第28話 二年後。

side I


「ヒカル。ヒカル起きて。起きて下さーい。朝ですよ。ヒカル。社長。社長! 遅刻すんぞ。起きて。起きなさい。起きろ。」

「うんんー……あともうちょっ」

「二秒で起きないとその耳たぶの輪っかピアス引きちぎる」

「おはよう樹くんいい朝だ」

「曇ってるけどな」

 がばっと起こした裸の身体には、まだ掛け布団が巻き付いている。

「もうほんっと、毎朝毎朝……」

 べりべりとそれを身体から引き剥がしながら、毎度の事ながらついつい大きな溜め息が出る。パンツそこだよ、と床を指しながら時間がないので冷蔵庫へ向かった。

「お前その脅し文句やめてくれないか。恐いだろ」

 ちらっと見れば、仕方ないというように大きな欠伸をしながら、のそりとベッドから這い出したヒカルは頭をがりがりと掻いて、床に落としていたパンツを拾い上げていた。

「頭痛ぇ……」

「嫌なら外して寝れば良いじゃないか。酔い潰れて帰ってくるからそんな事になるんだよ。はい、これ」

 冷蔵庫に常備してある二日酔い用の液薬の瓶を渡して、急げ急げと次はクローゼットに向かい、クリーニングから返ってきたままのスーツ一式を袋から全て出していく。

 ベッドのほうから「まっず……」と言う苦々しい声が響いてきた。

「仕方がないだろ、付き合いなんだから。マズイんだよこれ」

 寝起きの嫌そうな顔を下げてのそのそとやって来たヒカルに、早くしろよと思いながら洗面所を指差す。

「それが一番効くのが早いんだから。先に顔を」

「分かってる。その前に」

 先にきっちり着込んでいたおれはワイシャツの襟を掴まれ、何だと思う前にぐいっと引き寄せられた。

「んっ」

 べろりと口の中を舐められ、舌の上に何とも言えない苦味が拡がる。

「マズイののお裾分け」

「要らないよ……」

 呆れるおれにニッと笑い掛けて、ヒカルはようやく洗面所に向かった。

「もう、早くしろって、何時だと思ってるんだ。今日は大事な日なんだから」

「分かってるってば」

 ハンガーに掛かったままのスーツとワイシャツの釦を全て外してから今度はリビングに移動して、パソコンの横に山積みされた紙切れの一番上から電子手帳を取り上げた。

「十一時から新社屋の着工式」

「ああ」

 鏡の前で髭を剃る背中に簡単に確認を取る。

「おれあんたと違って重役出勤なんて出来ないから先に会社行くから、直接向かうなら場所間違えないでよ」

「だから最初から社長付きの役職に就けって言ったのに」

「結構です。まだ新米なのに役職なんて要らないよ。自力で上がりますからご心配なく」

「御苦労な事だな」

「それに、今日は豪くんが帰ってくる日だからさ」

「……ああ、そうだったな」

 おれがそう言うとヒカルは頬にシェーバーを当てながら、一ヶ月前に海外に買い付けに出した若い部下の事をさも今思い出したかのような声を出した。

「……浮気すんなよ」

「あんたじゃあるまいし」

 久々に会うのが楽しみでうきうきとジャケットを羽織っていると、ヒカルは鏡越しに複雑そうな顔を向けた。

「指輪ちゃんとしてるんだろうな」

 シェーバーを片付けて歯ブラシをくわえたのを確認。おれは玄関に向かう。

「あんたみたいにつけたり外したりしてませんから。朝ごはんコンビニで買って。おれもうそろそろ行くから」

「こら! 待て待て待て待て!」

「なんだよ!」

 洗面所からの焦った声に玄関先で大声を返す。

「俺ももう準備出来るから! 一緒に車で行こう! 俺運転するから!」




「だったらもっと早く起きてくれれば良いのに」

 黒いセダンの助手席に座りながら横目でヒカルを軽く睨む。ナビの左上の時計を見ると、もうすぐ九時になる。

 遅刻決定だ。

「起きれないものはしょうがないだろ」

「小学生か」

 相変わらず黒と青で統一された車内で、アクセルを踏む横顔を眺める。

 何かが変わったようで、何も変わらない。横に座っていると、相変わらず良い匂いがする。

「なんだ」

「別に」

「なんだよ」

「見惚れてた」

「……あっそ」

 つい小さく笑うと、調った顔が不自然に逸らされた。

「照れた?」

「照れてないよ」

「今日も帰り、遅くなるのかな」

「うーん、どうかな。今日は車だから、どっちにしても一度帰るよ。取引先の食事会も今日だからな。顔出すだけで良いならすぐ帰るし。なんならお前も行くか?」

「あ、いや、行かない」

「即答か」

 その取引先の食事会にだけは行けない。

 二年前のカシスミントの煙草を思い出す。

 今夜の彼の隣には、おれの見た事のない彼の奥さんと、まだ小さなこどもが居るかもしれない。

 まさかおれが会う訳にはいかない。

「楽しんできて」

「仕事だから楽しめないよ。お前の顔見せに良いと思ったのに」

「まだ、会うには早い、かな」

「ん?」

「何でもない」

 あの仏頂面の驚いた顔を見てみたいとも思うけれど、自分の首を絞めるような真似はするまい。その楽しみは、もう少し時間が経ってからでも良い。

「着いたぞ」

 会社の入るビルの正面に車を停められたから、シートベルトを外して中身の詰まった鞄を抱え直す。

「有難う」

「事務の子には、俺から言っとくよ」

「いいよ。起こしきれなかったおれも悪いから。大人しく怒られる」

「そうか」

「行ってきます、社長」

「行ってらっしゃい、樹くん」

 ドアを開けようとすると、右腕を掴まれて車内に戻された。

「こら、忘れ物」

「こんなとこで!? 見られる……」

「スモーク張ってるから大丈夫だよ。早くしないと駐車違反で俺が捕まるだろ」

「~~~っ、ああもう!」

 腕を離してくれそうになくて、仕方なしに重い鞄を持ち上げて、気持ちばかりのカーテン代わり。唇に触れるだけのキスを三回。

「行ってらっしゃい。俺も車停めたら一度会社に顔出すよ」

「十一時には向こうだからな」

「分かってる」

「行ってきます」

「ああ、樹」

「なに」

「やっぱり今日は早く帰るよ。だからお前も残業しないで帰れ」

「なんで」

「理由つけて早く帰るから、風呂入ってセックスしよう。また豪に取られたら敵わんからな」

「なんだそれ……。じゃあ、風呂用意して待ってる」

「ああ。なら、また夜にな」

「うん」

 車のドアを閉めて、駐車場へ向かうのを見送る。角を曲がって見えなくなってから、急いでエレベーターへ。

 腕時計を見ると、出勤時間から既に十分以上の遅刻だ。社長の笠は借りたくない。

 取り敢えず今は、事務に告げる言い訳を。

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背中越しの温度、溺愛 夏緒 @yamada8833

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