それは、綾香の咆哮から始まった。


「んがあああああああああ!!!!!! 八剣くんって一体何なの?! 任務やる気あるの?! 邪魔しかしてこないじゃない! ってかあんた、顔大丈夫なの?!」


 コンビニ飯が乗った折りたたみの簡素なテーブル。古く狭いアパートの和室にあるそれはなんとなくちゃぶ台のようにも見える。それを綾香は怒りのあまりに両手で力任せに叩く。体育の授業での一連の話を聞いた綾香が憤慨した結果だった。


「声がでかい。問題ない。周りが驚くから貼っているだけだ」


 海一は綾香の衝動をいち早く察知して、テーブルの上の自分のカップラーメンを両手で持ち上げていた。持ち上げた姿のまま、いつものように淡々と説明する。左頬にはまだ絆創膏が貼られたままだった。


 綾香はまだまだ鼻息を荒くしながらもなんとか自分を落ち着けようと、海一に言うようにして自分にも言い聞かす。


「とにかく! 八剣くんのことは気にしすぎないようにしましょ! そうするようにお互い努めましょ! ね!?」


「ああ」


 同意を求めるというより半ば脅迫に近いような形相でそう言ってくるので、海一はうなずいておいた。火に油を注いで大爆発を起こすような面倒ごとをわざわざ引き起こす気はさらさらない。


 八剣との一部始終はあらかた話したが、綾香が怒りで壊れるかもしれないので眼鏡を蹴られたことは黙っておくことにした。


 綾香が落ち着きを取り戻してから、二人はコンビニで買い込んだ簡単な夕飯を食べつつ会議を再開する。


「……今日もボールペン型盗聴器のデータを回収して聞いたが、特に気になる会話は無かったな。昨日のものと併せて書き起こしておいた」


 そう言って海一が、プリンタが吐き出していたものをそのまま渡してくる。


 近くで会話がされている時、要は黒川が喋ったときだけ盗聴器が作動するので、さほど長時間にはならないが、それでもなかなかのボリュームだ。


 綾香は片手でハンバーガーを食べながら、大量のそれをパラパラとめくり、怪しい会話や気になる発言がないかざっと確認する。


「今日の放課後に黒川が出勤に使っている車を調べたから、明日にでも発信機をつけてくる。校内で不審な行動があまり見られない以上、学校以外のどこかに寄っているのではないかと思うんだがな」


 目では盗聴器の書き起こし資料を追いつつ、口はむしゃむしゃとハンバーガーを食べつつ、耳は海一の話に傾ける綾香。器用にやってのけているというべきか、ただ単に行儀が悪いのか。


「私が今日、黒川先生の空きコマに尾行してたときも、セキュリティルームとかデジタル機器のありそうな部屋にはほとんど行ってなかったのよねぇ。そうだ、たしかその時も途中で八剣くんに邪魔されて……あ。いけない、また思い出しちゃった」


 うつむいて目元に影が落ちた綾香が、手元のハンバーガーの包み紙をぐしゃっと握り潰すのを察知して、海一はまた綾香のテーブルぶっ叩き技がでるかと思い食事を守るべきかと身構えたが、なんとか綾香の理性が持ちこたえたようだった。


 海一は別の話題に移動させる。


「以前にお前が言っていたことだが……。今日、体育の授業で2クラス分の男子生徒たちを一気に見たが、たしかにいわゆる不良のような素行の悪そうな生徒は多いな」


「あ、やっぱりそうよね? うちのクラスのギャルっぽい子たちなんてもうすごいんだから……下品な笑い声が」


 そのうるささを思い出したのか、うんざりしたような表情になる。


「しかし……不良少年たちも、八剣にかかれば形無しだった」


 ただ事実を淡々と述べる海一に、腹立たしい八剣の話題ではあったが、綾香も冷静にそれを首肯する。


「やっぱり強いのね、八剣くんって……」


 あっという間に壁に押し付けられた時のことを思い出す。あの時の殺気、瞬発力、接近された時の気配の無さ。悔しいけれど、八剣がSSとして一級の能力を有していることは認めざるをえない。昼間のことを考えると、後頭部のコブがまた痛む気がした。


