16

――ちゃんかちゃんかちゃららん。ちゃんかちゃんかちゃららん。


「……ちゃんかちゃんかうるさい!」


 朝からにぎやかな着信音を鳴らすスマホに怒る綾香。日曜の朝の心地よい眠りの世界から引きずり出される。


 ちゃんかちゃんか鳴るように設定したのは綾香自身なので、スマホに文句を言うのはお門違いもいいところなのだが。


 厚手のカーテンを閉め切った部屋は、朝が訪れたことに気づきにくい。眠い目をこすって掛け時計を睨んでみると、朝の九時だった。


 このスマホにこんな時間に電話をかけてくる人間など、一人しかいない。


「海一ぃ? 朝っぱらから何よぉ~?」


 そう口にしながら、目もほとんど閉じられたままだった綾香。


 しかし、耳に当てたスマホから聞こえる別の男の声に、眠気を一気に覚まさせられる。


「よぉ。乙女の寝起きってのはそんなに色気のない声なのか?」


 ハッとして、心臓が止まるかと思った。


「や、八剣くん?!」


 目を見開くと共に上半身を飛び起こす。急いでスマホの画面を確認すると、そこにあったのは海一の名ではなく、非通知となっていた。


「なっ、なんで……」


「SS本部に聞いた」


 何勝手に教えてるのよ、とSS本部に苦情を入れたくなる。これも名家の息子だからこその特別扱いだったりするのだろうか。


「な……何の用?」


 何を言われるのか用心しながら尋ねる綾香に、八剣は軽い調子でこう言った。


「俺、これから近くの街に行くから、川崎も出て来いよ」


「はぁあ?! なんで私が行かないといけないのよ」


「ちょっと話があるんだって」


「今電話で言ったらいいでしょ」


 綾香の警戒心を見抜くように、八剣は鼻で笑って見せる。


「何だよ、俺のこと警戒してんのか? なら、神無月を呼んだって俺は別にいいぜ」


 半笑いでそう言われて、綾香は罠にはめられる予感しかしなかった。過去に一度壁に押し付けられて、頭をぶつけているのだ。その時のたんこぶは押すとまだ少し痛い。


 でも、海一に言うことは何となくためらわれた。気のせいかもしれないけれど、昨日の電話の向こうの海一の声が疲れていたように感じたから。


 仕方ない。話を聞いたらさっさと帰ろうと思い、「分かったわ」と承諾した。


 待ち合わせ場所と時間を聞いて、電話を切る。


 綾香がカーテンを開けて窓の外を確認すると、夏空の名に相応しい真っ青な空が広がっていた。閉め切った窓越しでもセミの騒がしい鳴き声が何重奏にも聞こえてくる。大きな雲を白く輝かせる太陽はコンクリートを焦がす。


 気乗りはしないが、約束してしまった以上行かねばなるまい。綾香はその辺の服を適当に引っ張り出す。


 ボーイッシュなショートパンツにTシャツを合わせて、近くのバッグを引ったくり、寝起きの髪を一本にひっつめる。


 一応は姿見で確認するが、「まあ、これでいっか」と、玄関にあったサンダルをつっかけて出て行った。








――八剣くん、目立つなぁ。


 待ち合わせ場所近くにやってきた綾香が、最初に思ったのはこの一言だった。


 近くの街と言っても、綾香たちが現在赴任している地は元々が結構な都会のため、少し出れば有名な若者のショッピングタウンにたどりつく。


 そんな小洒落た街で八剣は、綾香が惨めに感じるくらい気合を入れておしゃれに決めていた。


 綾香はしばらく立ち止まったまま、話しかけるのを躊躇してしまう。


 ギャル男とまではいかないけれど、それに似たようなファッション。蛍光色のド派手な柄のTシャツに、キャップ、シルバーアクセサリー。装飾がやたら多い。目立つ格好が好きなのだろうか。虹色に光る大きなサングラスをかけていたとしても全然違和感がないだろう。


 考えてみると、綾香がよく見る同年代の異性の私服はおのずと海一ばかりになるわけで。彼はいつもシンプルな格好しかしないので、なおのこと八剣の格好にびっくりしているのかもしれない。


