第12話 すき。

side I


 ずっと待っていた。本当に、ずっと待っていた。

 待って、迷って、散々迷って、待つのをやめた。

 やめたのに、かかってきた電話に瞬間的に心臓を止められて、迷う間もなく通話ボタンを触った自分は、本当に馬鹿なんだと思う。耳に押し当てて聞こえてきたのは、待ち焦がれたやっぱり大好きな声だった。




 電話が掛かってきたのは夜の十時。外に出ると家の前に見慣れた黒いセダンが止まっていた。

 当たり前のように助手席のドアを開けると、以前と何も変わらない、黒と青で統一された内装が目に入る。黙ってシートに乗り込むと、ふわりと香るシンの匂いに包まれた。

 ああそうだ。

 この匂いに釣られてついて行って、この匂いに釣られて好きになった。

 ドアを閉める。

 電話の調子から、今から何の話をするのかは分かっているつもりだったから、何て声を掛ければ良いか分からなくて、黙っていた。車の中には音楽もラジオもついてなくて、ヒカルも何も言わなくて、目も合わなくて、静かなまま車が動き出した。

 無言のままの空気が気まずくて、出来れば前を向いて居たかったけど、どうしてもおれは運転席を見ずには居られなかった。

 ギアチェンジする左手。腕まくりして皺になってる薄い青のワイシャツ。真剣な調った横顔。いつの間にか忘れていた、大好きな匂い。

 胸が苦しくなった。触りたかった。触って欲しかった。こっちを見て欲しかった。

 樹って、前みたいに優しく名前を呼んで欲しかった。

 ヒカルは、只黙って前を向いて運転していた。


 少しだけそのまま時間が過ぎて、車を止められたのは家の近くから一番近い、広い公園の駐車場。エンジンを止められて、今度こそ本当に何の音もしなくなった。

 先に口を開いたのは、ヒカルだった。

「どういう事だ」

 ヒカルは一言だけそう寄越して、ハンドルから手を離し背凭れに深く身体を沈める。こっちは見なかった。

「それは……」

 おれはそのたった一言で言葉の意味を全て理解する。

 怒っている。

 視線をどこに持っていけば良いのか分からなくて、無意識にヒカルを視界から外した。

「もう俺に飽きた?」

「ちがっ……」

 自嘲気味な声に問われて、素直に否定しそうになって言葉を飲んだ。

 違う。飽きたりなんてしない。でも、もうおれはそんな事は言えない。膝に置いた拳を、爪が食い込むほど握り絞める。

「……止めたんだ、あんたを好き、でいるの」

「意味が分からない」

 選んだ言葉は間髪入れずに切り捨てられた。

「豪はさぞかし良くしてくれるんだろうな。もうあいつとは寝た?」

「何言ってんだ。してないよ、そんな事」

 嫌味だと分かってはいるけど、出来れば今は冷静に話をしたかった。

 隣に居るっていうだけで思い知らされる。目を見たら思わず変な事を口走ってしまいそうな程、やっぱりおれは、ヒカルが好きだ。

「へぇ、まだなのか。なら」

「あ、わっ……」


 やめるって決めたのに。

 別の人を選んだのは自分なのに。なのに。

 不意に腕を掴まれて、そのまま無理矢理シートから身を乗り出して自分の身体を抱き寄せたその腕を、振り払う事が出来なかった。肩に顔を寄せるように頭を撫でられて、大好きな匂いが一層強くなる。

「ヒカル……」

 与えられた腕が体温が匂いが嬉しくて嬉しくて嬉しくて、名前を呼ぶ声が思わずか細く震える。振り払うどころか、その腕をもっと引き寄せてしまう。抱き寄せる腕が更に力強くなって、暖かくて、勝手に涙が滲んできた。

