5
海一は体育の授業で柔道場にいた。
今の男子の課題スポーツは柔道。男子更衣室で柔道着に着替えた男子生徒たちが、三々五々に柔道場にやってくる。
急に転校してきたという設定なので、柔道着の用意がないだろうと体育科で貸し出し用の柔道着を借り受けた。
その際、共に柔道着を借り受けた男子生徒がいた。
八剣である。
海一のクラスが2年3組。八剣のクラスが2年4組。体育の授業は男女別で2クラスずつ行われることになっているので、道理のように二人は同じ体育の授業を受けることになるわけで。
彼は意味深長な笑みを浮かべて海一を一瞥し、去っていった。えもいわれぬ嫌な予感がした。
海一は今回の任務の性質上、さほど積極的に友人を作る必要もないと思ったので、一人静かに壁際にたたずみ、周囲の生徒たちを観察していた。
以前に綾香が感覚的に指摘していたように、たしかに少々素行の良くなさそうな、言葉を選ばないで言えばがらの悪そうな、不良のような生徒たちが多い気がする。身だしなみ、制服の着こなし、喋り方、歩き方など、直接会話せずとも、振る舞いや見た目を観察すればある程度の想像はつく。
授業が始まる。
不良少年だからといって、皆が皆、喧嘩っ早いわけでは全くない。若さで粋がって多少悪ぶっていたって、ほとんどの人間が人を殴った経験などないに等しいだろう。ましてや殴られた経験など、もっと。
格闘技などの心得があればまた話は別になってくるだろうが、海一が見る限りこのクラスにそういった体術の経験者は皆無そうだった。
受身を練習し、新しく習う技を確認。その後、近くの生徒と組んで乱取り。
とはいっても、素人集団の乱取りなどじゃれ合いみたいなもので、プロレスなんだか柔道なんだかよく分からない、技もどきのようなものが時折控えめに繰り出されるだけ。
任務地ではなるべく目立たないことを心がけている海一は、相手の力量に合わせて適当に技をかけたふり、技をかけられたふりをしておく。自分より明らかに格下の相手であれば、自分の実力をごまかすことくらい大したことではない。
授業は後半になり、柔道場をいくつかのフィールドに分け、トーナメント方式の対戦をすることになった。同時にいくつかの対戦が行われ、その勝者同士がまた戦っていく。
もちろん、海一は初戦でわざと負けた。理由は前述のとおりだ。
負けた生徒はその後場外で試合を見守っているだけでいいので、気楽なものだった。
しかし。フィールド上から人数が減っていくと、海一は不思議なものを見た。
八剣が勝ち上がっているのだ。準々決勝くらいから、八剣が戦うたび周りからは歓声が上がる。彼の戦いぶりを見ている限り、相手が受身を取りきれず危険なので手加減をしてはいるが、負けようとする気は全くないようだ。
SSとして一通りの格闘術の経験を積んでいる八剣。本気を出した彼と周りの生徒たちの強さの差は、言ってしまえば大人と子どもくらい違うのだから、鮮やかに圧勝するのは当たり前である。
しかも、対戦相手が柔道部員だと分かると、これみよがしに大技をかけてこてんぱんに伸していた。そのダイナミックな技を眼前にした男子生徒たちからは、いたるところから「おおっ!」と感心する声が飛び出る。
そんな光景を前に、海一は考えていた。
八剣と冴木はなぜこの学校へ派遣されたのだろう。綾香も疑問に思っていたようだが、海一はそれ以上に疑問に思っていた。1つの学校に2組のSSなど聞いたことがない。
手違いだとしたらすぐどちらかに引き上げ命令が出るはずだし、制服や住居などを用意しなくてはならない手間がある以上、そんなミスがあるとは思いがたい。
綾香の言うとおり任務完了を急いてのことなのか。とはいえ潜入調査という性質上、人数が増えれば必ずしも良いというわけではないし、今のように連携ができていないのならそれは尚更だ。
まさかSS本部は、どちらのペアが先に証拠をつかむか競わせようとでもしているつもりなのだろうか。
海一が深く考え込んでいた時。男子生徒たちの歓声で目の前の現実に引き戻された。
最後の試合である決勝戦が終わり、大方の予想通り八剣の圧倒的勝利で幕を下ろしたようだった。
だが、話はそこで終わらなかった。
「せんせー。ちょっといいっすか?」
