23

 早朝の静寂の中、パタパタと走る一つの足音があった。廊下にこだまするその音は、聞いているだけで分かるくらい運動神経が悪いものだった。


 無人の部室棟を駆ける一人の女子生徒。冴木 怜。


 自分の手に入れた情報が確かなら、きっとここに証拠がある。自分を守ると言ってくれた綾香には悪いが、自分のため、八剣のため、海一たちに手柄を取られてしまうわけにはいかない。


 焦る気持ちと緊張をおさえきれないまま、ウォッチでドアを開けてある部屋に入り、パソコンを起動する。裏の画面にアクセス。


「これだ……!」


 用意していた記憶媒体に、片っ端からログデータをコピーする。量が多いので時間がかかる。


 コピーしつつ、どんどん探っていく。


 独自の調査でここまで証拠がつかめたなんて。


 もう、画面しか見えない。冴木は期待と興奮で自然と息が荒くなっていた。


 そんな冷静さを失った彼女には、時間も、周りも、分かっているはずもなかった。








 始業時間ギリギリ、朝のSHRに駆け込むような形で登校した綾香。


 走って上がった息を落ち着けながら自分の席について、すぐに気が付いた。いつも朝一番で登校してきているはずの、冴木の姿が席にない。机の横には鞄がかけてある。学校に来てはいるのだろう。胸騒ぎがした。


 担任も冴木の不在に首をかしげていたので、保健室に行ったとか、休みや早退の連絡があったわけではなさそうだ。


 それでもまだ、朝のSHRの時に偶然お手洗いに行っていたとか、そういう可能性も残っていた。


 だが、一限が始まっても冴木の姿が現れなかったとき、綾香の不安は確信に変わった。こそこそ周りに尋ねてみたが、冴木の姿を見たものはいないという。


 探さないと、と思ったが、どこを探せばよいか見当もつかない。


 綾香はとりあえず、いつもの技、「トイレ行ってきます!」を使って教室を抜け出した。さすがにもう、クラスメイトたちにはそれが授業をさぼるための嘘だとばれているだろう。そんなことはこの際どうでもよかった。


 今までの冴木への嫌がらせを考えると、一刻を争う事態かもしれない。のうのうとしてはいられない。


 まずは八剣に確認を取りたかった。しかし今は授業中。こっそり呼び出すこともできない。


 八剣の連絡先など分からない。スマホもSSの携帯端末も、相手の連絡先が分からなければ何の役にも立たない。


 しばらく「うーん」と悩んでいたが、ええいままよと強硬手段にでることにした。


 授業真っ只中の八剣のクラスに、綾香は堂々ドアを開けて入った。


 授業をしていた教師もクラスメイトたちも、言葉を失って一斉に突然の来訪者を見つめる。


「あっ……ごめんなさい。教室間違えました……」


 非常に恥ずかしいが、もうこれしか手段がないのだ。綾香は苦笑いで言い訳をしてみせた。


「て、転校生か。なら、仕方ないか……」


 驚いてずり下がった眼鏡を持ち上げながら、教師が言う。


 去り際、綾香はちらりと生徒側の席を盗み見る。みんなの視線を全身に感じる中に、いた。


 驚き、不審そうに眼を細め、事態を把握しようとしている八剣と目が合う。周りにばれない程度の浅いうなずきとまばたきで合図を送る。八剣ほど優秀なSSなら、きっとこの意図を分かってくれる。綾香は祈るようにそう思っていた。


