29

 綾香と海一は室内に下ろされていた避難はしごをのぼり、五階に上がった。


 五階の部屋のドアも、五階の廊下の非常扉も、コンピュータから下される指示通り閉まろうとしているのだが、海一が挟んできた物が邪魔でその命令を果たせず、反復運動を繰り返していた。


 二人はそうして障害物をクリアし、五階の反対側の端、文芸部の部室へ向かう。


 あちらは監視カメラの映像を見ているはずだから、滅茶苦茶に暴れてきた二人がやってくることはとっくに分かっているだろう。


 今、こうして二人が文芸部の部室前にいるところだって、見られているのだろう。


 海一は自分が先に行くと目で合図した。綾香もその意図を理解してうなずき返す。


 いくら綾香が覚悟をしているといっても、友人相手。いざ目の前にしたら精神的に揺らいで隙ができてしまうかもしれない。綾香自身も、強がっていたって自分のことはよく分かっている。だから先駆けは海一に任せることにした。


 海一はドアの壁沿いに背を寄せて、センサーにウォッチをかざしてドアを開けると、一気に中に飛び込んだ。


「動くな」


 瞬時に中を確認する。狭い室内にいるのはたった二人の女子生徒。眼鏡に三つ編みの少女と、眼鏡に二つ結いの少女だ。


 二人は顔面蒼白。別に海一が武器を持っているわけでもないのに、今にも泣きだしそうな表情で両手を挙げて、びくつきながらも必死に無抵抗を示していた。


 室内には難しそうな画面が広がったモニターが何台も繋げられたデスクトップパソコンが。


 綾香も遅れて中に一歩踏み込み、二人の顔を見つめる。


「川崎さん……」


 二人が綾香を名をぽつりとつぶやき、辛そうに眉根を寄せた綾香が何か言おうとしたとき。


「うっ!?」


 苦しそうな悲鳴を上げたのは綾香だった。


 まさかの事態に海一が振り返る。


 綾香は何者かに背後から捕らえられ、首を締め上げられていた。


「綾香!!」


 海一が踏み出そうとすると、その動きを牽制するかのように、綾香の背後の男の怒鳴り声がぶちまけられた。


「あーあー! どいつもこいつも使えねえなァ!! しばらく前から外で待機していて正解だったわ」


 いつか見た、派手な金髪頭。


 路地裏の街灯の下で。夜のネオン街の道端で。不良集団たちに金を配っていた、あの男。


「あ、あなたが二人を脅してこんなことをやらせていたの?!」


 綾香は首を締めあげられたままながら、キッと背後を睨み上げる。


 すると、金髪男は笑った。


「ちげーよ。もともとこいつらが始めたんだよ。個人情報売買」


「えっ?!」


 目を見開く綾香。三浦と戸波は気まずそうに視線を下に逸らす。その反応から、金髪男が言っていることが嘘ではないと分かってしまった。


「そこの三つ編みは、ずば抜けたパソコンの才能がある。俺もそこそこ出来るからよ、分かるんだわ。文芸部室から興味本位でやっちまったこの学校のセキュリティルームへのハッキングに成功して、学校関連のデータを自由に抜けるようになった。自宅住所、電話番号、家族構成、親の勤務先から、身体測定やテストの結果。しまいにゃセキュリティの操作も自在にできるようになっちまった。監視カメラの映像の加工、ドアのロックの操作までな」


 金髪男はニヤリと笑う。綾香は自分の首がなるべく締まらないようにもがいているが、苦しそうだ。


 真正面で対峙する海一は男を険しい眼差しで見つめている。


「んで、いつも冷やかされてた憂さ晴らしに、あの派手で頭軽そうなクラスメイトの女たちの情報を売ったんだよ。こいつらは」


「なんでそんなことが分かって……」


 もがく綾香の苦しげな言葉をさえぎり、海一がはっきりと口にする。


「教育実習にきていた大学生は、お前か。増渕 渉」


 フルネームを呼ばれたことに面食らったのか、金髪男こと増渕は瞬きを何度か繰り返す。


 自分と対峙する妙に大人びた正体不明の学生をなめまわすように見て、面白いとばかりにまたニヤッと笑った。


「そうだ。教育実習で担当になった教諭・黒川にセキュリティルームのコンピュータを触らせてもらうようになった俺は、こいつらの不正アクセスの痕跡に気がついた。だからもっと稼げるようになる方法を教えてやったんだよ。自慢じゃないがそういう裏ルートには通じてるからな」