勝利の余韻に浸ることもなく、右手を上げて体育教師に何かを申し出ようとしている八剣。
自分たちとは比にならない強さを持つ男が何を言い出すのかと、男子生徒たちも黙り込んで予想外の事態を見守る。
「対戦したい相手がいるんすけど、指名していいっすかね」
一気にざわつくギャラリー。準決勝の相手とはかなりいいところまで行ったから、そいつともう一度やりたいんじゃないか。自分と当たらなかった強い柔道部員と戦いたいのではないか。自分だったらどうしよう、だなんて冗談半分に騒いでいる奴もいる。
海一はものすごく嫌な予感がした。
そして、そういう嫌な予感というものは大概当たるということも分かっていた。
「あそこの……もう一人の転校生とさせてください」
ビシッと指をさされたのはもちろん海一だった。
八剣はどこに海一がいるか予め確認していたのだろう、迷うことなく指差していた。はじめからこういう展開に持ち込むつもりだったに違いない。攻撃的な笑みが向けられる。
自由にやらせていいものなのかと困ったような表情の体育教師の決断は、周りの男子生徒たちの歓声に後押しされてしまう。
「じゃあ、一回だけだぞ! 神無月、いいか?」
周りがこれだけ盛り上がっているのに、拒否できるわけもない。断って水を差せば今後何かとやりづらくなるだろう。
海一は渋々うなずいた。
柔道は眼鏡をかけて行うことはできない。相手も自分も危ないからだ。
柔道の授業中、教師の話を聞く以外のときは、眼鏡を外して離れた場所に置いていた。とはいっても、行うことは初心者向けの受身練習や、お遊びのような乱取り程度。目が見えずとも特に問題なくこなせていた。これがレベルの高い練習や本当の試合となれば、コンタクトをしなくてはならないのだが。
そして今まさに、そういう状況になっている。しかし、コンタクトなど手元にあるわけもない。
さらに言うならば、目立つことを避けようと初心者に合わせて負けることはできなくはないが、八剣相手に下手な手加減などしたらこちらが怪我をする。
悩みながら、海一は眼鏡を外すと少し離れた場所に置き、八剣のもとへ向かう。
彼は遺伝的に非常に目が悪いので、眼鏡なしでは知らない場所や暗い道を歩くことは難しく、壁を伝ってなんとかというレベル。しかしながら、不幸中の幸いというべきかここは明るく見知った場所なので、ゆっくりであればなんとか行動することができた。
二人は柔道場の真ん中で正対する。全員の視線が注がれる。
今の海一の視力では向かい合う八剣の顔すら認識できなくなっていたが、あの悪意ある笑みを浮かべているだろうことは容易に察せられた。
審判役になる体育教師の「はじめ!」の声で、八剣は風のような速さで動いた。たちまち海一の柔道着を自分のいいように引っつかむ。
海一はそもそも八剣の柔道着の襟など見えてもいないので、自分から動けるわけもなく。ただ繰り出されるものを予測して上手く受けるしか選択肢はなかった。
いたぶるように散々振り回された後、思いきり前に引き出され、ももの内側を跳ね上げられて、かかとが宙に弧を描く。海一の取った受身で左手が強く畳を叩く音が大きく響いた時には、きれいに内股が決まっていた。彼でなければとても受身を取りきれなかったであろう、勢いと速さだった。
互いにしか聞こえない声量で、八剣はあざ笑うように言う。
「そんなもんか、神無月の外れ者」
それから八剣はなんと、そんな海一をまだ痛めつけようと片腕を無理に引き上げ、また起き上がらせようとする。
「やりすぎだ! やめなさい!」
そう体育教師が制止されるまで、八剣は海一を放すことはなかった。まるで自分の獲物であるかのように。
教師には聞こえないくらいの舌打ちで残念さアピールして、ようやく海一の柔道着から手を離した。
海一は歪む視界の中でなんとか上半身を起こし、やっと終わったかと息をつく。久々の感覚に頭がぐらぐらした。
ふと左頬に違和感を覚えて指先で触れると、畳にこすったのか擦り傷ができていた。
「ほらよ、眼鏡。悪いな、踏んじまった」
海一のもとに八剣が蹴ってよこしたのは、離れた場所に置いてあった彼の眼鏡だった。
海一は怒ることも何の反応をすることもなく、いつもの無表情のまま眼鏡を拾い、かける。