 八剣の教室を出た綾香は、そのまま自分の教室とは逆の方向へ廊下を歩む。


 先日、黒川をつけていたときに初めて八剣と二人で喋った、周囲と監視カメラから死角になる場所に隠れる。


 しばらくすると、やはり八剣はやってきてくれた。


「良かった、来てくれて……! 八剣くんの連絡先、分からなくて」


「一体どうしたんだ?」


 ほっと胸をなでおろす綾香に、間髪を容れず八剣が問う。SSとしてのスイッチが完全にオンになっている、鋭い眼差しだった。


 SSのペアではない自分を綾香がこんなイレギュラーな形で呼び出すなど、かなりの不測の事態が控えているに違いないと、彼はすでに察していた。


「教室に鞄があるのに、冴木さんがいないの。八剣くん、朝から冴木さんと連絡取った?」


「何やと?」


 目を見張った彼の反応で、冴木は朝から誰とも連絡を取っていないことがすぐに分かった。


 八剣はその顔にこれまで見たことのない動揺をにじませている。冴木を狙ったとしか思えないこれまでの数々の行為が頭をよぎっているのだろう。


 八剣は制服のズボンの下に隠していたSSの携帯端末で冴木に電話をかけるが、出ない。鞄に入れっぱなしなのか、あるいは、出られない状況なのか。


 焦る八剣に、綾香はまずお互いの連絡先の交換を申し出た。


 それから、こう提案する。


「私は離れてる部室棟を探してくるから。八剣くんはこの教室棟と、隣の職員棟の捜索をお願い」


 端末をかざしあって連絡先を瞬時に登録しあうと、八剣は顔を上げて綾香の顔を見た。


 八剣には「もしかして……」と心の中で思っていることがあったのだが、綾香に言うのをためらっていた。


 その葛藤を不安と見たのか、綾香は彼に、


「大丈夫、きっと何でもない。すぐに見つかるわ」


 と、ほほ笑んで勇気づける。


 そのまま疾風のように駆け出していった。足音を完全に消して。


「か、川崎……」


 八剣の戸惑いの声など耳に入っていなかっただろう。


 走りながら、綾香は海一にも連絡を取ろうと携帯端末に手を伸ばしたが、やめた。今、海一はいないのだ。


 実は今朝、海一から、朝は別行動で用事があるためすぐには登校しないと連絡が来たのだ。


 急に何だろうとは思ったが、最近いろんなことが続いていたので、特に理由を尋ねることもなく了解した。SS本部との窓口を海一が一手に引き受けてくれているためもあり、本部から彼だけに連絡がいくこともままあるのだ。


 それに、詳しく話さなかったということは、話せなかったか、あるいは話す必要がなかったことなのだろう。あとから聞けばいいことだ。


 こんなときこそ海一の力を借りれたらと思ったが、いないものはしょうがない。


 自慢の俊足で渡り廊下を駆け抜け、すぐに部室棟前にたどりついた。


 ウォッチをかざして扉を開く。外の真夏の日差しが激しい分、中は暗い。日中は部室棟には誰も近寄らない。ほとんど放課後の部活動の時間にしか使われないため、この時間は電気もついていない。


 人の気配は全くない。綾香としても、正直なところ冴木が部室棟にいるは可能性が低いと思っている。可能性が高いのは教室棟だと思っていたので、だからこそ八剣にあちらを任せたのだ。


 それでも万が一ということもある。大きな声を出していいか分からなかったので、部屋を一つ一つ開けて尋ねる。


「冴木さん? いる?」


 返事がなくても、きちんと目視で中を確認していく。もしかしたら死角になる場所で倒れていたりするかもしれない。


 そして、ある部室に飛び込んだ時。


 パソコンに張り付いている冴木がいた。現れた綾香の顔を見てハッとした表情になる。


「冴木さん……! 探したのよ」


 そう言って近寄ってくる綾香に見られないように、冴木は何かをサッと手元に隠した。


「こんな時間に、こんなところで一体何を……」


 と、問いかけようとしたとき。


 綾香は背後の遠くに感じる気配を察知した。


 何かを喋りだそうとした冴木に、シッと唇の前に人差し指を立ててみせる。


 何も気づいていないのであろう冴木はきょとんとしていた。


 身動きせず、綾香はじっと遠くの気配を探る。神経を研ぎ澄ます。


 足音の種類は、たぶん上履き。生徒か。歩き方からして男。男子生徒だろう。一組ずつの足音がうまく聞き取れない。少なくとも三人以上の複数名だ。移動速度はそう速くない。目的の場所を決めて移動しているというよりも、何かを探しながら進んでいる速度。足音が変調した。階段を上がってきている音だ。


