第19話 体温。

side I


「遅くなったな……」

 すっかり薄暗くなりかけた夕方過ぎ。

 強くなる一方の雨足に辟易しながら、大学での用事を済ませて帰路に着く。まだ降り止みそうにない雨に足元を濡らされて、うんざりした気持ちで水浸しのアスファルトを歩いていると、涼平のアパートの前を通り掛かったところで、見覚えのある人物が道路に立っているのが目に入った。

「裕太くん」

 少し遠い距離から声をかけても、雨の音で聞こえないのか、彼は微動だにしなかった。固まったように涼平のアパートを眺めている。

「裕太くん?」

 近付いてぽん、と肩を叩くと、彼はまるで我に返ったかのようにビクッとその肩を竦ませて、驚いたように丸い目でこちらを見た。

 触れた肩は酷く冷えていた。

「樹さん……」

「どうした、こんなところで。涼平と約束?」

「あ……いえ、その……」

 目を伏せて口篭る裕太くんに、自然と首を傾げてしまう。

「上がらないのか? 風邪ひくぞ」

 伏せられた目を覗き込むようにしながら裕太くんを見ると、その目にはうっすらと涙が滲んできていた。

「……どうした」

 それを見たこちらも驚いて、慌ててもう一度目を合わせようとしても、彼の目は長い前髪で隠れてしまった。

「いま……」

「ん?」

「師匠、人が来てるみたいで……」

「そうなのか。友達かな。どんな人だった?」

「髪の長い、綺麗な女の人で……」

「髪の長い……」

「師匠とキスしてたから……今、多分……」

 裕太くんはそこまで話して言葉に詰まった。その顔は下を向いていて表情は見えない。それでもそれは、今のその状況を理解するには充分だった。

 リナの髪はそんなに長くない。そもそも涼平とキスなんてしないだろう。

 理由なんて見当もつかないが、きっとまなかが来ているのだ。そしてそれを、彼は見てしまったのだ。一緒に居るだけじゃない、ところも。

「俺、どうすれば良いんですかね、こういう時……」

「裕太くん……」

 顔を上げた彼の、無理をした口元だけの苦笑いを見て胸が痛くなった。

 不意に、冷た過ぎる彼の肩が気になって腕の時計を見る。思えば最後の講義が終わってから既に一時間近く経っている。涼平がいつ帰ったかは知らないが、裕太くんの身体は服越しにでも分かる程冷え切っていた。

「なあ、君いつからここに居るの」

「え、えっと……わかんないです。何か、動けなくて」

「おいで」

「え、いや、でも」

「風邪ひくぞ、君は受験生だろ」

 おれは裕太くんの腕を掴んだ。そのまま、半ば無理矢理その場から引きはがすように連れて歩く。傘と傘の間で腕が濡れていくが気にしなかった。

 今の彼に何があったのかは、何と無く察した。けれどこんなところにいつまでも居たって何の解決にもならない。本当に只風邪をひくだけだ。

 向かったのは自分のアパートだった。尻ポケットから鍵を出して玄関を開ける。

 足が濡れているからと躊躇う裕太くんを、自分もどうせ濡れているからと強制的に靴を脱がせて部屋に上がらせ、そのまま彼を風呂場に押し込んだ。給湯の温度をわざと少し高めに設定してやる。今すべき最優先は、彼の身体をまず暖める事だった。

 風呂場の戸を閉めて、裕太くんが素直にシャワーを使い始めた音が聞こえた。すっかり濡れた二人分の服を洗濯機に放り込んで電源を入れる。回してしまえばどうせすぐには乾かないから、代わりに自分のシャツとジャージの下、たまたま置いていた未開封の下着を、着替えとして洗面所に用意してやった。

 自分も部屋着に着替えたところで台所へ向かい、電気ポットでお湯を沸かす。戸棚からマグカップとインスタントコーヒーの粉を取り出し、お湯が沸く前にカップに粉を入れてしまう。