 海一は思い出す。宮乃からの情報によると、確かこの男は不正アクセス禁止法に違反して大学を退学処分になっているのだ。


「ちょぉっと上前はもらうけど、ちゃんと分けてやってるよ? 分け前は」


 瞳にうるうると熱い涙を溜めている二人が、儲けなんかが欲しくてこんなことに協力しているわけではないのは綾香にはよく分かった。


 きっと増渕は二人を脅迫していたに違いない。不正アクセスのことと、個人情報を流出させたことを言われたくなかったら言うとおりにしろと。


「闇サイトで売っぱらうための女子制服だって、こいつらが嫌いそうなやつの制服を狙って指示してやってたんだぜ。好きなやつの制服取らせるよりよっぽど優しいだろ?」


 綾香はあの時、教室で糾弾される二人を身を挺(てい)してかばっていたけれど、あの時疑われていたことはまったくの事実だったのだ。


「この三つ編み眼鏡が文芸部の部室で監視カメラの映像とセキュリティのロックを操作してる間に、この二つ結い眼鏡が取る。んで、外に待機してる俺が柵越しに盗んだブツを受け取る。証拠は残らない」


 手品の種明かしでもするかのように得意げに言う増渕。


「いろいろあって大学は退学になったから教師にはなれないけど、今もこうして“学校”に関わらせてもらってるわけ。今時のガキは財布ン中にたんまり金が入ってるから、小遣い稼ぎにも困らねえしよ」


 貴重品盗難も、増渕の差し金だったわけだ。二人にどこのクラスを狙えと指示をして、片っ端から盗ませていたのだろう。自分は一切手を汚さずに、なんと卑怯な。綾香と海一の胸に、同じような不快な感情が広がる。


「あ、ちなみにさっきお前らにのされてたガタイのいい連中は、俺の後輩。小銭で使ってやってるの。俺、ここの卒業生だからね。なんだかんだ繋がりあるわけよ」


 その口ぶりからして、三浦や戸波に操作させながら、監視カメラの映像をずっと見ていたのだろう。


 まず、冴木が日曜にパソコンルームから、セキュリティルームのコンピュータへの不正アクセスの履歴をコピーしようとした。それに気づいて妨害したが、不完全なデータながら冴木に証拠を持っていかれてしまった。


 だからそれから、冴木にデータを抹消させるか、黙って転校するかの脅迫状を出し、不良たちを使って嫌がらせを繰り返した。


 しかし昨夜、冴木は壊れかけのデータをその技術により見事に復元させ、アクセス元が文芸部室であることを突き止めてしまった。


 そして今日。冴木は文芸部のパソコンを直接調べて証拠を確保するために、朝一で部室棟にやってきた。


 文芸部のパソコンが勝手に触られたら通知が来るようになっていたのだろう。三浦たちはその異変に気づく。増渕は小遣いで手なずけている手下の男子生徒たちを即座に送り込ませた。


 綾香が冴木を見つけ出し間一髪のところで逃げ出したが、不正アクセスの証拠を手に入れられた以上、それを取り上げ、いかなる手段を用いても完全に口止めするまで部室棟から出すわけにはいかない。


 増渕は三浦と戸波に命令して文芸部室に行かせ、部室棟から人の出入りができないよう、建物の出入り口をどうやっても開かないように不正アクセスでロックさせた。冴木とデジタルセキュリティの施錠・解錠合戦を繰り広げていたのも、増渕に命令されていた三浦だったに違いない。


 おおよそ、このような流れだったのだろう。


 綾香と海一の頭の中がようやく整理された時、増渕は「さて」と話を仕切りなおす。


「それでな。俺は今からこの学校のPCを全てフォーマットしようと思ってんだ。要するに、まっさらな白紙に戻す。セキュリティルームのコンピュータの権限を使ってな。パニックになるだろうが、まあ、もうこんだけ足がついたんだからしょうがねぇよなぁ。十分にうまみは味わわせてもらった」


