第11話 違和感。

side H


 豪の話はすぐに耳に届いた。

 噂好きなうちの若い女性社員達にかかれば、俺のところまでその話が聞こえるのにそう時間はかからなかった。

 制服を採用していないため、ビルのワンフロアを借りた狭い社内には、色とりどりの綺麗な布たちがいつも軽やかに揺れている。


「社長、知ってますか。豪くんってば、最近彼女が出来たみたいなんですよ」


 日課のように自販機の缶ジュースを小銭で奢ってやれば、口を手で押さえながら大声で秘密話を打ち明ける彼女達にはたまに感嘆する。

 噂は真実だけを運ばない。豪に彼女だって? 嘘をつけ。彼女、じゃないだろ。

 だってあいつは女じゃない。




「だーから言ったろうがよ」

 譲治は呆れたような目で一瞥をくれてから、空になりそうなグラスに雑に酒を継ぎ足した。

「別に構わないよ、今は俺のじゃないんだし、誰のところへ行こうが。まぁ、多少驚きはしたけどな。煙草くれ」

「お前にやる煙草はねぇよ。別に構わないんなら、そんなにあからさまに苛々するな。俺の酒がまずくなる」

 暇だった日の閉店間際で他に客が居ない時の譲治は、いつも以上に俺には容赦がない。こっちから言わないと追加の菓子すら出て来ない。

「別に苛々はしてない。そこに見えてんだよ、店のやつ売ってくれ、ちゃんと払うから。銘柄なんか何でも良い」

「口数が多い」

「は?」

「あと眉間に皺。いちいち分かりやすいんだよお前、昔から。それに止めたんだろ、煙草。お前には売らねぇよ」

「……チッ」

 これだから昔馴染みは嫌になる。人には出さずにいておいて、自分はこれ見よがしに吸うのか。嫌がらせか。今日は大量の安酒で酔い潰れようと思っていたのに、そんな気分すら地の底まで沈まされる。

「そんなに苛つくなら連絡すりゃあ良いじゃねぇか。あいつの事だからホイホイ戻ってくるだろうよ」

「……俺じゃないのを選んだんだろ。そんなやつに縋り付くような真似、出来るか」

「素直じゃねぇなぁ」

 安いわりには喉越しの良い焼酎を一気に煽る。溶けた氷で少し薄くなっていた。

 まるで働く気のないヒナホホを尻目に、自分で氷を足して自分で酒を注ぐ。つまみをくれと催促すると、見えない位置にある棚の中から袋ごと寄越しやがった。

 ひとつだけ摘みあげ、内袋を破いて、小さなバームクーヘンを口に入れる。

 バームクーヘンは食うと口の中がパサつくから、まだロックのままの焼酎を煽ると、さっきとは違う酒の濃さに思わず顔を顰めた。

「素直だよ、俺は。好きにしたら良いんだ。どうせ長くは続かないに決まってる」

「まるでそのうち戻ってきて貰いたいような口ぶりだな」

 嫌味ったらしくせせら笑う譲治にまた舌打ちをしたくなる。そんなんじゃないって言ってるだろ。

「もう止めるよ、あいつの事は。豪がいいんだろ、くれてやるさ」

「良いのか」

「良いも何も。他にどうしようもないだろ」

「知らねぇぞ、後で後悔しても」

 譲治は灰皿に短くなった吸い殻を押し付けた。濃い匂いが漂う。

「お前この間から、本当に一体何が言いたいんだ」

「端から見てるぶん、お前とは違う見方をしてるって事だよ。何でそんなに臓煮え繰り返りそうな顔してんのか、ちったぁ自分で考えろよ」

 真っ直ぐにこっちを見るその瞳は、酔ってるようには見えなかった。

「……好きに言ってろ。要らないよ、人のものなんか」

 酔ってるのは、俺だ。




 あれ以来、仕事中でも何と無くスマホが気にかかって仕方がない。流石に来客中や商談の合間に見るような事はしないが、そんなに広くない自分の部屋に一人でいる時には、絶えずアドレス帳を開いて同じ名前を眺めていた。

 開きっぱなしのパソコンには、まるで進まない整理中の売上データ。その横には数字の羅列ばかりの書類の束。その脇には雑務の書かれた付箋紙やらメモ書きやら書籍やらが無造作に散らかっている。

 ここ数日のその惨状にやる気を削がれて部屋から出れば、何も知らない明るい女性社員達の、聞きたくもない無神経な噂話の声が流れてくる。

 やってられるか。


 豪は俺と会う事を極力避けているようで、服装こそ未だラフなものの、暇そうな態度はあまり見かけなくなった。素直な奴だから、俺を前にするのは気まずいのだろうというのも簡単に想像がつく。

 目が合わないからこちらからは何もするつもりはないが、別に豪を責めるような気もないので、目が合えばいつものように挨拶をしてやるつもりではいた。

 折角今まで頑張って作り上げた社内の穏和な雰囲気を、そんなしょうもない理由で自分からぶち壊すような事はしたくない。が、本音だ。


 しかしながら女の噂好きっていうものはどうにかならないものか。気にしたくもないのに耳に入るし、それだけ話していれば仕事にだって多少の支障は出るだろう。

 まぁ確かに彼女達にしてみれば、こんなに美味い恰好のネタはないのだろう。あの寡黙な男に恋人が出来たとなれば、噂をしたい気持ちも分からなくはない。

 他人事なら俺だって話に加わりたいくらいだ。でも実際は他人事じゃないんだ。

 仕事の合間を縫うようにして聞こえてくる嘘か本当か分からないような色鮮やかな話は、今は只ただ俺を苛つかせるだけだった。

 キス? デート? お泊り?

 気になるなら本人に聞けば良いじゃないか。憶測が飛び交うからこっちだって気にかかる。

 いっそ教えてやろうか。その噂の的のそいつは、ついこの間まで俺のものだった、お前達だって見た事あるあいつだぞ。

 言える訳がない。豪のためにも、俺のためにも。


 それにしたって、確かに自分の中に今までにない違和感はあった。いつになく苛々しているのは認める。くれてやった筈のあいつの事が頭から消えないからだ。もう何ヶ月会ってない。今何をしている。

 顔も知らない女に嫉妬する程俺のことを好きな癖に、何で俺じゃない男を選んだ。

 キスぐらいはもうしたんだろうな。家にも入れたのか。

 寝盗られたつもりはないが、そもそも俺しか知らない癖に、他のやつと、豪と本当に出来るのか?

 想像しそうになって、そんな事ばかりが頭にあって、苛ついて仕方がない。

 無意識にまたスマホの画面を眺める。

 この間の譲治との会話が脳裏に過ぎる。


 そんなに苛つくなら連絡すりゃあ良いじゃねぇか。


「……。糞」


 煩ぇよ。子供五人も作っといて最終的に離婚したような奴には偉そうに言われたくないんだ。

 は、連絡?

 するに決まってるだろ。

 あいつはもともと俺のものだ。

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