4
翌日。
綾香は適当に理由をつけて授業を抜け出していた。
今日は綾香が空き時間中の黒川を追跡する担当となっていた。どちらか一方が毎回授業を抜け出していては怪しまれるので、海一と互いのクラスの時間割と黒川の空きコマを照らし合わせ、相談しあってスケジュールを決めた。幸い、黒川は学校中の全クラスの技術科の授業を担当しているため、あまり空きコマがない。
監視カメラに映らないように、他の教室から見えてしまわないように注意しながら、職員室から技術室方面へ向かう黒川を尾行する。薄い水色の半袖ワイシャツに黒のスラックス姿で、小脇には大量のプリントを抱えている。
昨日一日黒川をマークしていた海一いわく、黒川は一度もセキュリティルームには立ち寄っていないそうだ。今もまた、セキュリティルームとは反対方向へ向かっている。
するとその時。あともう少しで技術室というところで、黒川の進行方向の曲がり角から女性教師が飛び出してきた。勢いよくぶつかって、プリントがあちこちに舞い散らばる。
黒川と女性教師は慌ててそれを拾い集める。拾いながら女性教師は、「ごめんなさい、ごめんなさい」と申し訳なさそうに連呼していた。
大量のプリントを集めるのには結構な時間がかかった。全て集め終わると、改めて女性教師はぺこぺこ頭を下げる。黒川は「いやいや、全然大丈夫ですよ」と笑顔だ。迷惑どころか嬉しそうにさえ見えると、物陰に隠れて様子をうかがう綾香は思った。
よく見ると、女性教師はかなりの美人。だからだろうか、もともと糸目の黒川の目尻はだらしなく下がりきっている。
「ほー。デレデレしてんなぁ、あのおっさん」
周囲からは完全に死角になる階段下の小さなくぼみに身を隠していたのに。耳元で平然と喋られて、綾香は飛び上がるくらい驚いた。思わず声が出そうになって、とっさに自分で自分の口許を強く押さえる。
綾香のそばにまったく気配なく現れたのは八剣だった。性格の善し悪しはともかく、その存在の消し方は驚嘆すべきもの。SSとしてかなり気配に敏感な綾香に二度も気づかれず接近するというのは、並大抵の人ができることではない。
「や、八剣くん……!」
なんとか呼吸を落ち着かせた綾香が、抑えた声量でなんとか名前だけ口にした。まだ心臓がドキドキと高速で動いている。
「見た目がいいってだけで人生は得だよ。白雪姫だってキレイだから助けられたんだし、シンデレラも美人だから王子に見初められたわけだ。空から降ってくる少女も、見た目が悪かったらスルーされてそのまま地面に落ちてたかもしれない」
黒川と女性教師に目を向けたまま、自論を語ってみせる八剣。
「何が言いたいの」
むくれている綾香を至近距離でじーっと見つめると、ニッと片頬を上げて不敵に笑う。
「ま、俺はいいと思うよ」
と、綾香の髪を勝手に耳にかける。
「ほら。いい顔してんじゃん」
「さっ、さわんないでよっ!」
なれなれしい八剣の手を振り払い、自分たち以外ここには誰もいないとは分かっているけれど、それでも何となく、見られていないか周りを見回してしまう。
「八剣くんってB専ってやつなんでしょ?! そんな人に褒められたくないっ」
「誰が見ても普通にキレイな女を褒めてどうなるんだよ。そういう奴はみんなが褒めるから、俺は俺独自の視点で評価してやってんの」
極力抑えた小声ながら怒鳴りつける綾香を、とんでもない俺様理論で諭そうとしてくる。
「その独自の視点が難ありなんだってば……」
話の通じない八剣に肩を落とす綾香。SSってこんな変な人しかいないの? それとも名家の人間っていうのは皆どこか世間とはずれているものなの? と、答えの出ない自問を心の中で繰り返す。
「そうそう。昨日話してた、お前らのこと嫌ってる重役って田辺のおっさんだってな。なんだっけ、お前が馬乗りになってタコ殴りにしたんだっけか?」
「話が大きくなりすぎて原型をとどめてないわ……」
どこからどう訂正すればいいものか、頭をかかえたくなる。
「あの人が、海一のことを悪く言うからよ。しかも、本人の努力じゃどうにもならないようなことをね。生まれだとかなんだとか、それって海一自身が悪いことじゃ全然ないじゃない。私はそういうの腹立つの」
八剣は自分で話を振っておきながら、ぷぅとふくれる綾香の説明には関心を示さない。
そうこうしているうちに、視線の先の黒川は技術室に入り、女性教師は小走りで職員棟方面へ向かっていく。
