第10話 賭け。

side I


「今なんて」

「だから」


 涼平の言った事は正しかった。

 半分正しくて、半分間違っていた。


「あんたが好きです」

 そう言った豪くんの顔は、酷く不安気だった。




 今日は何だかいつもと違ったから、何と無く予感はしていた。

 何が違ったかって、雰囲気とか、溜め息の数とかつきかたとか、目線とか、初めて家まで入った事とか。

 何で予感していたかって、それはきっと、おれがそれを期待していたから。


 はあ、と大きく一度息を吐いて、豪くんは机を挟んで椅子に座ったままこちらに向き直る。

 正した姿勢でたった一言おれに寄越した。あんたが好きだと。

 おれは、飲もうとしていた麦茶のコップを、口に運ぶことなく木製の机に戻した。手仕事で設えられた机の表面、木目に沿ってコップの底についていた水分が滲む。

 本当は薄々気付いていた。最初に飯食いに行った時から。でも実際にこうして、面と向かって言われるとは、本当に思っていなかった。

 おれはヒカルの、豪くんからしてみれば敬愛する社長の、恋人だったから。

「すいません、どうこうなりたい訳ではないんです。ただ、言わないと落ち着かなかったから」

 目を逸らしてそう続けられて、気付いた。彼はきっと、進むか戻るかの賭けに出たんだ。

 おれの態度が曖昧だから。おれの反応を見た上で、自分の今後の態度を決めるつもりなんだ。そう思った。だからこう返した。

「ならおれが、「おれも、」と言ったら、どうする」

と。

 豪くんは本当に驚いたような顔をした。その顔はちょっと少年のそれみたいで、可愛いとさえ思った。


 ヒカルと全然違う。顔も、声も、態度も、歳も。

 精悍で、あまり笑わなくて、寡黙で、気遣い屋で、遠慮がちで、おれよりも歳下で。

 ヒカルより体格が良いから手だってヒカルより大きいし、一緒に立てば目線だって少し上になる。

 歯の浮くような言葉だって並べたりしないし、酒も付き合い程度しか飲まないらしい。

 べたべた触ってきたりしない。良く食べる。良く動く。ぶっきらぼうだけど、優しい。


 ヒカルとは全然違う。だから、選んでみたいと思った。

 だって待ってるけど連絡来ないんだ。いつ来るか分からない、来ないかもしれない。おれはこのままずっとヒカルに振り回されて生きていくのか? これから先もずっとこのまま待ちぼうけだったら?

 本当は、もしかしたらとっくに愛想を尽かされているのかもしれない。

 おれはそんなにヒカルがいないと生きていけないのだろうか。

 否定したいんだ。どうしても。もう裏切られて苦しい思いをするのは嫌なんだ。「苦痛」が「好き」に勝ってしまったから別れた。何度も同じ事を繰り返すのが嫌だった。

 あいつにとっての自分の存在意義が何なのか、分からなくなってしまった。

 おれは一体、何を待っているんだろう。


 だから、これはきっと、何かに縋りたいだけだ。縋って、あんな奴なんて居なくても平気だ。そう言いたいんだ。

 一人でぐるぐる同じところを回っている状態から何とか、おれはずっとどこかに一歩を踏み出したかった。

 もしかしたらそれは、豪くんじゃなくても良いのかもしれない。他に縋るものなんかいくらでもあるのかもしれない。

 でも今は、豪くんが良い。

 別に一緒に居たってドキドキしたりはしない。緊張したりもしない。きっとまだお互いのことも何も知らない。

 でも、今は豪くんが良い。

 この人はきっと、おれに寂しい思いをさせたりはしない。苦しい気持ちにさせたりはしない。

 別の人に逃げ場を求めるような事なんて、しなくて済む。

 一緒に居ると落ち着くんだ。安心して傍に居られる。おれのことを必要としてくれる。

 ドキドキなんて、しなくても構わない。この人の傍に居る時のこの穏やかな気持ちを、「好き」と、呼んでみたい。




「それって、どういう」

「だから、さ、」


 もし良かったら、どうこうならないか。


「……っ、」

 豪くんが息を詰めるようにして、一瞬呼吸を止めた。

 上手く笑えていなかっただろうかと不安になって、こちらも慌てて顔の前で手を振ってみる。

「あっごめん、気持ち悪いよな、急にそんなこと言い出したら……」

「あんまり」

「え?」

 慌てて言い訳をしようとしたところを、少しだけ震える声で止められた。目を見返すと逸らされる。

「あんまり、期待させるような事、言わないで下さいよ」

 豪くんは目を逸らしたまま、でも、なんだか目尻がうっすらと赤い。

 見て、気付いてしまった。これはきっと今、照れているんだ。

 きっとおれは今、彼の予想していなかった答えを出した。戸惑っているんだ。表情にあまり出ない彼の心の内を少しだけ覗くことが出来てしまったような気がして、何だか嬉しくなった。

「期待して、貰えないかな」

 ずるい聞き返し方だったかもしれない。でも豪くんは、何かを吹っ切るかのようにがりがりと頭を掻いて、それはそれは盛大に深呼吸をした。

「すいません俺、男の人と付き合ったりしたことなくて……取り敢えず」

「うん?」

「抱きしめても良いですか」

「え? あ、はい、どうぞ」

 返事をすると突然豪くんは立ち上がった。彼には少しだけ小さい気のする椅子ががたんと音を立てた。

 机を避けるようにしてこちらに来たので釣られるようにしてその場で立ち上がると、腕を引かれて少し強引に、その腕の中に抱きしめられた。

 ぴったりと触れ合った胸に、自分のではない心臓の鼓動が伝わる。

「ずっと」

 身体に似合わない小さな声で、豪くんは独り言のように呟いた。

「こうしたかった」


 初めて電話を貰うまでまるで気付かなかった事を申し訳なく思える程、その声は小さくて、心臓の音は大きくて、抱きしめる腕は力強かった。

 この人が居れば、自分はきっと前を向くことが出来る。


「うん。有難う」


 思うよりも先に、言葉が口から零れた。

 気付けば残暑も過ぎて、秋が来ていた。

 硬い背中を触ってみたおれの手の平には、慣れない体温と違和感が残った。


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