 涼平に連絡しようか迷ってスマホを手に取り、やはり今するべきではないと判断してスマホをテーブルに置いた。

 涼平を責める気にはならなかった。

 彼の気持ちは自分も知っている。いつか必ずこんな時が来る事は、始めから想像がついていた。裕太くんには言うべきでない事も、分かってはいるけれど。

 それに、自分だってきっと涼平と同じ事をした。好きな人が傍に居れば、触らないという選択肢は、きっとない。

 でも裕太くんの気持ちも痛い程分かる。もしかしたら自分がしてきた思いよりも痛いに違いない。だって話に聞いた訳ではないのだ。自分の目で、事実として見てしまったとしたら。

 丸い目でこちらを見た時の顔を思い出す。まるで裏切られた時の自分を見ているようで、無意識に過去の経験と照らし合わせた。信じたくなくて、でも腹の底からゆっくりと押し上がってくる不信感と絶望感。なのにそれでも嫌いになれない自分。彼はきっと今、苦しくて押し潰されそうに違いない。

 そこまで考えて、カチッ、と電気ポットのスイッチが下りる音がして、考えるのを一度中断した。カップの半分までお湯を注ぎ、スプーンで軽く混ぜる。冷蔵庫から使うか使わないか分からない牛乳を取り出したところで、洗面所の戸が開く音がした。

「すみませんでした、風呂まで借りてしまって」

 暗い表情のまま出て来た裕太くんは、用意していた着替えに身を包んでいた。

「良いよ。少しは暖まった?」

「はい、有難うございます」

「コーヒー、作ったから飲みなよ」

 テレビの前の小さなテーブルにコーヒーを入れたカップを乗せ、その前の座椅子に、風呂場で泣いたのであろう、目の回りを赤くした裕太くんを座らせる。少しだけ湯気が立ち上るカップを大人しく啜る裕太くんの前に、ティッシュとごみ箱を用意してやった。

「あったかいの飲むと、鼻水出るからな」

「す、すみません……」

 恥ずかしそうに、でもまたしても段々涙目になっていく裕太くんは、素直にティッシュを摘んで鼻をかんだ。

「全部使って良いよ」

「いや、それは申し訳ないですから」

「おれも同じような経験あるんだ。一時間ちょっとで一箱使って鼻かんだ事あるからさ」

「それはまた…」

「当たり前の事だから、気にせず使いなよ。うち、ティッシュいっぱいあるから遠慮すんな」

 今は聞かれたくもないし、話したくもないだろう。わざわざそんな傷を抉るような事はしたくなかった。今の自分が彼にしてやれるのは、暖かいコーヒーと大量のティッシュを出してやる事だけだ。

「俺ほんと、こんなの、どうしたら……師匠……」

 鼻かみながらまた泣くから、おれも自分でティッシュを摘んで、とうとうボタボタ落ちてきた涙を軽く拭いてやる。顔がティッシュまみれだ。裕太くんはそれから、黙ってコーヒーを飲みながら鼻をかんでいた。




「大丈夫? やっぱり送って行こうか?」

 玄関先で裕太くんに止められて、つい心配して彼の様子を窺ってしまう。裕太くんはまた作った苦笑いを浮かべながら、大丈夫ですから、とおれを部屋の中に留めた。

「なんかすっかり甘えてすみませんでした。今度服、取りに来るんで」

「うん。いつでも良いよ。帰り道分かるか?」

「大丈夫です、一本道だったし」

「気をつけてな」

 傘を差し出すと、裕太くんの表情から無理した苦笑いが消えた。

「やっぱ、」

「ん?」

「駄目だったんですよね、俺じゃ」

「裕太くん?」

「師匠、きっと俺の事なんて、始めからずっと何とも思ってなかったのに、無理して俺と付き合ってくれてたから……」

「裕太くん」

 それを聞いて堪らなくなって、思わず裕太くんの両肩を掴んだ。

「樹さん?」

「違うよ、違う。裕太くん。涼平はな、」

 肩を掴む腕に力を込める。本人の代わりに、ちゃんと伝わるように。

「涼平は、君の事を本当に大事に思ってるんだよ。嘘じゃないから、おれも知ってるから、これだけは本当だから、ごめんな、これだけは、疑わないでやってくれ」

 言うと、おれの腕の間で細い茶髪がゆっくりと下がってきて、手が動いて何度も袖口で顔を擦りだした。

「……そっちの方が、余計辛いですよ、樹さん」

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