「なぁ樹。やめなくていいよ、俺のところに戻って来いよ。豪には渡したくないんだ、お前の事」

「っ、……」

 ばか。

 ヒカルの馬鹿。遅いんだよ。何で今なんだ。

 口だけだって、頭のどこかでは分かってる。でも耳元に寄せられたその言葉が震える程嬉しかった。

 ずっと待っていた言葉。ずっと欲しかった言葉。振り払う事も出来ない大好きな腕。慣れ親しんだ体温。在って当たり前だった匂い。

 大好きな人。


 でももう遅い。


 おれは首を横に振った。

「樹、」

「ごめん、もうやめたから」

 決めたから。

 身体を離そうと思って胸に置いた左手は、それが叶う事なくヒカルの右手に握られた。伝わる体温で手首が熱い。

「どうしても、か」

「……っ、どうしても、 っぅん!」

 心臓が一度激しく打ち付けて、息が、時が、止まった。

 唇が熱い。

 柔らかい感触に包まれて、キスをされているんだって自覚して、駄目だって分かってるのに、嫌がらないといけないって分かってるのに、どこまでも馬鹿な自分は、目を閉じてそれを受け入れた。

 押し付けられた唇は、それ以上動く事はなくて、少しの間、いつまでもそのまま重ねられていた。心臓がいつまでも強く打ち付けて、涙が止まらなくて呼吸が苦しい。

 でも、それもやがてゆっくりと離れていく。

「……なにすんだよ」

 鼻を啜ってやっと見る事が出来た、涙で滲んだ先のヒカルの顔。きっと一生忘れない。

「お前がどうしてもって言うなら、これが最後だから。嫌ならちゃんと嫌がれ」

「いやだ っん! んぅ」

 精一杯の拒絶は結局受け入れて貰えないまま、今度は深く深く唇を貪られる。呼吸のために開いた口の中に、呼吸ごと飲み込むように舌が入ってくる。

 頭のどこかで何かがぶつりと切れた。

 もう止められなかった。左手は握られたままだったから、右手で頭を抱き寄せた。髪が絡まるのも気にしないでぐしゃぐしゃに掻き乱す。

 背中を抱く腕の力が一層強まって、もういっそこのままひとつになれれば良いのに。

 そう思った。


 いつまでそうしていたのか分からない。唇が唾液でふやけそうになってきた頃、何と無く唇を離すと、漸くその儀式は終わった。

 涙は止まっていた。

「本当に最後、か」

「うん」

 頭を抱いていた腕を解くと、重なっていた体温は呆気なく離れた。左手首が冷たく感じるから、誤魔化すようにその手で顔を擦った。

「送るよ、家まで」

「……うん」

 エンジンがかけられて、消えていたエアコンの風が送られてくる。車が、静かに動き出した。

 もうお互いに何も話さなかったし、目も合わせなかった。暗い窓の外ばかり見ていた。でも、数十分前とは違う。多分少しだけ、ほっとしていた。

 フロントガラスの向こうに自分のアパートが見えてくる。あそこに着いたら、車を止められて、このドアを開けたら本当に終わりだ。

 口には出さなかったけど、心の奥ではそれを嫌だと思っていた。それでも、音もなく静かに車は止まる。

 シートベルトを外すと、なんだか急にここから離れるのが怖くなってきて、一瞬固まってしまった。それを押し出したのは、ヒカルの静かな声だった。

「元気でな」

 顔を見ると笑ってはいなかった。

 おれは多分、また泣きそうになっていた。


「……さよなら」




 家に帰って、鍵を差して玄関を開ける。電気を点ける。

 部屋の中に入って、見回して、気付いて我慢できなくて今度こそ粒みたいな涙がぼたぼた溢れた。

 一緒に買ったベッドのシーツ。お揃いのスマホ。頭を突き合わせるようにして読み込んだ経済の教科書。座椅子に座るうさぎのぬいぐるみ。一緒に飯を食ったテーブル。色違いのグラス。絡まりやすい髪を乾かしたドライヤー。壁にはドライフラワーにした2輪の薔薇。テレビの横には返しそびれたカードキー。その下には、右手の薬指に丁度良いサイズの、銀の指輪。


「っ、くそが!!」

 どうしろっていうんだ。

 思い出なんてもう全部捨ててしまいたいのに、全部捨てたら部屋の中が空になってしまうじゃないか。


 大好きだ、ばかやろう。

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