「そういえば、冴木はどうなんだ。お前に何かしてきたり、話してきたりはしないのか?」


 唐突な海一の問いかけに、綾香はパチパチとまばたきをする。


「冴木さん? 全く喋らないどころか、視線も合わないわ。一人でいるのが好きなのかしら、クラスの子に話しかけられてもそっけないっていうか。教室でもいつも一人で本を読んで座ってるみたい。昼休みも休み時間も。放課後もすぐに帰ってるみたいだし……」


 そう言ってから少し考え込んで、「ねえ?」と改めて問いかける。


「SSって、相方同士じゃなかったら学校で他人のふりをしなくても……友だちになってもいいのかな?」


 小首をかしげる彼女が気にしているのは、SSのペアは原則として任務中は他人としてふるまうこと、という決まりだ。


「私、SSの知り合いって海一以外いないから……。自分たち以外にもちゃんとSSがいるんだって、まだあんまり信じられなくて。みんなは私の出てない連絡会とかで会ったことあるんでしょ?」


 綾香が口にした“連絡会”とは。日本全国のSS構成員が年に数度、ある場所に呼び集められて行われる集団研修のようなものだ。基本的には夏休みなどの長期休みを利用し、支部ごとにいくつかの場所で行われる。


 関東支部などの大都市を擁する地域は所属人数が多いので、何会場かで複数日程に分けて行われ、必ず一日はどこかの連絡会に出席しなくてはならないとされている。


 だが、例外的に綾香が一度も参加したことがないのには理由があった。


 これまで綾香と同学年の普通のSSが参加しているはずの連絡会は二回。


 一回目は、一年目の任務開始直前。


 一年目の初回任務が開始する前までに、個々人の能力やスケジュールに合わせて数週間から数ヶ月かけて、座学や鍵開けなどの実技訓練も含めたSSとしての基礎研修が行われており、その修了式とSS任命式を兼ねた連絡会があった。


 綾香はというと、SSになることが決まったのが中学に上がる直前だったこともあり、この連絡会には間に合わなかった。連絡会に出るよりも、急ピッチで座学や訓練を修める必要があった。


 二回目は、一年目の夏の連絡会。


 連絡事項の確認や、必要があれば面談なども行われるが、基本的に本部への顔見せの意味合いが強い。重要事項の伝達を行えば、あとは元気でやっていると確認できればそれでいいのだ。普段は次から次に任務が下され、全国を飛び回ることが多く、なかなか直接顔を見ることも少ない。


 その間綾香は、SSの就任前研修をかなりコンパクトにして行った関係で、まだまだ終わっていない実技訓練が多数あり、それをみっちりやらされていたのだった。


 一年次の夏の連絡会からは既に全員にパートナーがいるので、基本的には相方と共に参加することになるのだが、こういう事情もあり去年の夏は海一が一人で出席した。


 海一は綾香の口から出た連絡会という言葉に少し何か考えていた様子だったが、冴木と友だちになってもいいのかという問いかけに関しては、興味がなさそうにこう言っただけだった。


「さあ。任務遂行の妨げにならなければいいんじゃないか」


 デザート用にコンビニで買っていた、生クリームの乗ったプリンを食べながら、綾香は「そっか」と納得した様子だった。頭の中では、冴木にどう話しかけようか早速考えているのかもしれない。


 室内には勢いよく風の吐き出される音が響いている。


 綾香が「暑い暑い」とあまりにうるさいので、冷風機を買ってきたのだ。それも海一のポケットマネーで。SS本部に経費として申請できるかはかなり怪しいと思いながら。


 しかし、結果的にそれはいい判断だったと今は思う。冷房効率の悪いこの部屋でも、エアコンと併用して使うことでかなり過ごしやすくなった。綾香にいたっては冷風気に抱きつかんばかりの勢いでその存在に感謝していた。


「ところで……いつ訊こうかと思っていたんだが、それは何だ」


 いつも夜の会議には身軽でやってくるのに、今日は荷物がみっちり詰められて綾香の鞄はパンパンになっている。


 綾香はやはりこの違和感に気づかれていたかと腹を決め、努めて作った笑顔でこう言った。


「えへへ……勉強、全っ然ついていけない。やっぱり指定先進校になるような学校って難しいんだもの。課題出されたから教えて、っていうかやって」


 自分の中の愛想を総動員して、頑張って語尾にハートマークをつけてみせる。


 海一は深いため息でハートマークを吹き飛ばす。


「お前がバカなのは今に始まったことじゃない。前の学校、平均的な地方の公立校でさえついていけてなかっただろう」


「このプリントの山を今日中にやらないと、明日からの放課後、一週間みっちり三時間マンツーマン補習だっていうのよ~! 辞書とか教科書使ってもいいから全部やってこいって……」