 海一は海一で、まあ目立つといえば目立つのだが。無駄に良い顔の作りと、すらりとした見てくれだけはいいので、周りの視線をやたら集める。そういう目立ちだった。


「八剣くん」


 ようやく目が慣れてきた綾香がやっと話しかける。


 振り返った八剣は、途端にがっかりした表情になる。


「……なんだよ、適当ぉ~な格好だな。仮にも男子と出かけるんだから、髪巻くとかもっと気合入れろや」


 急に呼び出しておきながら、開口一番服装の駄目出しをしてくる八剣に、綾香は「冴木さんはコレとどうやって上手くやってるのかしら」と心底疑問に思う。


「まぁいい。それより、せっかくの東京だから案内してくれよ。服買ったり飯食ったりしたい」


 八剣がさも当たり前のようにそう言い出す。


「はぁ?! 何言ってるのよ。話があるんじゃないの? そうじゃないなら私、帰るわ」


 綾香は心の中で理由を重ねる。


 八剣くんは海一に意地悪言うし。柔道でのことまだ許してないんだから。それに、前なんて壁に押し付けられたり。別にあなたと仲良くしたくないし。


 そう思って、むぅと唇を尖らす。


「私じゃなくて冴木さん誘ってお出かけしたらいいじゃない。どこのお店だってみんな一緒よ。大きく外れなんてないだろうから、二人で適当にぶらついてみたら?」


 そんな綾香の言葉など意に介さず、八剣は不敵な笑みを浮かべてこう言った。


「神無月のことで話があるって言っても?」


 そう言われたら、綾香だって従うしかない。ぐぬぬと八剣を上目に見つめる綾香に、八剣は涼しく笑う。


「一軒くらい飯付き合えよ」


 仕方なく、言われるがまま八剣の後に続くことになった綾香。


 いつ何をされるか分からないのではじめは警戒心を持っていたのだが、八剣は飯屋なんて全然入らず、服屋だったり帽子屋だったり香水ショップだったり、気ままにあちこち入りまくる。


「夏服もう一着くらい買おうかなぁ。今って何が流行ってんだ?」


「男の子の服なんてよく分かんないわよ」


 自分が適当な格好をしていることもあり、街中を歩くのもおしゃれな店に入るのも恥ずかしく、気乗りしない。


 そんなことお構いなしに、八剣は綾香を引っ張りまわして好きに買い物をしまくる。


 ちなみに、なんだかんだと上手いことを言って、買った荷物などは全部綾香に持たせていた。


 綾香は確信する。八剣は絶対にモテないと。


 炎天下、両手に荷物を持たされた綾香がブツブツ文句を言っていると、八剣のスマホに着信があった。八剣は少し道の端によって、その電話を受ける。


「……なんや?」


「ちょっと八剣くんっ! まだ買い物するの?!」


 別の店に足を向けたと思ったのか、綾香がぷりぷりと大声で怒りながら追いかけてくる。


 すると、電話は切れてしまったようだ。


 八剣は首をひねりつつも、大事な用ならまたかけ直してくるだろうと、スマホをズボンのポケットにしまった。


 その後、雲行きが怪しくなってきたので、二人は駆け込むように近くのカフェに入った。


 綾香はようやく大荷物から開放され、やっと一息つけた。


「はあああ……。疲れた」


 向かい合う席に座る八剣は、涼しい顔でカフェラテを飲んでいる。


「何だ、ずっとブスーーーーっとつまんなそうにして」


「ちょっと。今、ブスって強調したでしょ? ねぇわざと?」


 綾香の頬の筋肉がピクピクと引きつる。


 八剣はそんなことお構いなしに、運ばれてきたパスタを美味そうに食べ出す。


 この人には何を言っても無駄だわと、綾香はキンキンに冷えたオレンジジュースをずずっとすすった。


「で? 海一の話って何?」


 本題を急ぐ綾香にムッとしつつ、八剣は仕方なく口を開いてやる。


「……凡人のお前に教えてやるよ。お前、神無月の家がどれだけすごいか知ってるか?」


 「知らない」と、綾香は素直に言った。


 たまに漏れ聞く話などで、きっとさぞや凄いんだろうなあとはぼんやり思っているが。


「西の一、二と言われるうちと冴木家を合わせても、神無月の家には勝てないくらいなんだ。歴代長官はじめ要職はほとんど神無月の血筋から輩出してるしな」


 綾香にしてみれば何が一、二なのかも、勝ちとか負けとかが何なのかもさっぱり分からないが、実際に現SS長官が海一の父であることは綾香も知るところだ。若くして関東支部長を務める宮乃のことも知っている。


「もともと関東が地盤で力が強かったってのもあるが、何よりあの一族は分家含め皆が恐ろしく優秀なんだよ。それこそ家系図さかのぼれば、政治家だと社長だとかゴロゴロいるんじゃねえの? そんな中にあいつはいるわけだ。もしアレが神無月家の正統な子息だったら、お前みたいな凡人なんかずえぇ~~~~ったいに相方にはなれてないからな」


 どれだけ“絶対”を強調してくれるのだろう。そんなことを言われても、綾香が初めて出会った時から別に海一は特別な人ではなかったから、あまり実感は湧かない。


 分かりやすく送り迎えの専属車があったりとか、お付きの人がいたり、ファーストフードや庶民のスーパーを利用したことないとかいうエピソードがあったりしたら、まだ少しは理解できるのに。


 しかし同時に、だからこそ八剣と冴木は当然のようにペアになっているのだろうとも納得する。


「はいはい、それはどうも。凡人で悪うございましたね。それで何なの?」


 いまいち響いていない様子の綾香を不満そうに見つめながら、八剣は言葉を続ける。


「だからな、どこの馬の骨とも知れない妾の子なんていうあいつの中途半端な存在は、疎まれて当たり前なんだよ。あの名門の中においてはな」


 そう熱く語りかけてくる八剣を見ていて、綾香はなんだか悲しくなってきてしまう。


 なんでこの人はこう、海一を嫌うように、見下すように、必死に説得してくるんだろう。そんな風に思うわけがないのに。綾香は自分の不快な気持ちが表情ににじみ出ていることを自覚する。