 それで、と急に顔から薄笑いを消し、冷酷な本性を見せる。


「あと数時間も経てば、お前らの持って行った証拠のアクセスログさえ警察に届けられなければ、全てはなかったことになる」


 綾香の首が再び締め上げられる。


「持って行ったデータを今すぐ渡せ。さあ!」


「あうっ……」


 綾香の顔が苦悶にゆがむ。


「俺たちは今それを持っていない。渡したくても渡せない。本当だ!」


 綾香を人質に取られて身動きの取れない海一が叫ぶが、増渕は吐き捨てるようにこう言うだけ。


「そんなこと信じられるか。見せしめに指の骨の一、二本ぐらい折ってやってもいいんだぞ」


「い、痛い……っ!」


「綾香……!!」


 海一は自分の取れるあらゆる手段を脳内で高速シミュレートしてみるが、どれも最終的に綾香が大怪我を負う結果しか導き出されない。


 三浦と戸波はただただ涙を浮かべて惨状から目を逸らすほかない。


 だが、その時。まさかの音が聞こえてくる。


 警察のサイレンの音と、こちらに近付いてくる大人数の足音。


「……はっ?」


 増渕がうろたえた一瞬の隙。綾香はそれを見逃さず、素早くしゃがんで彼の拘束から抜け出そうとしたが、わずかに間に合わなかった。体は抜けたものの片腕をひっつかまれる。


 増渕は綾香の腕を引いて再び束縛しようとするが、その刹那。


 目にもとまらぬ速さで飛び込んできた人影。暴れる成人男性をあっという間に無力化し、床に押さえつけ、自身の足元に固定したのは。


「八剣!」


 突き飛ばされた衝撃で床に激突しそうだった綾香をすんでのところで受け止めた海一が、飛び込んできた彼の八剣の名を口にする。


「無事か?!」


 八剣の問いかけに海一が「ああ」とうなずき返す。フラフラの綾香も「なんとかね……」と海一に支えられながら声を絞り出した。


 入り口から冴木も姿を現す。


 彼女は愛用のノートパソコンと、それにつないだ、用具管理室にあったのであろうスピーカーを手に持っていた。












 携帯端末の通話が妨害電話により切られた直後。冴木は操作していたパソコンに一通のメッセージを受け取っていた。


【たすけてください。もうこんなことはしたくありません】


 その不思議なメッセージを受け取ったあと、あれだけ必死に閉じられようとしていた非常扉やドア、建物自体のロックが勝手に外れて行った。


「八剣さん」


 入り口を見張っていた八剣を呼び寄せ、画面を一緒に見てもらう。


「なんだ……これは」


「今、急に届きました。おそらくこの校舎のどこかのパソコンからです」


 冴木がそう説明していると、また文章が送られてくる。


【もうとびらはしめません。たすけてください。わたしたちはぶんげいぶしつにいます】


「……これ、犯人側でパソコンを操作してたやつからのメッセージじゃないのか? 助けてくださいってどういうことだ……?」


 その言葉にピンときた冴木が、ハッとして八剣に情報を伝える。


「あの。先ほどこのことを川崎さんと神無月さんに伝えようとしたところで、妨害電波により電話が切れてしまったのですが……。ついさっき、文芸部室前通路の監視カメラの映像を見たら、文芸部室から金髪の男の人が出てくるのが見えたんです」


