7
翌朝。
早くに起床した海一が身支度を整えて寝室を出ると、そこには半口を開けてよだれを垂らしながら、テーブルにつっぷして眠る生き物がいた。
シャーペンを握ったままの右手。何がどうしてそうなったのか分からないが、その先は深々と消しゴムに突き刺さっている。彼女なりに、なんとか課題を終えようと格闘していたのだろう。
彼女をゆすり起こすと、
「うう、バカいいちぃ……」
と、めちゃくちゃ恨みがましい目で見られた。
「貸せ」
テーブルから綾香をどかして、片っ端から課題を片付けていく。
別に海一とて、雑用をこなしたら課題を手伝うという約束を反故にするつもりはない。このくらいなら朝にすべて終えられると思ったから就寝を優先しただけのこと。
筆跡の違いがばれないようにと海一が左手で書こうとしたら、綾香が「私そんなに字汚くないわよ!」と朝からわんわん騒ぐので非常に面倒くさかった。
昨夜、本人も自力でできるところまで頑張ったようだが、そのほとんどが間違えていることに関しては触れないことにした。
その後、あっという間にすべての課題を終えると、海一は先に家を出た。
前の任務では四六時中一つ屋根の下で一緒にいたせいか、海一の家で寝過ごすことにもあまり抵抗がなくなっていた。綾香は合鍵を借り受け、シャワーを浴びてから学校に行くことにした。
自分の家ではない場所で朝早くに起こされたため、いつもは始業時間ぎりぎりに教室に駆け込んでいる綾香にしては、かなり珍しい早朝登校となった。
校庭では運動部が朝練をしている声が遠くに聞こえたものの、教室棟は人気がほとんどなくシンとしていて、もしかしたらクラスで一番乗りの登校かもしれないと思った。
昨晩はあまり寝られなかったのでまだ眠いし、机で少し仮眠を取ろうかと思いながら、入り口のセンサーにウォッチをかざす。
綾香はだらしなく大口を開けてあくびをしながら教室内に入って、ぎょっとした。
「わっ! お、おはよう」
誰もいないと思っていた教室には、一人の女子生徒がいたのだ。
彼女は自分の席に座り、静かに本を読んでいた。早朝の静けさに溶け込むように。そうしていることが当然のように。
その女子生徒――冴木は、チラと瞳だけ動かして綾香を見ると、小さな声で、
「……おはようございます」
とだけ言った。クラスメイトの距離としての挨拶なのだろう。それだけ返すとすぐに視線を本に戻す。
綾香はしばらくまごまごしてから、意を決して、できるだけ明るく話しかけた。
「あ……。その、進んでる?」
それが何を指している言葉なのかは、当然分かっただろう。
だが冴木は、その整った眉を不愉快そうにわずかにひそめる。
「あなたに話す必要はありません」
綾香はこれまで海一だけが目から冷凍ビームを出せると思っていたが、冷凍ビームの使い手がSSに二人もいることを今初めて知った。
どぎまぎしながら、冴木に近付いていこうとする。
「えっと……。私、他のSSの人に会ったのって初めてなの。物置で会ったときはほとんど喋れなかったから……。よろしくね」
冴木は綾香の話など無視し、もう話すべきことは何もないと言わんばかりに目を向けることもない。
「えーとぉ……。八剣くんとは結構仲良いの? なんて、えへへ」
冗談めかしたセリフで会話を広げようと努めるのだが、冴木は全然乗ってこない。
だが、八剣の名前を出したところ。ともすれば聞き逃してしまいそうなくらいのほんの小さなため息をついて、本から顔を上げた。
「……以前お話ししたときから思っていましたが、八剣さんにあまり失礼な態度をとらないでください」
「えっ?」
思わぬ主張に、綾香はぽかんと口を開けてしまう。
「口答え、馴れ馴れしい態度など、目に余るものがあります。八剣さんは次期関西支部長になってもおかしくない方。昔から非常に優秀で、努力家の、すごい方なんですよ」
冴木は手許の読みかけの本をパタンと閉じ、まっすぐに目を見てこう語る。
「いくら神無月さんの相方とは言っても、あなたは完全なる一般人です。それに、神無月さんは神無月家の人とはいえはみ出し者。期待されているものも八剣さんのほうが段違いなんです。普通の家のあなたには分からないかもしれませんが、名家の生まれの八剣さんは、八剣家の未来のため大変苦労されているんですよ。分をわきまえない言動はよしてください」
