思った。でも、笑いながらも、むかつくと言われたことはちゃんと聞き取れた。
「……は?! 何が? どういうこと?」
「俺がバカみたいだ、ってこと」
八剣は空気が抜けたかのように脱力して、こう語る。
「お前らほんと、突っかかっても全然面白くない。俺の期待通りにいかない。お前はあいつの悪口言わんし、神無月なんて俺が生まれのことをつついても、あいつの眼鏡を踏んでも蹴っても、何も反応しない。昔のあいつならきっと、殺しそうな目で見てきたのによ」
綾香は自分の知らなかった情報の中でも、一番にこれに食らいついた。
「ちょ、眼鏡踏んだですって?! しかも蹴った?! 初耳なんだけど! 何してくれてんのよ! あれ壊れたら海一に上手いこと押し付けてるSSの事務作業、私が全部一人でやることになるんだからね!」
「怒るとこそこかいな。ていうか押し付けんなや」
大声を上げる綾香につっこみつつ、静かにするよう唇の前に指を立てる。
すぐそばで眠っている冴木のことを忘れていた綾香は、今更遅いのだが慌てて自分の口を片手でおおった。
強引な彼のイメージからは程遠い繊細な気遣い。冴木が「彼の邪魔をしないで」「とても努力家なんです」と語る本当の八剣は、こういう人なのかもしれない。
八剣は少しだけ黙って、昔のことを思い出す。そして、綾香の知らない過去のことを、静かに語りだした。
「……都合で、俺は関東支部でSS就任直前の連絡会に出たんだ。そこに神無月もいた。あいつはひどくすさんでた。さらされる周りの好奇の目もひどいものだったと、俺でさえ思う。長官の妾の子が来るってことは一部じゃ有名だったし。その時あいつが組む相手が決まっていたのかは分からないが、あいつは一人でいた。息すら自由にできないほどの視線と、たくさんの無言の言葉があいつ一人にぶつけられてた。……まぁ、かく言う俺の視線も、その好奇の目の一つだったわけなんだけど」
自分の知らない自分の相方の話に、綾香は聞き入っていた。
それは自分が海一に出会う前の彼の話。話を聞きながら、その光景がありありと目に浮かぶようだった。彼の特殊な生い立ちと環境は、きっと苦労が多いものだとは思っていたがここまでひどいものだったとは。
神妙な面持ちで尋ねる。
「それって、いつ頃の話?」
「SS就任の、一ヶ月前くらいやったかな」
「……私、その時まだSSなんて存在も知らなかったわ。SSにスカウトされてから、任務開始までもう時間がないってことで、急ピッチで毎日講習や訓練を受けてて。連絡会には出てないの。それでも訓練時間が足りなくて、去年の夏休みの連絡会も全部講習でつぶれたくらい」
その話を聞いてふと気になり、八剣が口を開く。
「組む相手への希望、川崎はどんなことを出したんだ?」
「希望も何も、私はかなりギリギリでSSになることが決まったのよ。希望を出せることすら知らなかったし、余ってる人とくっつけられたくらいの勢いだったと思うわ」
「神無月家の長男が余るゥ? そんなわけあらへんやろ……」
そうつぶやくと、八剣は何か考え込むように腕を組み、あごに指先を添えた。
「しかし妙な話だな……。そもそも俺らんちみたいなこういう家は、子ども、特に男の子はいくらでもほしいはずだから、妾の子だろうと引き取ったんだろう。本当に都合が悪いなら、突っ返すなりよそに預けるなり方法はあったはずだ。仮にも神無月家唯一の男児を、手元で育ててこんなに冷遇するってどういうことなんだろうな……」
同じ名家の子息としての鋭い指摘に、綾香は首をかしげるしかない。
これに関しては神無月の家のことなので、考えても答えは出ないと、八剣は早々に「ま、それはいいや」と思考を諦めたようだった。
そして話を戻す。
「俺さ、その時のあいつを見て、ちょっと安心してたんだ。八剣家のプレッシャー。高すぎる当たり前のハードル。それでも、どれだけ頑張っても俺には兄貴がいるから、兄貴が全部先。超えられることはない。兄貴がいる限り、俺がそこに入ることはない。でもそこで、俺よりつらくて、はるかにひどい、惨めな状況のやつを見つけた」
遠い目をして昔を語る八剣は、自嘲気味にフッと笑った。
「ほんまに俺、矮小な人間やろ。あいつがあらゆることを人並み以上に努力させられてることは分かってる。それでも、あいつにそうさせる周りの人間はあいつを絶対に認めない。あいつが失敗するのを、ちょっと小石につまづくのを、手ぐすね引いて待ってるんだ。さあ非難してやろう、貶めてやろうってな」
綾香は思う。だから海一はあんな風に、表情ですら隙を見せない人になったのだろうと。常に気を張って、完璧にふるまって、揚げ足を取られないように。弱点を悟られないように。
「……あいつがここで前と同じように惨めに腐ってんのを見て、見下して安心しようと思ったんだ。あいつのあの様子じゃ、誰と組まされても絶対上手くやれてない自信があったしな。周りは全員敵。拒絶して、息もできないくらい苦しそうで、いつ壊れてもおかしくなさそうだった」
そこで八剣は唐突に苦笑いを浮かべた。
