第8話 矢印。

side I


「まだ連絡来ないの?」

 まなかの素直な問い掛けにたまらずがっくり来て、カフェテリアの白いテーブルにガチンと額をぶつけた。痛い。そして思った以上に音が響いた。恥ずかしい。

「……まだ、何も……」

 夏休みが終わって大学が始まっても、ヒカルからの連絡は未だ一度もなかった。

 昼時を過ぎた大学構内のカフェテリアは人も疎らで、高い天井近くの大きな窓から降り注ぐ日光が緩やかに眠気を誘う。磨かれた床に柔らかく乱反射した光が建物の中に拡散する。

 その微かな一筋を目で追うようにしながら、まなかはテーブルに置いていたカップコーヒーを一口啜り、もう片方の指でカリキュラムの並んだ紙を摘んだ。

「そんなに落ち込むなら、自分から連絡してみたら良いじゃない」

「いやあ、出来ないだろ、そんなこと……」

 自分からやめると言ったのだ。こっちにだって意地ってもんがある。

 テーブルに突っ伏したままいかにも情けない声を出してしまうと、まなかは「大変ね」とだけ返した。

「そう言うまなかは、どうなんだよ」

 頭を持ち上げて、今度は反対に彼女に尋ねると、まなかは明後日の方向を向きながらつまらなさそうに、小さく呟いた。

「私も一緒。何もしないから、何も変わらないわ」

 彼女の視線の先には、パックジュースをぶらぶらと振りながらこちらに歩いてくる涼平がいた。

「樹さん聞きました? リナのこと」

 席に着くよりも先に、涼平はさも面白そうな様子で同い年の友人の名前を口にした。

「リナがどうかしたのか?」

 聞き返すと、涼平は勿体振るように一度黙ってから、同じテーブルに着いて持っていたいちごオレをストローで啜った。

「結局例のタナベってのに落ち着いたらしいですよ」

「田辺くんって、一年のあの子か? 歳下だろ」

「確か、物静かな感じの子よね」

 まなかと一緒に、田辺くんの見た目を思い出しながら涼平の持って来た話に思わず目を見合わせる。田辺くんといえばあれだ、見た目だけで判断しては申し訳ないが、見た目はまさしくそう、真面目すぎる勤勉学生。

「……意外ね」

「本当に」

 リナは元々まなかの出身校の、一つ下の後輩で、大学入学当初から浮いた子だった。女の子は欝陶しいから苦手だと大声で言い放ち、常に男友達、大概は涼平と一緒にいた。尻の軽い子だとか取っ付きにくいとかいう非常に失礼なやっかみの言葉もまるで気にしない、こっちからすればあっけらかんとした小柄な可愛い子だ。

 自他共に認める程恋愛事が大好きで、噂に違わず何人もの男子達の間を行ったり来たりしていた。

「なーんか相当入れ上げてるみたいですよ。でれでれして、女子高生見てるオッサンみたいだったし」

「例えが酷いわね」

「本当なんだって」

 まなかが涼平の言葉に苦笑する。こういう時はいつも、自分からは出来るだけ会話に混じらないと決めている。

 二人の気持ちをどちらも知っているから、自分が下手に入り込んで複雑な状況を悪化させないように気をつけたいとは思っているのだ。だからいつも当たり障りのない理由をつけてその場から離れる。

「トイレ行ってくるよ」


 まなかには上手くいくと良いと思うのは本心だが、自分は裕太くんという存在も知っている。二人が上手くいけば裕太くんが傷付く。涼平が彼のことを大切に思っていることは知っているし、まなかとどうこうなるつもりはないと、涼平は以前言っていた。

 トイレからどんな態度で戻るべきかを考えあぐねて、彼らから見えない位置にあるベンチに腰掛ける。鞄を持ってくれば良かった。

 好きだから近付きたくないとか……

「面倒臭い男だなぁ……」

「放っておいて下さいよ」

 一人言ちた途端に、後ろから恐らくパックジュースの角で頭を小突かれた。

「痛って」

 振り向くと、ん、と差し出されたので、飲みかけのパックを受け取った。見れば鞄も持って来てくれている。どさりと鞄をベンチに放り投げられて、ノートパソコン入ってるんだけど、なんていう文句が出そうになったがぐっと堪える。

 代わりに受け取ったストローに口をつけると、いちごオレの甘い香りが鼻についた。

 涼平は黙って勝手に横に腰掛けて、長い脚を前にゆったりと伸ばす。通路にはみ出しているが、他に人も居ないので目をつぶった。

「要らん気ぃ使うのやめて下さいよ」

「逃げてきたんか」

「あっちがね」

「そっか」

 まなか、また逃げたのか。

「人の事をどうこう言う前に、自分はどうなんですか。連絡のないあの人とか、最近仲良しらしいあの人とか、既に手遅れ気味な就活とか」

「……就活は、」

「このままだと来年、俺と同期になっちまいますよ」

「それは嫌だなぁ」

 ストローを伝って甘いいちごオレが喉を通っていく。買ってから長い時間が経っているのか、手の平の温度が移ったのか、随分温い。

「豪くんは良い奴だよ。気を使ってくれるし、一緒にいると落ち着けると言うか」

「へぇ。やっぱ好きなんですね」

「おれが?」

「あんたが好きなのは音信不通の人でしょうが。違うって。多分向こうが、樹さんに惚れてんだって、それ」

「……君はたまに突拍子もないことを言うな」

 ストローの先からズズズッと音がする。空になったのを確認して、パックの窪みに指を押し込んで折り畳んだ。

「そうですかね。だってそんな理由でもなきゃ、飯だの何だの誘わないでしょう、普通。自分の社長サンの元恋人なんか」

「……元、ってつけるの、やめてもらえるかな」

「気にするところはそこですか」

 背後には大きな一面の硝子窓。少し離れたドアから入り込む生温い空気が思考をぼんやりとさせる。

 眠気を誘いそうな空気を振り払うために、ベンチから立ち上がって近くのごみ箱へ数歩向かった。綺麗に折り畳んだつもりの紙パックを可燃物のごみ箱に放る。

「何かもうそういうの、何も考えたくない」

「んじゃあウチ来ますか。部活あるんで、遅くなりますけど」

「裕太くんは?」

「塾。平日は来ないし」

「遅くなるなら、別にいいよ」

「俺は」

 涼平は言葉を切った。

 振り向いて目を合わせると、わざとらしく無邪気そうな笑顔を浮かべる。

「溜まってますけど?」

「……大声で言うな」

 溜め息ひとつが交換条件。腕の時計を見ると予鈴の鳴る五分前だった。数歩戻って、ベンチに置かれた鞄を持ち上げる。

「帰ったら連絡しなよ」

「次、講義ですか」

「君もだろ。ほら、行くぞ」

 涼平の腕を引き上げて何とか立たせる。

 襲ってきただろう眠気に従うように欠伸をしたのを見て、うつりそうなそれを喉で噛み殺した。

「俺あの先生の話し声苦手なんですよね。念仏みたいで」

「時間帯も悪いしな」

 並んで歩いていると、カフェテリアの向こう、遠くにまなかが見えた。

「おれはまなかと同じ講義なんだけど、途中まで一緒に行くか」

「いや、遠慮しておきます」

「難しいな、君達は」

 涼平が売店に方向を変えたのを見送ってから、まなかのもとへ向かう。

 念仏聴かなきゃいけないのは、こっちだって同じなんだが。

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