冷静な語り口ながらも、あふれ出る彼女の熱量に圧倒される。昨日八剣と技術室近くでやりとりしていたのも聞かれていたんだろうな、と何となく分かった。だからこそ、彼女らしくなくこんなに雄弁に言葉を重ねてくるのだろう。
一つ、気になっていることがあった。
「……冴木さんは、八剣くんにも敬語で話してるの?」
能面のように変化の乏しい表情を少しだけムッと曇らせて、
「……その質問に答えることに何の意味があるんですか」
と返す。
綾香は何となく、あの八剣と冴木が二人で砕けた会話をしているところが想像がつかなかったのだ。本当に何となく思っただけなのだけれど。
「私にもあまり馴れ馴れしく話しかけないでください。偶然任務地の学校が一緒になっただけ。あなたと親しくする気はありませんので」
歩み寄ろうとする者へのはっきりとした拒絶。
冴木は再び本を開くと、もう会話は終わったと意味するかのように、また本の世界へ入っていってしまった。
ショックでないと言えば嘘になる。彼らがエリートだから特別こういう態度なのかは分からない。
だから綾香は、SSってこういうドライな関係が普通なのかな、と自分に言い聞かせるしかなかった。
「朝のSHRを始める前に、大事なお知らせがあります」
いつもと違う改まった様子の担任の男性教師の一言に、全員の注目が集まる。
「昨日、一年生のあるクラスで貴重品の盗難がありました。机の中やロッカーなど、自分の手荷物になくなってっている物がないか今から確認してください」
一気にザワザワする教室内。気密性が高く防音がしっかりしているので左右の教室のざわめきは聞こえようもないが、きっとどこのクラスも同じような状態になっているのだろう。
海一は形式上、一応自分の机の中を覗いて確認するが、そもそも転入してきたばかりでほとんど物が入っていない。置きっぱなしの教科書や資料集が何冊か入っているくらいだ。
生徒たちの何人かは早速廊下に出てロッカーを確認しに行ったので、海一もそれにならうことにした。
廊下に出ると、他のクラスの生徒たちも同じようにロッカーを確認させられているようだった。
この学校では、自分の机の中以外に生徒が個人的に所有できるスペースがもう一つある。それは、それぞれの教室前の廊下の壁に沿うように、みっちり並べて設置されたロッカーだ。一人分が大体、下足箱を縦に二個並べたくらいの大きさ。それが上下二段組みで並べられている。
部活の荷物や持ち帰りたくない教科書を保管できたり、体育などで更衣室を利用する以外で貴重品を鍵つきで保管できる、なかなか重宝する場所だ。
出席番号順に並んだそれは、ウォッチをセンサーにかざすことにより開けられる。もちろん、自分のウォッチで解錠できるのは自分のロッカーだけだ。
以前に潜入した職員用ロッカールームはこのタイプではなく、どこにでもあるような普通の縦長のスチールロッカーに市販の錠前をかけただけのものだった。これもデジタル先進校ならではの、生徒向けの試験的設置なのだろう。
だが。「机の中やロッカーを調べろ」という教師の指示から推測するに、恐らくロッカーで盗難があったに違いない。具体的なクラスと被害場所は語られていないが、わざわざそう指示している以上、おそらくそうなのだろう。
いくらウォッチで管理していたとしても、暴力的手段で破壊できない素材ではない。従来のシンプルなスチールロッカーより立派とはいえ、バールをつっこんで力任せに梃子(てこ)でこじ開けるのも、人目さえなければ難しくはない。
海一は自分のロッカーを確認するふりをしながら、周りの声に耳を傾けてみる。
「うーん。特になくなってるものはないと思うけどぉ……教科書と部活の道具くらいしか入れてないから、なくなっても分かんないかも~」
「つーか、盗まれるような貴重品なんて今さらここに入れないけどねぇー」
「私も入れてな~い。てか、あんなことがあってここにまだ預けてるやつがいたらどれだけ能天気なんだよって話」
「センセーたちもなんでちゃんと調べないんだろね。もうこれで何回目? このダサい腕時計何のためにあるの? 律儀につけてるウチらがバカみたいじゃんね」