姿が見えなくなった黒川。しかし技術室の中にはパソコンなどの機器はなかったはずなので、中でできることなどたかが知れている。恐らくあのプリントの整理と次の授業準備をするのだろう。
綾香はふうと肩の力を抜く。
「……もしかして協力しに来てくれたの?」
チラと見上げる綾香に、八剣は「はぁ?」と不可解そうな顔をする。
「何で俺が。そんなわけないっつーの。俺はただ、お前が授業を抜けてくのが見えたから、ちょっと抜け出してつけてみただけ」
彼の意図が分からず、綾香がいぶかしげに小首をかしげると。
「神無月家の相方ってのがどんなもんか、見に来てやったんだよ」
八剣の口許に、いつか見た嗜虐的な笑みが浮かぶ。
「あいつに媚びても無駄だぜ」
「媚びてなんかないわよ」
一瞬でピリッとした緊張感に、綾香は自分の声が強張るのを感じた。なんとか平静を装いながら言葉を返す。
「なぁ、アイツってどうだ? どんな風だ? あんなのと一緒にSSの任務をやれてるのか? あれ、何考えてるか分からなくておっかないだろ」
ビシャビシャに撒かれる誘い水。ニヤニヤと、綾香から吐き出される悪口を楽しみにしているよう。
綾香はじっと八剣の瞳の奥を探ろうとする。
「……どうしてそんなことを訊くの」
鋭くなる眼差し。
「誰にも言わないでやるから、俺が神無月の不満を聞いてやるって言ってんだよ」
「なんであなたにそんな話をしないといけないの」
空調の音だけが響く空間で、二人の間に険悪な雰囲気が漂う。
「あなたの言葉には悪意がある。不快だわ」
張り詰めた空気を一太刀で裂いたのは、八剣の低い声だった。
「……お前、誰に向かって口きいてると思ってんだ?」
次の瞬間には、あっという間に八剣に身動きの自由を奪われ、壁に押し付けられていた。殺気を感じて飛び退こうとしたけれど、避けられなかった。反応が間に合わなかった。
八剣は、恐ろしいくらい、できる。
大口を叩き、横柄な態度をとっているだけある。
軽口を叩き合っていた時とはまるで違う、そのまま殴りかかられてもおかしくない気迫に、綾香は考えを改めざるをえなかった。
この人は仲間なんかじゃない。少なくともこの人にそのつもりはない。同じ組織の人間でありながら、敵にすらなりそうな。
鼻頭が触れ合いそうなくらい顔を近づけて、八剣は言った。
「凡人が八剣家にそんな口をきいていいと思ってんのか? 来年には俺がお前の上司になってるかもしれないんだぜ。態度に気をつけろよ、一般人」
獣のような暗い光を目に宿して、鼻で笑い、去っていく。
体を解放されたとき、綾香は腰が抜けてしまっていた。壁づたいにそのままへたり込む。自分の頭で自覚していた以上に、怖かったんだろう。
気づけば片方の手は制服の下の携帯端末にある、相方への至急のSOSを求める緊急通知に指をかけようとしていた。
同じSS同士のはずなのにどうしてこうなってしまうのだろうと、綾香は悩ましくため息をつく。綾香にとっては初めて出会う、自分たち以外のSSの人なのに。
壁にぶつけられた後頭部が痛む。
ウォッチで時間を確認すると、まもなく授業終了のチャイムが鳴ろうとしているところだった。
強くつかまれて痛む腕をさすりながら立ち上がり、早く戻らなければと小走りで教室の方へ。
トイレの前を通ったとき、自分の身だしなみを鏡で確認して整えた方がいいかもしれないと思って駆け込んだ。しかし、そんな時間はないかと思い直してすぐにトイレから飛び出すと。
「あ……」
綾香が思わず口を開いたのは、ある人物と鉢合わせたからだった。
自分が走ってきた技術室方面から、絶妙なタイミングで現れた人。
それは、同じクラスのクラスメイトであり、SSでの八剣の相方でもある冴木だった。
彼女も教室を抜け出していたんだ、という驚きと、もしかしたら先ほどの八剣とのやりとりを見られていたかもしれない、という焦りでドキッとする。
冴木は、トイレから飛び出してきた綾香の存在に明らかに気がついているだろうに、目もあわせずにすれ違っていく。意識的に綾香を無視しているのは、綾香自身にもよく分かった。
あからさまな態度に胸が痛む。
冴木は八剣の相方なのだから、彼と同じように思っていてもおかしくないだろう。
八剣はなぜ、あんなことを訊いてきたのか。
冴木も、八剣と同じように海一を目の敵にしていたりするのだろうか。
答えの出ない問いを抱いたまま、綾香は教室へ戻っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます