3
蒸し暑い夜。綾香は海一の家を訪れていた。
今回の二人の住居は珍しく距離がある。大体、地下鉄で二駅分ほど。
通常、同じ学校に派遣されているペアなら同じ学区に住むことになるはずなので、そう遠くはならないはずなのだが。
転入当初から不思議に思っていたのだが、今日の出来事で理由がはっきり分かった。
「なんでこんなに家が離れてるのかようやく分かったわ」
「八剣と冴木が来ているから、だろうな」
室内はエアコンを効かせているにもかかわらず、綾香は気だるそうに下敷きで顔を扇いでいる。
デスクトップパソコンに向き合っている海一は扇風機の恩恵を受けてはいるが、それでも時折、蒸し暑そうに胸元のシャツをつかんで風を送っている。
それもそのはず、今回の海一の住居は古いアパート。しかもその外観は学生というより苦学生が住むようなイメージの部屋。とても中学生が親と住んでいるとは思えないし、ましてや中学生が一人で住んでいるなんて思いもしないだろう。
室内は狭い和室の二間。素手でも叩き割れそうな薄いガラス窓は、目の前の道路に車が通るたびに音を立てて揺れる。薄暗く狭い台所の換気扇は四枚羽が丸出しのレトロな形で、紐を引くと今にも壊れそうなくらいガタガタ大きな音を立てて回る。
どこかに隙間があるのか、壁が薄いからなのか、白いエアコンがクリーム色になるくらい古いからなのか、空調の効きはすさまじく悪い。なぜSS本部がここを任務用住居として借り上げているのか非常に理解に苦しむ。
言うまでもないことだが、きれいでしっかりしたマンションは八剣と冴木に割り当てられているのだろう。それもきっと、徒歩で行き来できるくらいの距離に。
さすがに綾香の住居は、立派とは言えないまでもここまでひどくはない。一応は女子である彼女のために、海一がこちらのより外れのほうを自ら引いてくれたのだ。
綾香としてもそれは言葉にされずとも何となく分かっていたので、その点は感謝しないとは思うのだが。考えてみると、パソコンが海一の家に置かれる関係で、結局そちらへの滞在時間が長くなるのである。
「……ちょっと、たまにはこっちにも扇風機向けてよ。パソコンにばっかり向けてないでさぁ」
「バカ言え。こんな蒸し風呂のような部屋に精密機械を置いていることがまずありえないんだ。パソコンが熱暴走を起こすのが一番怖い」
そう断言する海一に、綾香は不満げにボソッとひとりごちる。
「もう。パソコンと私、不調をきたしたらどっちが大変だと思ってるのよ……」
「パソコンだ」
問題にもならないくらいの回答速度だった。
綾香は海一に何か言いたげな視線をじぃっと送ったけれど、一切効果がなかったので仕方なく諦めた。とにかく暑いので、無駄なことをあれこれ言い争う気力もわいてこないのだ。
ここに来る途中に買ってきたアイスを冷凍庫から取り出して、食べながらクールダウンさせる。体も心も。
アイスを見ると、綾香はまた思い出してしまう。コンビニでも一悶着、不毛なやりとりをしたのだ。
夜の住宅街のコンビニにて。
二つのアイスでずっと悩んでいる綾香に、自分の晩飯を買い終えた海一が呆れて声をかける。
「まだ決まらないのか?」
「だって……見てこれ。こっちは私が好きなやつね。『ストロベリーショートケーキホイップサンダーミルフィーユメルティホワイトチョコレート』、207円。で、こっちはこのコンビニ限定の、『ミニャストップオリジナルコールドスイーツシリーズトロピカルマンゴーアップルトリプルパフェ』、320円。これは今だけ7パーセントオフなんだって。安くなってるならこっちを買ったほうがいいのか迷って迷って……」
難しい顔をした綾香が見せてくる値札には、お買い得を誇るように大きく「お値下げ品! 7パーセントオフ」と書かれた赤いシールが貼ってある。
プロレス技のような名を噛まないで言えるあたり本当に好きなのだろう。けれど。
人間電卓の速さで、海一が呆れたように口を開く。
「320円の7パーセントオフはおよそ22円しか引かれていない。割引後の金額は298円。ストロベリー以下略との値段差は依然として91円もある。大方、割高な商品に値引きシールを貼ることでお得感をあおっているのだろうが、たかだか22円に踊らされて91円損をすることになるぞ」
綾香に負けないくらいの長台詞を一気に言い終えた。
彼の冷静な意見に、綾香は思わずグッと引き下がる。たしかに自分は何パーセントオフだとかの計算がとても苦手で、計算することを放棄し、「~パーセントオフ」だとか「セール」だとか書いてある商品を買っておけばとりあえずお得だろうという考えがあるのは否めない。だからこそ、海一の言うとおり値引きシールに飛びついて踊らされそうになっていたのだ。
でも、それを認めるのは癪(しゃく)で。ストロベリー以下略を手にとって、ミニャストップ以下略をさりげなく商品棚に戻しながらべらべらと話す。
「こ、こっちもおいしそうだな~って考えてただけ! 夏だから! マンゴーの季節だから! それに、22円だって軽んじたらだめよ。ほら、『1円を笑うものは10円でも笑う』とか言うでしょ」
「笑いっぱなしで良かったな」
呆れるというより哀れむような視線を向けてくる海一。「なら100円は大爆笑か?」とでも言いたげだ。
恥ずかしさで綾香の頬がヒクヒクと引きつる。
「……何? 言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ」
「悪口になるからやめておく」
「いつも人にバカだのなんだの言ってきてるじゃない!」
「そのことに関しては俺は事実しか言ってない。決して悪く言っているわけじゃない」
綾香はここからまたまくし立ててやろうと思ったのだが、カウンターまで声が届いていたのか店員からの不審な視線を受けて、渋々ぐっとこらえた。
コンビニがかなり涼しかったから気づかなかったが、あれでも相当エネルギーを消耗してしまった気がする。
綾香は207円のストロベリーショートケーキホイップサンダーミルフィーユメルティホワイトチョコレートを食べながら、任務の話を続ける。
「それで、録音は聞き終えた?」
「ああ。黒川が学校を出てすぐ机上のペン立てからボールペン型盗聴器を回収して、帰りながらイヤホンで倍速にして聞いていた。……今のところ、特に怪しい会話はないな」
「まあ、普通は職員室内でそんな込み入った話はしないわよねぇ。他は?」
「俺が休み時間と放課後につけた限りでは、黒川は今日は一度もセキュリティルームには立ち入っていない。空きコマはもっぱら職員室で授業準備などに追われていたようだ」
話しながら海一がパソコンのディスプレイに表示させた画面を、綾香も横から覗きこむ。
「これがロッカーでコピーした黒川のUSBの中身だ」
「うーん……授業計画書と、授業で使うプリントのデータ、あとは細々した学校運営の資料かぁ」
警戒心もなく身から離されていたUSBにそんなに期待していたわけでもないけれど、わざわざ潜入した成果がこれだけでは少々気落ちするのも無理はない。
さらに海一が表示させたのは、SS本部から送られてきていた黒川の簡単な履歴書。捜査対象人物が予めSS本部から指示されていたこともあり、データが届くのも早かった。
「地元の公立小学校を出て、普通に公立中学校に進学して、近所の公立高校、そのまま浪人することなく上京して都内の中堅私立大学に入学。卒業後は大手IT企業に就職。大学時代に取得していた教員免許を生かし、数年前に教員に転職。技術科担当。現在40歳。……特に問題のありそうな経歴でもないのよねぇ」
教員採用試験時の志望動機なども添えられているが、こういうものは採用されるために聞こえのいいことを書くわけで、あまり当てにならない。例に漏れず、黒川のそれにも同じような建前らしい理由が書かれている。
「……魔が差すことは誰にでもある。今は一般企業でも、会社規模に関わらずメガリークが内部犯によって発生することは多いそうだからな」
海一の言葉に、綾香はうなずく。
これまで全国各地で様々な任務に当たってきたが、初めからいかにも怪しいという人などめったにいない。最初から悪いことをしようと決めている人間などほとんどおらず、それまでにいろいろな事情があった結果、そういう行動に至っているのだ。
履歴書のそばには採用試験時の黒川の写真が掲載されている。見た目に無頓着そうな、癖毛がそのままにされたふんわりした髪形。少しだけふっくらした頬。糸目に近い、地顔が笑っているようなどこかほんわかとした、良く言えば優しそうな、悪く言えば気の抜けたような顔。
この男が抱えている闇とは一体何なんだろう。
綾香は写真の男をじっと見つめていた。
翌日からの調査の動きを話し合ったあと、綾香はバスで帰ることにした。今回の互いの家は地下鉄二駅分ほど距離があるので、徒歩だと時間がかかるのだ。
二十二時くらいに「そろそろ帰るわ」と立ち上がった綾香に、海一が「途中まで送る」と言い出した。
「あらそう?」
珍しいわね、と目をぱちくりさせる綾香に、
「何でもない一般人がお前に勝てるとは思っていないが、世の中には八剣みたいな物好きもいるみたいだからな」
と、海一がさらりと言う。
綾香は昼間の心的ダメージを思い出してウッとなる。
「ちょっと。私まだ八剣くんの言葉から立ち直りきってないんだからやめてよ」
正確に言うと、問題だったのは八剣の言葉というよりも、八剣の言葉が発せられた背景だ。
八剣は綾香のことを「俺の好みの顔」と言ったが、彼の相方の冴木いわく「八剣はB専」で、彼もそれを自覚しているようだった。
「はあ……。だから前から言っているだろう。不細工ではない、ただ凡人並みなんだ。至って平凡。普通だ、普通。偏差値50。5段階評価で3」
なぐさめたいのか、それともとどめを刺したいのか。海一の言葉がズバズバと綾香に突き刺さる。
「普通普通言わないでよ腹立つから! たとえ事実でもそれを言ったら怒られることだってあるのよ! ハゲてる人にハゲって言ったら傷つくの分かるでしょ?! 太ってる人に太ってますねって言う?! 大喧嘩どころか下手したら訴えられるわよ!」
身を乗り出してわめかれて、海一は片耳をふさぐ。
「それに……私だって、ちゃんとすれば結構いいねなんて言われたりしないこともなかったりするのよ」
「誰に」
顔を背けて、綾香がぼそっと答える。
「……私の実家の右隣のお宅の、そのまた左隣のお宅の娘さんが言ってたわ」
「それはお前自身のことだろう」
ばれたか、と綾香は顔をしかめる。やはり言葉のあやでは海一に勝てそうもない。
隣を並んで歩く海一の顔を、横目で盗み見る。
母親が違うにもかかわらず、見上げた彼の横顔は美人の宮乃の面影と重なる。
毎度のことながら、生まれ持ったものの差にずるいなと思ってしまう。
海一の端整なルックスは、これまでの各任務地での反応で折り紙つき。冗談でも皮肉でも彼に見た目のことを悪く言ったとしても、どう見ても白いものを指して黒い黒いとわめいているかのように、周りにきょとんとされるに違いない。
黙りこんだ綾香がシュンとしたかと思ったのか、海一は珍しくなぐさめるような言葉をひねり出した。
「まあ、お前にもいいところはある」
綾香のいじけた瞳が、「何よ」と海一を見上げる。
彼なりに心当たりを探してみたのだろう。少しというには長すぎる、思案するような間があったのち。
「……俺よりも遠くがはっきり見えるだろ」
「私の長所、眼鏡と同じじゃない……」
期待を持たせて叩き落とす。綾香は頬をピクピクと引きつらせるしかなかった。
この辺りの道は知っている、と言う海一の案内でバス停に向かう。
彼のアパートがある雑多な住宅街を抜けて、大通りへ。
シャツが肌にへばりつく、ねばっこい熱帯夜の空気。
星一つ見えない黒い空は都心部の明かりを受けて煙たく濁り、くすんだ紺色の夜空を作る。
「あづい~」
綾香は少し前からこれしか言わなくなった。近年の夏の暑さは、夜であっても異常だ。熱気と湿気が肺にまで満たされる感覚がする。
「ねぇ、なんで夏って暑いの……?」
意味はない問いかけだと分かりながら、それでも答えが欲しくて問いかける。
「地軸が傾いてるからだろうな……」
シャツを引いて胸元に風を送り込みながら、海一は答えた。
「何ぃ、地軸め……」
綾香には仕組みや理論はちんぷんかんぷんだったが、行き場のない怨嗟(えんさ)をそれに向けることにした。
走り抜ける車のヘッドライドとテールランプに代わる代わる照らされながら、陸橋の下のトンネルを抜ける。
開けた先には大きな川と橋。遠方には日本有数の閑静な高級住宅街が見える。
お屋敷とさえ呼べるような家々が集まるそこを遠目に見つめていた綾香は、ふとあることを思い出す。
「ねえ。八剣くんと冴木さんって、どうしてこの学校に来たのかしらね。SS本部が犯人検挙を急いでて、二組も派遣されたのかしら? それとも単純に手違いで?」
何の気ない綾香の問いかけに、海一は考え込む。
