第20話 残像。

side R


 電気も点けない暗い部屋で自分のベッドに乱暴に押し倒した時、頭に浮かんだのは目の前の顔じゃなかった。

 いつも俺の後ろをついてきていた、犬。

 拭うように目を閉じて、繰り返していたキスをもっと深いものにする。少しくらい抵抗してくれれば良いのに、全部を受け入れようとしてくれるから余計辛くなる。折角だから大切に触りたいのに、急いて余裕のない状態ではどうにもならなかった。

 柔らかい皮膚を手の平でなぞる。薄いブラウスの釦は、小さかった。掴みやすくて柔らかい胸を揉む度に残像のように浮かぶのは、笑った顔。

 怒った顔。

 拗ねた顔。

 照れた顔。

 悲しそうな顔。

 ああ、ごめん。

 手の平に伝わるのは、いつもと違う華奢な身体、熱。

 女を抱くのは久しぶりだった。情けない顔してるのを見られたくなくて、首筋から胸元に顔を埋める。耳に付くのはいつもと違う音の高い吐息。

 誰の代わりでもない。本当に欲しかったもの。ローションなんかなくても、勝手に濡れていく。俺はそのまま、多分少し乱暴に、まなかを抱いた。

 ごめん。

 ごめんな。

 ほんとごめん。

 ごめん、裕太。

 他の人好きになってごめん。




「悪い、ちょっと、煙草吸ってくる」


 ベッドから一人だけ出て、脱ぎ散らかした上着のポケットの中から煙草を探し出す。終わった後に放り出すみたいで最低だとは分かっていても、少し一人で落ち着きたかった。

 外に出る為に下だけ履いていると、ベッドの中からくったりした声がした。

「外、雨でしょ」

「雨が当たらないとこで吸う」

「私、」

「あ?」

「帰ろうか」

「……。良いよ、雨止むまで、そこに居ろって」

 悪いと思ったけど、笑いかけてやる余裕がなかった。顔を見ると、違う顔がダブった。そのまま雨が中に入らないように、窓を開けてベランダに出て、閉めた。

 今更動揺してきて、震える指でケースから一本取り出して口に挟む。指だけじゃない、身体が震えてきていた。寒いからじゃない。

 指に力が入らなくて、ライターになかなか火が点かない。両手の親指で押してなんとか煙を吸い込んだ。喉が震えて上手く吸えない。

 窓ガラスに凭れてしゃがみ込む。顔を上げていたら跡がつきそうだったから、まっすぐ下を向いて目を閉じた。

 でも睫毛は、濡れなかった。


 いつでも俺の後ろをついてきた。出来るだけは、あいつの理想でいてやりたかった。可愛くて仕方がなくて、どんなものからでも守ってやるつもりだった。

 大事にしてやるつもりだったのに。


 さっきの、触れた瞬間、興奮で身体が震えたのを思い出す。思い出して、思わず拳を握り絞めた。殴りたかった。

 碌に吸ってもないのに、煙草の先が風で灰になってベランダに落ちた。


 俺が悪い。

 全部俺が悪い。

 でもごめん。


 もうお前には戻れない。




 最後に大きく吸って限界まで息を吐き出し、まだ降ってる雨で濡れたベランダに、短くなった煙草の先を押し付ける。備え付けみたいに置いたままの、横の空き缶に吸い殻を押し込んで、部屋に戻った。

 天気が悪くて良かった。

 電気を点けてなくて良かった。

 暗くなって、まともに顔を合わせないで済む。まなかは、布団を被って壁を向いていた。俺が近づくと、ゆっくりとこっちに向き直る。被ってる布団ごとその身体を跨いで、その顔の横に両手をついた。

 暗くても、これだけ近づけばその大きな瞳も見えた。


「ごめん。……好きだ」

「え……」


 今度は優しく。

 出来るだけ大切にするから。一番近くに置いて、絶対離さないって約束するから。

 だから、ごめん。今度ちゃんと謝るから、許してくれ。


 もう一度、雨が止むまで、その顔に重ねた。






「どうすんだよ、裕太くん連絡つかないって。うちにももう服取りに来た後だし」

「まさか見てたとか、俺ほんと駄目だな」

 あとになって、樹さんに教えて貰って初めて知った。あの日あそこに居たなんて。何度電話をしてもメールを送っても、裕太から返事はなかった。今まで連絡が取れない事なんて一度もなかったから、これには正直相当落ち込んだ。

「もう、何もしないほうが良さそうですよね」

「良いのか?」

「余計嫌な思いさせるだけだって、多分」

「……そうかもな」

 樹さんは俺の頭を軽く叩くように撫でてから、ローテーブルの上の俺のビールを勝手に一口飲んだ。

「なんか、いつかの逆みたいですよね、今」

「いつか? ああ、おれが前に泣きついた時か」

「そうそう」

「たまにはおれが抱いてやろっか?」

「冗談」

 鼻で笑う樹さんに、少し気分を取り戻す。床に着いた細い手に自分の手を重ねると、嫌がることもなく笑ってくれた。

 でも、キスはもうしなかった。

「大切にしてやってな。おれの大事な友達なんだから」

「分かってますよ。最近素が出るのか態度がムカつきますけどね」

「良い事じゃないか」

 ベッドには上がらなかったけど、触るのが当たり前な存在だったから、自然と顔が横の身体に擦り寄った。

「ごめん、樹さん。ちょっと肩貸して」

「どーぞ」

 薄い肩に目を擦りつける。肩の辺りの服を濡らしてしまったけど、何も言われなかった。

 樹さんは一度だけ、今度は俺の背中を撫でてから、また勝手にビールを飲んだみたいだった。

「一回くらい、抱いといてやれば良かったかな」

「そんな事言うなって。裕太くんは多分、ちゃんと全部分かってるよ、君の事」

「……情けねぇ。ごめん、犬」

「よしよし」

 出来れば最後に、もう一度笑った顔を見たかった。

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