はっきりした視界で認識したのは、するどい犬歯を見せてニヤニヤ嗤う八剣。それと、その周りのギャラリー。しかし試合前までとは違い、単純に八剣の強さを観戦して楽しんでいた盛り上がりは収まりをみせ、人が変わったかのように攻撃的になった八剣に、「あいつ、ヤバくないか?」とざわつくような反応に変わっていた。
自分に執拗に絡んでくる理由は分からないが、挑発されているのは目に見えていた。昨日の出会い頭からのわざと怒らせようとするような発言から、分かっている。
しかし海一としては。けして慣れたいものではなかったが、これまでそれ以上にひどいことは散々されてきたし、耐えられないことではないと思う。八剣の行為から、自分の意識の焦点をずらすことを心がける。
それに不思議と、不快ではあるものの昔ほど激しい怒りは湧いてこないのだ。なぜだか分からないが。きっと綾香なら怒ってギャンギャン言いまくるだろうけれど。
八剣はなぜ海一にきつく当たるのか。神無月家の人間だからなのか。それとも、海一個人が気に食わないからなのか。
思考は授業終了のチャイムにかき消された。
次の時間は綾香たちのクラスが体育だった。男子は柔道だが、女子は水泳である。少し前まで男女の競技は逆だったそうで、女子の水泳はまだほんの一、二回目らしい。暑くなってからの水泳に喜んだり、日焼けを気にしたり、女子生徒たちののはじけるようなにぎやかな声が教室で奏でられる。
綾香はというと、水泳は大歓迎。もともと教室でじっとしているよりも体を動かしたいタイプなので、基本的に体育の授業は大好きなのだ。
やる気満々で用意していた水泳用具を詰め込んだプールバッグを持って、意気揚々と教室を出ようとすると。
「綾香ちゃん、待って」
仲良くしているグループの女の子の一人が彼女を呼び止めた。きょとんと振り返った綾香に忠告する。
「貴重品ちゃんと持った?」
「え……。みんな、お財布とか持っていくの?」
みんながみんな、手元にそれぞれの貴重品をかかえているので、綾香は目をぱちくりさせてしまう。
「そりゃ持ってくよ~。教室に放置してくなんて無用心じゃん」
当たり前のようにそう言われる。
それぞれの学校にはそれぞれの常識があるので、綾香もそれには出来る限り早く順応しようとは思っているのだが。
でもこの学校の場合、最新の学校セキュリティが設置され、入退室の記録や監視カメラの映像もしっかりチェックされている。
この教室のドアだって全員が出たあとはロックがかけられ、職員かクラスの人のウォッチでなければ開けることもできなくなる。開けた人間の履歴は残るので、やましい行為を働けば、たちまち白日の下にさらされてしまうだろう。
だから、みんながそんなに盗難を警戒していることをちょっぴり不思議に思った。
逆らう理由もないので綾香もみんなと同じように貴重品を持ち、女子生徒たちと廊下に出る。
すると、ちょうど他のクラスの男子生徒たちが体育の授業を終えて戻るところだったらしく、混雑した廊下でこんな話題が聞こえてくる。
「いやぁ、さっきの柔道の授業、すごかったな……」
「そうそう、転校生がやばかったよな。ちょっと引いたもん」
「相手、顔にケガさせられてたよな」
SSとしての習性なのか、それとも単純に噂話が耳に入りやすいのか、しっかり聞き取ってしまう。
みな口々に、転校生がすごかった、相手が顔に怪我をした、という話をしている。
綾香は疑うことなくこう思っていた。海一ってば一体何をやってるのよ、まず目立たないことが鉄則だって言ってたじゃない。あのバカ! と。
だから、廊下ですれ違った海一の左頬に貼られた大きな絆創膏を見て、「えええええ?! あんたがされたんかい!!!」と心の中で芸人のように大げさなつっこみを入れてしまったのは仕方のないことだった。心底驚いて、口があんぐり開く。
ということは。
“転校生がすごかった”ということだから、この怪我を海一に負わせた人間は一人しかいない。
「八剣くん、何考えてるのよ……」
誰にも聞こえないくらいの声で、綾香は信じられない気持ちをつぶやいた。
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