海一のそばでロッカーを確認しながら大声でお喋りに興じる、派手な女子生徒たち。しゃがみこんでロッカーを確認する姿勢も、短いスカートだというのに恥じらいなく思い切り足を開いて座っていた。教師に怒られないギリギリのラインの化粧で、唇を赤く染めている。何をするのも気だるそうで、投げやりな喋り方だった。
しかし、海一にとってはどんな相手だろうと別に構わなかった。かなり気になる話をしていたのだから。
海一は自分を、人当たりの良い学校モードに瞬時に切り替える。
「ちょっといいかな」
彼女たちは横から突然話しかけられたことに驚き、それから海一の端整な顔立ちを見て、さらに目を見開く。
天性の美形顔に加え、彼はいつもの仏頂面ではなく、好感度抜群の爽やかな笑みを浮かべていた。喋り方だって、普段の海一とは中に入っている人が違うのではないかというくらい豹変している。
海一は任務を円滑に遂行するために、いつからかこの作られた外面を使いこなすようになった。ちなみに、綾香はそれを世界で一番不気味だと思っている。いつものポーカーフェイスよりよっぽど何を考えているか分からないと言う。
「な、なぁに?」
女子生徒たちの声が心持ち高くなった。
「今話していた会話が聞こえちゃったんだけど……。何か前にもロッカー絡みの盗難事件があったのかな?」
海一に尋ねられて、女子生徒たちは顔を見合わせる。先ほどまでのペチャクチャ繰り返されていたおしゃべりが嘘のように、みなしとやかに発言を譲り合う。
一人の女子生徒が海一の眼差しをまっすぐに受け、ドキドキを隠すように控えめに、上目遣いで話しだす。
「えっとぉ、二ヶ月くらい前に、二年生のロッカーから貴重品がごっそり取られるっていう事件があってぇ。犯人とかもまだ分かってないっぽいんだぁ。だから、二年生はほとんどロッカーには貴重品を入れないの」
「被害があったのは二年何組?」
「二年六組だったかなぁ」
海一は少し何かを考えてから、
「教えてくれてありがとう」
と礼を言って切り上げた。
気づけば、しゃがみこんでいた女子生徒の膝頭は仲良くくっついている。
美形男子を眼前にして、粗野に振る舞い続けられる女子などいないのだ。
その後。
今回の調査内容とは関係がないので、特に調べる必要はないのだが。
一時間目の授業を「保健室に行く」と嘘をついて抜け出した海一の足は自然と、窃盗事件があったという一年の廊下に向かっていた。
SSとしての習性、と言えるかもしれない。起こった出来事を自分の目で確認せずに放置しておくのが気持ち悪いのだ。
足音を消し、監視カメラと、教室の窓から姿が見えてしまわないように注意しながら進む。
この学校は敷地面積の関係で普通の学校より横が短い分縦に長く、教室棟の一、二階が一年生の教室、三、四階が二年生の教室、五、六階が三年生の教室、その上に特別教室となっていた。
海一は自分の2年3組がある三階から一階ずつ下ってみる。
ざっと見たところ、この階のロッカーに異常はない。廊下にずらりと並ぶロッカー。暴力的に破壊されているのなら、ドアが外れかけていたり、蝶番がばかになっていたりして、遠目で見ても分かるはずだ。
一階にくだる。
その足が途中で止まったのは、自分以外の気配を階下に感じたからだ。
一年生の教室からは見えない位置で、ロッカーを観察している男がいた。
その人物の視線の先のロッカー群の中のいくつかは、なるほど扉が強引にこじ開けられて閉められなくなっている。
その男は立ったままじっと見つめているだけのようにも見えるが、そうではないことに海一は気がついていた。
隠し持った手許の携帯端末でロッカーの写真を撮影している。あの携帯端末に備え付けられているカメラは、あの距離からでもかなり拡大して鮮明に撮影することができるはずだ。
なぜ海一がそんなに詳しく分かるかと言うと、彼が自分の同業者だからだ。
そこにいたのは八剣だった。
八剣も自分と同じように、任務には関係はないものの、SSとして気になって見に来たのだろうか。
ただ、彼はいつになく真剣な顔をしていて、ニヤリと笑ってみせるいつもの顔とは別人のようだった。海一はそれがとても気になった。
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