22

 海一は改めて周りに不審に見られていないことを確認し、不良集団たちからさりげなく距離を取る。


「今どこにいるの?」


「学校を出て、駅に向かっているところだ」


「私、今、学校に戻ってきてるの」


 海一は、綾香が少しひそめたような声で喋っていることにも気がついていた。警戒しながら話の続きを待った。


「実は、気がついたら私の財布がなくなってて……。冴木さんを送って、一人になってから気がついたの。パスケースはあったんだけど、財布が見つからなくて……いつなくなったのかもよく分からないんだけど。学校に忘れたり落としたりしたんじゃないかと思って戻ってきてみたら、私と同じように貴重品がなくなったってクラスメイトたちがたくさん学校に戻ってきてたのよ」


 また窃盗があったのか。海一はその頻度に驚かざるをえない。


 それから、先ほど帰りがけに教室棟の電気がいくつかついていたのは、盗難に気づいた生徒たちや教師らが教室を探していたのだろう。


「私は気づくのが一番遅かったみたいで、学校に戻ってきてたクラスの他の皆はもうほとんど帰っちゃったんだけど……」


 海一が「盗まれた時間の心当たりは?」と尋ねると、綾香はすぐに答えた。


「六時間目が音楽で、ちょっと教室を離れる時間があったんだけど、荷物はそのままだったのよね。多分その時じゃないかしら……」


 防犯意識の高い生徒は移動教室の際も財布を持ち歩くらしいが、うっかり忘れていた綾香のような生徒や、さほど警戒心が強くない生徒は少しの間ならと教室の鞄の中に入れっぱなしにしていたのだろう。


 結構な人数が学校に戻ってきたというからには、きっと監視カメラの映像を見直したのだろう。きっと海一が盗聴を終えたのと入れ違いになってしまったに違いない。犯人はまた監視カメラに映っていなかったのだろうか。


 考え込んでいた海一の耳に、電話の先から綾香の困ったような声が聞こえてきた。


「それでね、今先生からいろいろと事情を聞かれたんだけど……。私って、被害届とか出したらヤバいのよね? すぐに保護者の方を呼んで、とか言われちゃって……どうしたらいい?」


 海一はハッとする。そうか、そういう状況になっているのか、と。


「分かった。すぐ対処する」


「警察に行くことや被害届に関しては何とかはぐらかしてる。でも、私だけ警察に行ってないし親も来てないから、ここから動けそうにないの。今、仕事中の親に電話するって名目で隣の部屋にひとりで来させてもらってる。いろいろ頼むわね」


 通話を終えると海一はSS本部に連絡して事情を説明し、すぐに親役の人間に学校に電話を入れさせる。本日すぐには学校に伺えないので、後日我々で被害届は出します、というような内容で。


 SSでは生徒のトラブルで親が呼び出されようが何だろうが、本当の親が出て行くことはない。元SSだったり、訓練を積んだ協力者が家族のふりをしてうまいこと立ち回るのだ。


 また、綾香が財布に持ち歩いていた銀行カード類をSS経由ですべて停止申請した。


 綾香や海一のように全国を転々として任務にあたっているSSは、毎月給与をもらって自分で生活しているので、口座や生活費もすべて自分で管理している。


 ましてや、綾香のように家族や実家を持たない人間はなおさら。








 綾香が再び校門の外に出られたとき、空は真っ暗になっていた。放課後、冴木を家に送り、財布がないことに気づいて、学校に戻って事情聴取を受けてと、ずいぶん長い時間が経った気がする。


 SSが立てた親役の人間が電話を入れてくれたことにより、ようやく学校から開放してもらえた。振り返った校舎は既にどこも灯りがなく、例外的に職員室だけが明るかった。再三の盗難事件の対応に追われているのだろう。


 校門を出てしばらく歩いたところで、海一が待っていた。


 周囲に不審がられないような自然さで、海一は封筒を渡してきた。


「当面の生活費だ。貸す。足りなければ言え」


 メモのような簡素さで、それが何かを説明される。


 財布の盗難が発覚した地点で、綾香の口座はSS本部からの手続きにより凍結されたので、しばらくすぐには自由にお金を引き出せない。だから海一が自分の口座からお金を下ろしてきたのだ。


「ありがとう。用意がいいのね」


 そう言って彼の厚意を遠慮なく受け取った。


 鞄にそれをしまうと、綾香は黙って歩き出す。一瞬遅れて、海一もそれに続いた。


 歩きながら、上下に揺れている彼女の後頭部をじっと見る。


 なんとなく様子がいつもと違う気がする。言語化できない理由なので、気に留めるようなことでもないのかもしれないが。


 財布を取られたのだから、元気がなくなって当然だろう。あるいは正体不明の犯人に怒りを感じているか。


 だがそれにしたって、ずいぶんと落ち込んだ空気をまとっている気がした。


 その微妙な差異を海一が分かるようになったのは、綾香という人間が、落ち込んでいるときは「はぁ~」とため息を連発して愚痴を聞かせてこようとするし、怒っているときは「ムキャー!」と叫んで不満をぶちまけてくるから、ということを把握してきたからなのだが、まだ本人はきちんと分かっていないようだった。


 だから、単刀直入に訊く。


「……何か他に困ったことがあるのか」


「えっ」


 振り返った綾香が、意外そうに目をパチパチさせている。


 まさか彼の口からそんな言葉が出てくるなんて。


 出会ったばかりの頃では絶対に聞けなかったであろう彼のぎこちない気配りの言葉に、思わず綾香は本音を漏らす。


 悲しく笑うように、自嘲的に。


「お財布がとられちゃったのは、まぁ別にいいんだけど……。雑貨屋さんで売ってたそう高くないお財布だし、お金もそんなに入ってなかったし、銀行のカードとかもすぐに止めてもらったしね」


 なら、なぜ。海一の愁眉が不思議そうに動く。


「大したものじゃないんだけど……お財布につけてた猫のチャームがね、妹との思い出の品なの。観光地の安物なんだけど……お母さんにおそろいで買ってもらって。今は二つとも私が持ち歩いてて、お財布につけてたの」


 海一は思い出していた。前に綾香をバス停に送っていったとき、彼女は財布を落とした。大きめのチャームがチリンと音を立てて、その存在を主張していた。


 綾香が妹の分もあわせて二つとも持ち歩いている理由は、言うまでも無い。


 彼女は中学校に上がる直前、事故で家族全員を亡くしている。父、母、妹。身寄りのなかった彼女は、その後すぐにSSにスカウトされた。


 彼女が安物と卑下するそれは、きっと旅行に行ったときの楽しかった思い出を閉じ込めたものだったのだろう。かわいらしいキーホルダーを小さな姉妹に買い与えた母の優しさや、同じものに喜んだ妹の存在を感じられるような、彼女の心を支えてくれたものだったのかもしれない。


 彼女はいつも忙しく笑ったり怒ったりとても元気だから、ともすれば忘れてしまいそうになる。彼女が独りきりで三つの棺桶を見送ったことを。その未来を断ち切られた傷跡が、今も心の奥で疼いていることを。


 綾香は語りながら伏せていた目を開ける。


「しょうがないわ。大事なものを持ち歩いてる私が悪いのよ」


 盗んだほうが絶対に悪いはずなのに、綾香は自分を責める。そこしか気持ちを持っていくところがなかったのだろう。


 分別はついているわ、とでも言いたげにわざと余裕ぶって喋っているようだった。


「泣いてもわめいても仕方ないわ。駄々をこねたって、戻ってこないものは戻ってこない」


 そう諦観したように言ってみせる彼女の「戻ってこない」が、海一にはいろいろなものをさしてしているように思えて仕方なかった。


 少しだけ間が開いてから、吹っ切れたように綾香は明るく言った。


「大丈夫よ。心配しなくても」


 キュッと口角を上げて、海一の顔を見上げてほほ笑んでみせる。


「ありがと」


 ふいに言われた一言に海一は、


「……何も言ってない」


 と返す。


 綾香は、


「分かるわ」


 とだけ言った。


 海一が必死にかけるべき言葉を探していることくらい、綾香には分かる。短いようでいて長い一年半の付き合いは、伊達じゃない。


 綾香はそれだけで十分だと思った。家族がいなくても、思い出の品を理不尽に奪われても。自分には今こうして、心から同情してくれる人がいる。たとえそれが傍目には分かりづらいものだとしても。


 大丈夫。明日になったらいつものように元気になれる。


 綾香は自分を鼓舞するように、星の見えない都会の明るい夜空を仰いだ。






 くすんだ藍色の下でつながる人々に、等しく夜は訪れる。




 ある者は、暗い室内で大きなデスクトップパソコンに向きあっていた。


「あ……。やった、分かった……!」


 壊れかけのデータを修復できて、思わず感嘆の声を漏らす。


 日曜にコピーしたログを分析して、アクセス元がついに分かった。


 これで決定的証拠をつかめるはず。あとはあそこのパソコンを調べたらいい。これで私も、足手まといなんかじゃなくなるんだ。




 ある者は、スマホで電話をかけようとして、迷っていた。


 暖色の灯った部屋でただディスプレイの名前を見つめている。


 今更、何と言おう。


 人づてに聞いた、今も自分を高く評する彼女の言葉。


 自分が彼女を思ってしていたことは、彼女を傷つけていたのではないだろうか。




 ある者は、何かを考えながら夜の街を歩いていた。


 ネオンが照らし出す、年齢に不似合いな端正な横顔。


 どうしようもないとはいえ、それでもどうにかできないものか。


 よく考えれば、何か手立てがあるのではないか。




 ある者は、こんなボロい金稼ぎはないと嗤っていた。




 ある者たちは、心を殺していた。




 各人の押し込まれた想いが、思惑が、あふれ出る時が来た。

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