「と、いうことは……文芸部の二人はそいつに脅迫されてこんなことをさせられてたってことか……」


 神妙な面持ちで八剣がつぶやく。


 彼の予想は当たっていた。


 綾香と海一が文芸部室に迫っているのを監視カメラで察知した増渕は、三浦と戸波を部室内でおとりにし、自分は背後から襲撃するため、少し早めに一旦部室の外に出た。


 増渕の監視の目がなくなったその短い間を利用して、三浦と戸波は、自分たちの不正アクセスに対して攻撃をしかけてきている相手に、ヘルプのメッセージをを出したのだ。


 そして次の瞬間、大事なことに気がつく。


「って、神無月と川崎が危ないぞ! あいつらは文芸部の女子二人以外に、もう一人の男がいることなんて気づいてない!」


 飛び出していこうとする八剣に、「あ……待ってください!」と声をかけた冴木。


「彼女たちはもう妨害しないと言っているので、私もここを出られます。こういう作戦はどうでしょうか……?」


 冴木は自分のノートパソコンの中に、パトカーのサイレンの音や、大人数が迫ってくる足音をイメージしたサウンドデータを持っていた。


 今から行っても、綾香たちの文芸部突入を止めるのは間に合わない。だったら、真犯人を油断させて隙を突き、捕縛する。冴木はそう提案した。


 もちろん、思い付きはしても、それだけをこなす身体能力は冴木にはない。だから、八剣の瞳をじっと見つめた。


 八剣は冴木の作戦にうなずいて同意し、彼女の頭をぐしゃぐしゃっと撫でた。


 昔、よくそうしていたように。


「いい作戦だ。一緒に行くぞ、冴木!」


「……はいっ!」


 弾むような声で、冴木は元気よく言葉を返した。










 偽物のサイレンを鳴らすとともに、冴木たちがSS本部を通じて本当の警察の出動も要請していたおかげで、すぐに増渕らの身柄を警察に引き渡すことができた。


 増渕は反省の色を一切見せず、


「あーあ、つかまっちゃったか。なかなかいい金稼ぎだったんだけどな」


 と、ニヤニヤ笑い、捨て台詞を吐いていた。


 対して、三浦と戸波は。事情を聴かれるため、増渕とは別に連れて行かれる時。


 綾香の前で深く頭を下げた。


「こんなつもりじゃ、なかった……。誰かが止めてくれるのを、ずっと待ってた……」


「ごめんなさい……。かばってくれたのに、嘘ついててごめんなさい……」


 何とも言えない、整理のつかない顔で。綾香はまばたきと共に浅くうなずきを返した。彼女たちはこれからどうなるんだろう。利用されていたとはいえ、やっていたことは許されることではないのだ。


 できる限り、彼女たちの未来が閉ざされないよう、暗いものにならないよう祈るしかなかった。


 連れて行かれる二人を見送る暗い表情の綾香に、海一が背後から声をかける。


「……大丈夫か?」


 振り返って彼を見上げると、綾香は無理にでも口角を上げてみせる。


「このくらい平気よ」


 痛めつけられた体のことを言っているのか、精神的なことを言っているのかは分からないけれど、綾香は反射的に平気だと口にする。


 すると海一は、思いもよらないことを言ってきた。


「合流が遅くなってすまなかった」


 そして、そこにあることが信じられないものを、彼女の目の前に当たり前のように差し出した。


「今朝はこれを探していた。ゴミ箱の中に捨てられていたから、まだ生臭いかもしれないがな。そこは文句を言うな」


 それは、盗まれた綾香の財布につけられていた、彼女の家族の思い出の二つの猫のチャームだった。


 高価な財布であれば転売されているかもしれないが、雑貨屋で買ったような安物の財布であれば、中身を盗めば足がつかないようその場で捨てられることが多い。


 昨晩、どうしたら取り戻せるだろうかと考えた海一は、十中八九近所で捨てられているだろうと推理して、学校中と付近のゴミ箱を調べてまわっていたのだ。朝のゴミ回収が終わる前に。


 綾香は目を見張って、もう二度と手元に戻ってこないと思っていたそれを、奇跡みたいに両手で包み込むように受け取る。


 もう用は済んだとばかりに背を向ける海一。


 汚れた制服はきっと、部室棟での乱闘のためだけではないだろう。


 彼が、この彼が。自分のために、そこまでして探してくれていたなんて。


 家族の絆なんて触れたこともないあなたが、私の家族の絆を守ってくれようとしたのね。


 私の家族の思い出を、守ってくれようとしてたのね。


 綾香は彼の背に、トンと額をつけた。


「ありがと、海一……」


 感極まって、飾り気のない一言しか絞り出せなかったけれど。


 海一は、少しだけ彼女の声が震えているのが分かったから、お礼の言葉は振り向かずに聞いた。

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