 そして、綾香は鋭い眼差しでこう冴木に告げる。


「こっちに向かって来てる」


 冴木は顔が真っ青になった。


 綾香は一歩奥に入り、とりあえずこの部室の自動ドアを閉めさせた。


 部室棟のドアは、顔の高さの部分だけ四角い小窓がくりぬかれているタイプ。綾香は頭を下げてドアに張り付き、小窓から少しだけ頭を出して遠目を利かせる。


 少しすると、遠くの階段から人影が現れた。この間冴木にいちゃもんをつけていた連中とは別の、顔に覚えのない不良集団。一学年上の、大柄な男子生徒たち。


 綾香が心の中で「げっ」と思ったのは、相手が四人もいて、しかも一人はバットを持っているのが見えたからだ。


 冴木を探しているに違いない。


 その理由がなぜなのかは綾香には分からなかったが、冴木の顔色を見れば、彼女自身は十分に心当たりがあるようだった。


 相手は一つ一つ部屋を確かめている。ここは五階の突き当りの部室。このまま部屋を出れば、間違いなく見つかってしまう。でも、このままここにいたら、彼らはそのうちこの部屋にたどりついてしまうだろう。籠城しようにも、鍵はかけても意味がない。ウォッチで開けられてしまうからだ。


 大柄の男子生徒四人、しかもバット所持の連中に対してバリケードというのも現実味がない。それにそもそもこの部屋にはバリケードを作れそうな物がない。あったところで、女二人の細腕でこの一、二分で何が積み上げられるというのだろう。


 綾香一人であの四人の相手をするのは、スタンガンを使ってもまず無理だ。しかもこちらは、戦うことのできない冴木を守りながらになる。


 戦っても勝てないのなら、とにかく逃げなければ。


 綾香は「うーん、うーん」と悩みながら、きょろきょろと部屋の中を見回す。


 すると、長机がおかれている壁のところに、隣の部屋へつながるドアがあるのを見つけた。ウォッチをかざすような自動ドアでなく、普通のドアだ。


 綾香は冴木に言って長机の両端を二人で持ち上げ、物音をさせないようにどかして、隣への脱出口を確保した。


 ドアには鍵がかかっておらずすぐに開くのを、なるべく音を立てずに確認する。


 すぐにでも隣へ行こうとする冴木を制して、


「私がこのドアを開けたら、すぐに隣の部屋に入って」


 と、綾香が小声で伝える。


 わけも分からずコクコクうなずく冴木の手には、ぎゅっと何かが握られていた。


 綾香は隣の部屋の物音をできる限り聞き取ろうと、壁に張り付いて耳を押し当てている。


 男子生徒たちの足音は、冴木にも聞き取れるくらい近づいていた。


 それでも綾香の指示は出ない。


 心臓がバクバクして、冴木は大事なものを握った手を胸元にぎゅっと重ねた。


 ついに隣の部屋の扉が開かれた。それでも綾香は動かない。


 冴木の忍耐も限界に近付いてきた時、綾香は勢いよくドアを開いた。冴木はたまらず夢中で逃げ込む。綾香もひらりと身をひるがえして隣の部屋に入り、ドアを素早く、できるだけ静かに閉めた。


 それと同時に、今までいた部屋に男子生徒たちが入ってきたようだった。


 まさに間一髪。


 綾香は男子生徒たちと鉢合わせしないよう、この隣の部屋を彼らが確認し、出て行くのを待っていたのだった。


 ふぅと息をつきたい冴木だったのだが、綾香はすぐに冴木の手を引く。


 男子生徒たちが一番奥の部屋を探索している間に階段にたどり着ければ、あとはもう阻むものはない。ひたすら降りて逃げればいいだけだ。


 だが。足音を立てないで走って、と言ったのだが、冴木にはやはり無理だった。綾香はクッと悔しく思ったが仕方ない。冴木の立てる上履きのキュッという足音で、存在を気取られた。


 男子生徒たちは音に気づいて廊下に飛び出してくる。綾香は姿を見られる前に冴木の手を引いて、適当な部屋に飛び込んだ。植木鉢やシャベルなどの園芸用品のストックがあるから、きっとここは園芸部だろう。


 男子生徒たちはまた一つ一つの部屋を確認しながらこちらに迫ってきている。


 このままだと見つかってしまう。


 綾香は潜入前に見た校舎の図面を頑張って思い出す。


 そうだ、たしか園芸部の隣の部室にはあれがあったはず。隣の部屋に行ければ。


 室内同士をつなぐドアはこの部屋にもあったが、その前には本棚が陣取っている。


 冴木はぐっと押してみたがびくともしない。顔が絶望の色に染まる。


 だが綾香は諦めない。本棚に入っている本を片っ端から引き抜いて床に散らかしていく。物音を気にしたところで、もう存在には気づかれているのだ。


 綾香の意図に気づいた冴木も同じように本を抜いていく。


 重い本がなくなり幾分か軽くなった本棚は、何とか二人の力で動かせるようになった。


 そして隣の部室へ。


 その部屋の床にあったのは、室内用避難はしご。


 そう、この学校は騒音や排気ガス対策、空調効率のため非常に気密性が高く、窓などはほとんどはめ殺し。非常時に窓から逃げられないことを考慮して、室内には下の階に降りられる避難はしごが設置されている箇所が多数あるのだ。


