第21話 理由。

side I


「どうする。口で受け止めるか」

「嫌です、ちゃんとしてほしい」

 もう何度こんな事を繰り返したか分からない。

 藤城さんは時々思い出したかのようにふらりと夜中に訪れては、おれが眠りそうになる頃に部屋を出て行った。

「泊まっては、いかないんですね」

 眠りに落ちる直前のふわふわとした意識の中、何となく呟くように問うと、既にワイシャツを拾い上げようとしていた藤城さんはさもつまらないものに答えるような口ぶりで返した。

「ああ。妻が待っているからな」

「……え、」






「奥さんが妊娠中なんだって」

「なんっだそりゃ、最低じゃないですか」

 小声で話しながら、大学の事務局の横に用意された就職情報室で涼平の持ってきた大豆の菓子をこっそりと頬張る。壁には大きな字で「飲食厳禁」、「静かに」と書かれた貼紙が貼ってある。

 十帖程の広さのその部屋には、就職に関する情報提供のための備え付けのデスクトップパソコンが五台と、分厚いファイルにぎゅうぎゅう詰めにされた求人情報の紙の束が所狭しと並んでいる。おれ達が来た時には既に、数人が壁を向いて無言でパソコンの前に座っていた。

 部屋の中央に置かれた正方形のテーブルを二人で陣取って、それぞれに求人情報ファイルの一冊を、頬杖をついて眺めるようにぱらぱらとめくっていた。

「つまり樹さんは完全に浮気相手って事ですね」

「どうりでする事だけしたら帰るし、名前も興味ない訳だ」

「って言うかまだ続いてたんですか」

「だって来るから」

「部屋に入れなきゃいいでしょうが」

 小声で繋げる話し声の合間に、ぱら、まだ新しい紙が、めくる度に軽い音を立てる。おれは菓子の個包装をもうひとつ破った。

「聞いてしまったから、もう止めるよ。悪い事だし」

 さく、乾燥した菓子が口の中でばらばらに砕ける。ぱら、ぱら、さく、軽い音が静かな室内に響く。

「なーにを今更……、…………あ、」

「ん?」

 不思議な声に涼平を見ると、涼平は適当にぱらぱらとファイルをめくっていた手を止めて、一枚の求人情報を凝視していた。

「どうしたん」

「樹さん」

「なに」

「樹さん、全然就活してないでしょ」

「何で知ってんの」

「あったわこれ……」

 涼平の指が示した場所を覗き込むと、それは有名老舗菓子メーカーの求人だった。おれが今まさに食べている菓子の会社だ。涼平が指しているのは、求人票上部に記載されている代表取締役の名前。

「え、なに。ふじしろ、みつあ……、っああああああああああああ!!」






side H


「あああんっ! あっやぁ……あっああん!」

 腰の上で柔らかく身体をくねらせる彼女は確かに綺麗だ。

 耳につく高い嬌声も、女物の甘い香水の匂いも、俺が優越感に浸るには充分だった。ムラなく丁寧に染められた長くて柔らかい髪は、汗でその身体に張り付いている。剥がしてやるついでに目の前で揺れる胸を掴んで揉んでやれば、細い腰がしなって中を締め上げた。


「ヒカルくん最近よくアタシのこと呼んでくれるね」

 機嫌の良さそうな声で彼女は俺に背中を向ける。面積の少ない下着に脚を通して、今にも破れそうな薄さのストッキングを穿き終わるまで、黙ってその後ろ姿を眺めていた。そうしていると今度は無言で肩紐をちらつかせるから、ベッドから起き上がってブラジャーのホックを留めてやる。

「悪いな、いつも夜中ばかりで」

「いいよ。明日夜勤だから、今から帰って寝れるし。社長さんは忙しいものね。今度ご馳走してね」

 料理なんてひとつもしやしない、爪の色だけ気にする彼女を、誰が白衣の天使だなんて思うだろうか。

「泊まって行けばいいのに」

「駄目よ、だってそんな事したら仕事行きたくなくなっちゃうじゃない」

 躊躇いなくさくさくと服を着込む彼女をぼんやりと眺める。

 悪い子じゃない。次の相手はこの子でも良い。呼べば来るし、性格もあっさりしているから恐らく今までみたいに揉めることもない。

 でも何か、何か、違う気がしないか。

 何が違うか、例えばそうだな。やっぱり俺としては料理はして貰いたい、手作りの味噌汁なんていつから食ってないか分からないし。背も、もう少し高くても良い。キスをする時に楽だ。髪だってそんなに伸ばして染めなくても、短くて良い。肌の色だってそんなに白くなくても構わない。雀斑がもう少しうっすら―――


「…………、何を言ってるんだ、俺は」


「どうしたの?」

 俺の呟いた言葉に彼女が小首を傾げる。

「いや。何でもないよ」

 裸のままベッドから立ち上がって、すっかり帰り支度の済んだ彼女の頬に唇を寄せる。猫のような目が丸く笑った。

「お風呂入るんでしょ。帰るね」

「玄関まで一緒に行く」

「いいよ、追い出されるみたいで嫌」

 また呼んで。

 甘い香水の匂いだけ残して、彼女はあっさりと帰った。


 その足で風呂場に向かい、その手前で洗面所の鏡を見ると、そこに映った自分は酷く何かが足りない顔をしていた。

 見ているとその顔が可笑しくて、口元だけ笑いながら下を向いた。


「駄目だな、俺は」

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