 綾香の感情の機微になど気づくわけもなく、饒舌に言葉を重ねる八剣。


「あいつは冷遇されて当然。遊ばれて、おまけに子どもを捨てて押し付けていくような母親、絶対ろくな奴じゃない。そんなろくでもない奴の子のくせに、何が伝統ある名門の神無月本家の長男だ」


 八剣は汚い言葉を吐き捨て続ける。


「あいつだってそれは分かってるんだ。そう。だから俺がそうやって言っても、奴は自分の母親をかばわなかったし、ただ黙って言い返しもしなかった。それはあいつの予想も同じだからだ。自分の産みの親がろくなやつじゃないってな。ハッ、あいつは自分の母親を悪く言われても言い返さないような奴なんだぜ?」


 そう得意げに持論を述べて、綾香を見ると。


「……海一に、そんなことを言ったの?」


 綾香の反応が、八剣が想定していたどれともと違った。


 見たこともないくらい悲しく歪む顔。


 綾香は昨日の海一の疲れた声を思い出す。どうして彼があんなに元気がなかったのか、ようやく分かった。


 いくら口達者な海一だって、言い返したくたって言い返せなかったに違いない。海一も自分の本当の母親のことは顔すら分からないのだから。物心つく前に別れてしまってそれきりなのだから。


 自分では変えることのできない生まれのことを馬鹿にされたら、悔しい。でも、自分を置いてどこかに行ってしまった母親に良い感情があるかと言ったら、それはすぐに答えるのは難しいに違いない。強く憎んでいるかもしれないし、感情すら生じないくらい無関心かもしれない。


 いずれにせよ、海一にとっては否定も肯定も、反論も同意もできない、触れられたくないデリケートなところをつつきまわされる、複雑で辛い言葉だったに違いない。他人が簡単に踏み込んでいい領域ではないのに。


 綾香は、傷ついた瞳で静かに尋ねる。


「……ねえ。あなたはどうして海一につっかかるの? レールから外れた奴だって、神無月家の外れ者だって散々言ってるくせに。この先も、あなたの出世の邪魔になんて絶対にならないはずなのに」


 八剣の目をまっすぐに見つめる綾香の両の目は、彼の心の奥を覗きこもうとするかのよう。


「海一があなたに何をしたっていうの? 神無月家の人間だから? 神無月家の人間って言ったって、妾の子だから正式な息子じゃないってあなたが言ったんじゃない。矛盾してるわ」


 八剣は、筋の通った問いかけから自分を守るように、気まずそうに目を逸らしている。


「あなたこそ、失敗だっていう海一にどうしてそんなにつっかかるの?」


 窓の外の鈍色の曇り空は、涙のようにぽたぽたと雨粒を落としはじめる。


 沈黙する八剣に、綾香は思わぬ一言をこぼした。


「八剣くん。海一にいろいろ言うけど、本当はそんなこと思ってないでしょう? 分かるんだから」


 ハッとして八剣が視線を合わせると、綾香の瞳と見つめあう形になる。


「なんでそんなこと……」


「冴木さんが、あなたのことを邪魔しないで、悪く言わないでってかばってた。すごい人なんだって。名家の息子として大変なことも多くて、昔からとっても苦労してる努力家なんだって言ってた。本当に悪い人のこと、あんな風に支えようと思う人はいない」


 朝、二人きりの教室で話したとき。路地裏で出会ったとき。八剣のことを悪く言うなと訴える冴木の瞳はどこまでもまっすぐだった。彼女が心からそう言っているのが、綾香には分かった。


「冴木が……」


「ねえ。なんでわざと海一を怒らせるような、つらくさせるようなことを言うの? 責めてるんじゃないの。理由を教えてよ」


 綾香の口から伝え聞いた冴木の言葉に驚いたきり、八剣はうつむいてしまい目元が隠れて感情が読み取れない。


 カフェは周囲の人々の話し声でざわついているはずなのに、二人の周りの空間だけ切り取られたかのよう。


 じっと視線をそそぐ綾香に、八剣はボソッと一言こうつぶやいた。


「……お前はどうあっても、絶対あいつをかばうんだな」


「え?」


 綾香が聞き返す間もなく、八剣は席を立った。


「帰る」


 急に雰囲気が変わって、綾香に押し付けていた荷物も全部持って、出て行ってしまう。


 一人置いていかれた綾香はまばたきを繰り返すしかない。


 降り出した雨はシャワーのように勢いよく、コンクリートを濡らしている。窓の外に見えた八剣の背中が、どんどん遠くなる。


 八剣が何を考えているのか、綾香には全然分からなかった。それでも、遠ざかる彼の後姿がとてもつらそうに見えたのは、打ち付ける雨が見せた幻ではないはず。綾香はそう感じていた。

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