蚊取り線香×タイプライター×飲み終わったコーヒー
や、匿名さん。こんばんは。
その時のあたしは、とあるアパートメントの管理人の娘だった。
当時は電話も公衆電話で、マンションの住人が共用する形になっていてね。
かかってきた電話を取って、誰宛なのか聞いて取り次ぐ役目をしてたんだよ。
その日かかって来た電話は、知り合いの女性から。
アパートに住んでる学者さん……いや、研究者さん?の婚約者の方で、かなり焦った声をしていた。
「あの人はいらっしゃる?」
って聞いたけど、運悪く不在だったんだよね。
だからかけ直してくれって言ったら、言伝を頼まれたの。
「私はあなたの味方よ。愛していますって伝えて」
っていうメッセージを、涙声でね。
そういうのは自分の口で伝えてください!と言う間も無く電話は切れてしまい、あたしは落ち着かなくなって主人がいない部屋に意味なく向かった。
そうなの。その研究者が、匿名さんだったの。
本当は良くないんだけどね、なんとなくの感で部屋に侵入させてもらった。まあ、管理人の娘の特権?
入った部屋の空気は澱んでいて、お酒の瓶がたくさん転がっていた。
飲み終わったコーヒーのマグも片付けられないまま放置されてて、育てていたはずの白い花も全部枯れてる有様。
ほんの数日前に覗いた小綺麗な部屋とはまるで違った様相で驚いたよ。
そして、乱れたデスクの上にあるタイプライターには書きかけの文章。
目を凝らして読んでみると……あー、悪かったよ。
ただ、あたしも子供だったんだ。許して欲しいかな。
とにかく、研究していた殺虫成分のピレ、ピレトリン……今では蚊取り線香なんかにも使われている成分が、ほんの数日の差で別の研究者に発表されてしまった。
自分にはもう何も残されていない。
こんな男とは別れて、幸せになってくれ。
そんな手紙が、遠方の地に住んでいる婚約者さんに向けて書かれていた。
そうだね。部屋に来る前に電話をくれた人だね。
あなたが絶望しきっている事を察して電話をくれたんでしょうよ。
ただ、その不遇な研究者は不在。あたしは言伝を預かったままで不快。
だから、タイプライターに文字を打ったの。
婚約者から預かった「私はあなたの味方よ。愛してる」って言葉を、当時使っていた言語でね。
そして、そのまま散らかった部屋を後にした。
匿名さんはヤケ酒にヤケ酒を重ねていたらしくて、夜遅くに帰ってきた。
鳥の方がもっとしっかり歩くでしょってぐらいの千鳥足で。
そして部屋に戻って、しばらくは静かだったの。
それから、突然の嗚咽が聞こえてきた。婚約者さんの名前を叫びながらのね。
当時は防音設備の技術なんてあってないようなものだし。
そうして寝落ちしたのかまた沈黙が訪れて、朝になって、日々が過ぎていった。
婚約者さんはあなたを心配して、もう少し先の予定だった引っ越しを前倒しにした。
同棲を初めて、沈み切ったあなたの顔も血色を取り戻していって、晴れて二人はめでたく結婚した。
あたしも結婚式を遠くから見てたけどね、本当に幸せそうだったよ。
そうそう。
実はあの酔っ払って帰ってきた夜、あなたは自分の命を絶つつもりだったらしいよ。
それぐらい、長年の研究が全部無駄になって辛かったってことでしょうね。
ただ、その時タイプライターに残された婚約者さんからのメッセージで思いとどまったんだって。
遠方の地にいる愛しい人の言葉が届いた奇跡に、もう少し生きようって思ったそうだよ。
……なんで知ってるか、教えてあげようか?
それがあたしの仕業だって唯一知ってた婚約者さん、いや、花嫁さんがそっと教えてくれたんだ。
黄色い蝶の飛び交う、綺麗な春の結婚式だったよ。
正直なところさっき挙げた殺虫成分の名前は自信がない。
間違ってたら……素人だし許してくれるよね!あはは、ごめんねー。
それじゃあ、また次の夜に会おうね。バイバイ!
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「匿名」さんからのキーワードで思い出した記憶です。
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