 ガチャガチャと夢中でいじって蓋を開けると、ステンレス製の銀色のはしごが下りた。


 冴木を先に行かせ、綾香は後から降りた。


 冴木ははしごを降りるのが苦手なようでかなりもたついていたので、時間短縮のため、綾香はほとんど梯子を使わず飛び降りた。


 相手がまだ五階ににいる以上、こちらが先に一階に降りられたら勝ちだ。


 冴木に上履きを脱いでもらって音を消し、彼女の手を引いて廊下へ駆け出す。無我夢中で階段を駆け下りる。


 緊張しているためか、冴木はたびたびよたついて、走るのが遅かった。


 男子生徒たちが下ろされた避難はしごを発見したのであろう、仰天した声が聞こえてくる。


 二人は何とか一階にたどりついた。もうこれで安心だと思ったのに、まさかの事態が起こった。


「部室棟のドアが開かないっ……。なんで?!」


 通常、内側からだったらセンサーの認識もいらず無条件で開くはずなのだ。


 ドアを挟んであと一歩出られたら自由になれるというのに。


 綾香は何かのエラーかと体当たりする勢いで開けようとするが、それでもびくともしない。


 玄関で慌てているうちに、音を聞きつけて一階に駆け下りてくる男子生徒たちの足音が聞こえてくる。このままだと鉢合わせしてしまう。


 仕方なく、綾香はよたつく冴木の手を取ってまた走り出した。一階の一番端の突き当りの部屋に、身を隠すため飛び込んだ。


 そこは運動部の用具管理室だった。空きロッカーや、休憩用カラーベンチ、長机、椅子などの備品がみっちり多数保管してある。




 男子生徒たちはすぐそこまで迫っていて、バリケードを作っている時間はない。


 窓もはめ殺しで、窓を開けて外に逃げることもできない。


 自由に外に出ることもできなくて何が最新の学校よ、と悪態をつきたくなる。


 外に出られない以上、なんとかこの部屋で隠れなくては。


 綾香は何とか短い時間で知恵をひねり出し、まず冴木を隠す。


「ここに横になって入ってくれる?」


 そう言って彼女を押し込んだのは、運動部が休憩用に使う軽いアルミ製のカラーベンチ、それが梱包されていた箱だ。小柄な彼女ならなんとか膝を曲げずとも横になることができた。


「ちょっと苦しいかもしれないけど……ごめんね! じっとしててね!」


 冴木が横になる前に、予め箱の底に敷かれていた段ボールを抜いていおいたのだが、それを彼女の上にのせる。そして緩衝用に入っていたビニールを再び詰め込んだ。


 綾香命名、“二重底戦法”だ。そのまま隠れても、ビニールで覆ったところで姿が透けてしまう。こんな人の隠れられそうな箱、捜索されないわけがない。


 でも、まさか底の下に寝ているとは思わないだろう。一度見て、ビニールしか入っていないと分かれば、底を引っぺがしてまで探しはしまい。しかも、冴木は細身なのでプラスされる底の厚みも大したことはない。十分目の錯覚を起こせるだろう。


 次は自分が隠れなくてはいけないわけだが、冴木を隠すためにひらめいたようなびっくりアイディアは、もうそうそう降ってきそうにない。


 まずい、まずいと部屋を右往左往する。


 机の下はほぼ丸見えだし、ロッカーの中なんて見るからに隠れやすそうな場所、すぐに探されてばれてしまうだろう。人が入れるサイズの段ボール箱はもうない。


 これは、実はかなりピンチなのではないか。慌てる綾香。男子生徒たちが近づいてくる気配がする。


 見回すけれど、もう本当に隠れられそうなスペースなどないのだ。


 もういっそ、小学生が教室でやる謎の行為のように、暗幕カーテンにぐるぐるくるまって隠れてみようか。いやだめだ、足が丸見えでバカ丸出しだ。


 そうこうしている間に男子生徒たちはついにやってくる。


 綾香は、もうここしかないと、ある場所に隠れることにした。

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