八剣と冴木は、綾香と海一がこの学校に潜入していることを初めから知っている様子だった。それにもし手違いだとしたら、SS本部により早急に何らかの対応がされているだろう。
「ま。私たちは私たちでやるしかないわよね。この学校には私たち以外にも、エリートを絵に描いて色まで塗ったようなのが二人も派遣されてるんだから、もしかしたらすっごく早く調査を終了できるかもしれないし」
綾香の希望的観測に、海一はまだ自分の中でもまとまりきっていない考えを適当に言うことはできなかった。とりあえず、「そうだな」とだけ言っておいた。
「……海一は、八剣くんのことは前から知ってたの?」
気になっていたことだったのか、遠慮がちに綾香が尋ねてくる。複雑な彼の出生やつらい過去の話になるかと思い、あまりずけずけと訊いていいことだとは思っていないのだろう。もしかしたら、こちらの方が訊きたい本題だったのかもしれない。
海一は特に気にする様子もなく、いつもの調子で返す。
「一応、存在は知っていた。関東支部で神無月家の発言力が強いように、関東支部では八剣家、次いで冴木家が有力らしいと」
「名門がどうのとか、何度も言ってたわね」
「俺はそういう親族の集まりだとか、有力者の会合なんかにはほとんど出たことがないから具体的にはよく分からない。本人がご丁寧に自己紹介してくれた通りなんだろう」
彼の言うように、海一は神無月家の苗字を名乗ってはいるが、本当にそこの一員としては扱われていない。中枢のことなど知りようもないのだろう。
だからこそ、誰でも分かっていそうな外郭をなぞるだけの情報が、彼の知る全てなのだろう。
八剣たちとの会話を思い出して、綾香は気になっていたことをもう一つ思い出す。
じいっと横から覗き込んでみると、瞳だけ動かして「何だ」と見返された。
「ねえ。あんたのパートナーへの希望って、何を出したの?」
綾香が気になっていたもう一つのこと。それは八剣が言っていた、「腐っても神無月家の人間が、何も希望を聞いてもらえなかったのか?」という言葉。
綾香はそれを聞くまで、組まされるパートナーへの希望を出せることなど全く知らなかったのだ。完全ランダム、あるいはSS本部側の事情のみ考慮されるものだとばかり思っていた。
海一が答えないので、具体的に提示してみる。
「身体能力が高い子とか?」
黙殺される。
「足の速い子?」
また黙殺されて、しばらく。
「……そんなに知りたいのか?」
「そりゃあ、気になるわよ。私は希望が出せることすら知らなかったんだから」
海一の返した言葉から、彼が本部に何かしらの希望を伝えたのでであろうことは分かった。その希望が通ったにせよ、通っていないせよ。
まだ口を割らない海一に、綾香は提示し続ける。
「うーん。……気が利く子?」
「違う」
「頭の回転が速い子!」
「違う」
いずれも気持ちいいくらいの即答だった。
「まさか……。性格のいい子、とかだから照れて言えないとか……?!」
目を見開いてまさかの可能性を期待する綾香の背を押して、海一は言った。
「それは絶対にない。ほら、バスが来てるぞ。早く行け」
少し先のバス停に、バスがちょうどたどりつこうとしていた。
それに気づいた綾香は、走り出しながら学生鞄から急いでパスケースを引っ張り出す。記録が残ってしまうので、学校外ではウォッチは一切使わない。
パスケースを引き出した勢いで、鞄からポロリと財布が落ちる。つけられていた大きめのチャームがコンクリートにぶつかって、チャリンチャリンと音を立てた。
音に気づいて振り返った綾香に、海一が拾い上げた財布を下手で投げる。
綾香はわわっと手元を慌てさせながらなんとかキャッチした。
「ありがと! じゃあね」
自慢の俊足でウサギのように軽々駆け、滑り込んできたバスに余裕で乗車する。
夜遅くに制服姿で出歩いていても、この辺りならあまり怪しまれることはない。塾などでサラリーマンに負けないくらい夜遅く帰宅する学生も珍しくはないからだ。
綾香は座席について呼吸を整えると、くせのように財布のチャームを掌の上でもてあそびながら窓の外を見る。
既に背中を向けて帰路についている海一の姿があった。
奴の出した希望は何だったのかしら。綾香はムムムと、気になるそれをバスに揺られながらしばらく考えていた。
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