「俺は辞書や教科書と同列なのか」


 なりふり構っている場合ではないので、バカと言われようがなんだろうが必死に訴える。三時間も補習なんてされたら、その一週間は実に毎日九時間授業になるわけで。とても耐えられないと綾香は思う。


「補習で抜けて、私がいないと任務で困るでしょ?」


「いや、全然」


 まったく知らない言語を聞かされた時のように、何を言ってるのかと不思議そうに首をひねる海一。


「それよりも、その軽石並みにスカスカで軽量化されつくした頭をいい加減どうにかしないと、この先本当にまずいんじゃないか」


 綾香はあらゆるイライラを持てる限りの理性で押し込んで、悪質クレーマーに接客するホテルマンのごとく冷静に対応する。


「……分かった。タダでとは言わないわ。何をしたらいい?」


 海一はフムとあご先に手をやると。


「そうだな、まずは風呂とキッチンの掃除。浴槽と換気扇の掃除にまだ手を出せていなかったんだ。次にゴミ捨て。自治体指定のゴミ袋も買ってきてくれ。しばらくかけてないから掃除機もかけて、玄関の電球が切れていたからその買出しも頼む。あと、たまには自炊のものを食べないと体に悪いだろうから、夕飯作りだな。前のときはずっと自炊をしていただろう? 面倒だが食生活としては悪くないと思ってな」


 まるで予め決められていたかのようにスラスラと述べられる要求に、綾香は思わず身を乗り出す。


「はぁ?! 足元見すぎでしょ!」


「なら別に俺はいいんだが。じゃあ、今夜の話し合いは以上で」


 そう言うとサッと立ち上がり、寝室として使っている隣のもう一つの和室に向かおうとする。そんな彼のズボンのすそを、座ったままの綾香が引きずられるように引っつかむ。


「うわっ、ちょっ! ぐへっ。ちょ、待っ、冷血眼鏡……じゃなかった、眼鏡様ぁ~!」


 うーんと、うーんと、と悩みに悩みまくって、なんとかおだてる言葉を引き出そうとする。


「わ、わぁ~ほんと、良さそうな眼鏡をかけてらっしゃるわよねぇ~。いかにも高そうっていうか~。お度数もとっても強そうで~」


 振り返って見下してくる海一は、絶対零度の眼差しだ。サーモグラフィカメラで見たら、今の彼はきっと真っ青に違いない。


「褒めるところが見つからないなら無理に言うな。バカにされているようにしか思えない。あと、思ってもいないことを言うならもう少し上手くやれ」


「よ、喜んでお手伝いさせてイタダキマス……」


 綾香はセリフと表情が合っていない。まずい青汁をジョッキ一杯よく味わって飲み干させられた後のような顔をしていた。


 その後。極限までこき使われた綾香が教えてもらえた問題はというと。


「誰々から手紙が届いた、って二単語で穴埋めすると何?」


「heard from」


「スペルは?」


「h、e、a、r、d」


「タイム アンド ティド? 読み方分かんないや……。ウエイト フォー ノー マン、ってどういう意味?」


「歳月人を待たず」


「オール ロアドズ? なんちゃら、ロメ? 間に入るの何?」


「……」


「ねえ」


「……」


「海一?」


「あ、もうだめだ。眠い。寝る」


 気づくと船をこいでいた海一。さっと立ち上がり、床につくため隣の部屋へ。


 昨夜、何かと作業することが多く睡眠時間が削られていたことと、綾香の召使タイムが予想以上に長引いてかなり夜遅くなってしまったので、うとうとしてしまったのだろう。このままずっと起きていて、明日の任務に支障が出るといけないと判断したに違いない。


 スパンと閉じられた和室の戸に綾香がへばり付く。


「え。ちょっと~~~!! まだ二問しか教えてもらってないんだけど! すーがくが! 全ての悪の元締め的な数学がまだめっちゃ残ってるんだってば~! 平方根って何?! 場合の数って何?! このS字フック横に倒したみたいなの何ぃ~?! も~~~~っ! 海一ぃ~~~~~っ!!」


 寝室に押し込むわけにもいかず、綾香は呪詛の言葉を吐きながら、一人課題の山と徹夜で格闘することを余儀なくされるのだった。

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