「ところがさ。この学校で久々に会ったあいつは、家のこと言われようが絡まれようが、顔色一つ変えない。涼しい顔してやがる。……すぐ横で川崎が、本人より早く、本人以上にキャンキャン番犬みたいに吠えてるからのってのもあるんだろうけど」
「ば、番犬……」
表情を引きつらせている綾香に八剣が追い討ちをかける。
「ちなみに俺、ブルドッグすげえ好き。ブサカワだから」
綾香はもう何を言う気にもなれない。
八剣はにんまり笑う。
「影の本音で、お前が少しでもあいつを悪く言ったら、安心できると思った。結局相方とも上っ面でしか上手くやれていない、あいつは一人きりのままだと。でも、お前はずっと、いつでも、誰の前でも、態度も意思も変わらないな」
薄くほほ笑む彼が自分のことを褒めてくれているのだと分かり、綾香はどう反応していいか分からず視線をさまよわせる。
「それに……あいつがやっと本気で怒ったと思ったら、自分のことじゃなくてお前のことだったし」
ボソッと添えられた一言に、心当たりのない綾香は「……何のこと?」と小動物のように小首をかしげる。
八剣は「いや、分かってないならいい」とお茶を濁した。いつかの路地裏で綾香の家族や生い立ちのことを茶化した時の、海一のあの射殺すような視線は今でも思い出せる。
話が終わると、八剣は真摯な瞳で綾香に言った。
「悪かった。神無月には、言い過ぎた。あと、お前にも」
嘘のない真っ直ぐな言葉。
綾香はようやく、はじめて海一以外のSSの仲間と出会えた、と心から思えた。
八剣としては、綾香からの非難の言葉を覚悟していた。しかし、発せられた彼女の予想外の発言に拍子抜けしてしまう。
「……八剣くんって、気を抜くとたまに関西弁が出るのね。アクセントとか、語尾とか。いつもは意識して共通語にしてるの?」
「あ? ……出てたか? 中学上がる前、SSの任務で出身地をごまかして全国に行けるように訓練したんだ。冴木とな」
八剣と冴木の家はSSの組織の中でも力を持つ名門だという。きっとSSになることはずっと前から決まっていたし、本人たちも分かっていたのだろう。だからこそ、早くから覚悟を決めて行動していたに違いない。
「へぇ~、そうなんだ。そういえば冴木さんは全然方言が出てないわ。すごいわよね。その口ぶりからすると、冴木さんとはきっと小さい頃から知り合いなんでしょ?」
綾香の最後の一言に、八剣の表情がなぜか少しだけ陰った。
「れ……いや、冴木は……昔からまじめで、努力家だからな」
冴木の話になった途端急に歯切れが悪くなったのを察して、綾香はあることを思い出した。控えめにながら、少し踏み込む。
「ねえ。あの路地裏で不良たちと対峙したとき、真っ先に逃げ出したのはもしかして……」
「せや。冴木は全く戦えん」
言いにくかった言葉の先を、八剣は自ら口にした。
何かを思い出すように、八剣は目を細める。
「お前らが上手くいってなかったらいいと思っていた、もう一つの理由は……」
綾香は緊張して続きを待ったが、八剣はためらったのちに首を横に振って、言いかけた言葉をかき消した。
「いや……。そんなのは別に構わん。俺が一人でも完璧に任務を遂行できればいいだけの話だ」
決意の目。それはまるで自分に言い聞かせているかのようで、綾香は何かを思うけれど、口には出さなかった。話されない以上、部外者の自分が土足で立ち入っていいことではないはずだから。
しばらくすると、昼休みの終了を知らせる予鈴のチャイムがスピーカーから流れてきた。
二人はウォッチで時間を確認する。あと五分ほどで教室に戻らなければならない。
すると、ベッドの方から冴木が動いたような衣擦れの音がした。チャイムの音で起きたのだろう。
綾香が「大丈夫? 開けてもいい?」とベッドを囲む白いカーテン越しに声をかけると、シャッと仕切りが取り払われた。
冴木は綾香の後ろから近づいてくる八剣を見つけると、ぺこりと頭を下げた。
「体は大丈夫か?」
八剣のその言葉は、昼休みに男子学生たちにいちゃもんをつけられたことだけでなく、学年集会での落下事故のことも言っているのだろう。
冴木は「はい」とうなずいた。
その時、綾香があることに気がつく。
「あっ、パン!」
あの昼休み騒動により、冴木が買ったお昼ご飯のパンは不良学生たちに踏まれてしまっていた。
「俺が回収した。冴木、俺の食いかけだけどこれ食っとけ」
そう言って八剣は、手に提げていたビニール袋からベッドの上にパンを投げた。
拾った冴木がまた頭を下げると、八剣は真剣な表情でこう訊いた。
「さっきのトラブルだが、何か問題があったのか?」
冴木は彼の顔を見ず、目を伏せたまま、
「いえ……。一方的に絡まれただけです。心配をかけてすみません」
と詫びた。
「そうか」と八剣は納得すると、先に教室に戻って行った。他人のふりをしている以上、同じクラスで女子同士でもある綾香と冴木はともかく、八剣まで一緒にいると話がややこしくなると思ったのだろう。
だが、綾香は。
冴木が八剣に何かを隠しているということが、手に取るように分かった。
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