第7話 葛藤。

side G


 気付けばいつでも目で追っていた。

 会社にたまに遊びに来ていたその人は、どうやら社長の恋人らしかった。




「すみませんでした。突然誘ってしまって」

「いや、全然。嬉しいよ」

 昼間、約束の場所に現れたその人は、会社で見かけるときにいつも着ているような衿の付いたシャツではなく、年相応のシンプルな薄緑色のTシャツに、薄い色のジーンズを穿いていた。

「え、なんか変……?」

 不安そうにそう尋ねられて、自分がその姿をまじまじと見てしまっていたことに気付く。

「いや、珍しい格好だなと思って……」

 慌てて目線を少し外しながら素直にそう言うと、くしゃりと苦笑いをしながらその人は、自分のティーシャツの裾を摘んで引っ張った。

「いつも会社に遊びに行く時はさ、一応ほら、社会見学じゃないけど、仕事の手伝いも兼ねてただろ。だから、ヒカルに釣り合うようにと思ってあんなシャツばかりだったんだよ。あいつ殆ど毎日仕事だから、外に居る時はいつもスーツだし。子供が並んでるとか思われたくなくて。まぁ、これ選んだのもヒカルなんだけどさ」

 まあこれはこれで、会社の人に会うと部屋着で外に居るみたいな感じがして落ち着かないんだけどな、と付け加えたあとに、

「豪くんは会社で見かけてもいつもラフだから、こっちのほうが良いかなって」

 柔らかく笑ったその顔を思わず抱きしめたい衝動に駆られ、気付かれないように拳を握り絞めて自制する。

 自分がまっすぐ彼の視界に入っていることを実感して、それだけで浮足立つような感覚がした。聴覚が全力で彼の声だけを拾い上げる。

「な、腹減ったから、飯食おっか」




 誘うかやめるか、何度も考えた。

 好きになったのは、敬愛する社長の恋人だった。

 初対面、初めましての瞬間から何故か目を奪われた。

「おい樹、これ、新しくうちに入った豪だ」

 たったそれだけの紹介で、接点なんかひとつもなかった。

 堂々と会社に出入りする部外者。

 社長と親密な関係らしい。

 初めはそんな、存在が気になる程度でしかないと思っていた。


 気付けばいつでも目で追っていた。

 追いすぎていつか、見てはいけないものを見た。給湯室から聞こえた小さな話し声に、彼が居るのだとすぐに気付いた時。通り掛かりに一目でも見られたら。そう思い素知らぬふりで給湯室の傍を通った。

 視界の端に入ったのは、社長のカップにコーヒーを煎れようとしている彼と、それを後ろから抱きしめるようにして邪魔をしている社長の姿。


 やめろって、くすぐったいから。零れるだろ。


 聞こえてきた彼の声が、それまで聞いたことのないような甘さを含んでいて、ああそうか、そういう仲なのかと悟った。

 胸が痛くなった。




「何食いますか。俺、払いますよ」

 人通りの多い街中でいつまでも二人で突っ立っているのも可笑しいと思い、近くのファストフード店を指差してみる。

 彼は、俺の指先と指された方向を順番に見てから、自分で払うよ、豪くんはすげぇ食いそうだよな、と言ってまた笑った。




 別れたらしいと気付いた時、正直心から嬉しかった。

 でもそれと同時に、二人のことが心配になった。

 最近の社長は分かりやすいくらい女性社員との会話が増えた。今まで彼に向けられていた筈の笑顔を張り付けて。

 それでも彼女達の煎れたコーヒーはあまり口に合わなかったらしく、代わりに自販機の傍で缶コーヒーを飲む姿も増えた。

 そんな社長の後ろ姿を見ていると、自然と彼のことも気に掛からずにはいられなかった。会社に来ないから、顔が見られなくて……というのもあった。番号しか知らない彼のスマホを初めて自分が鳴らすことを、本当に何度も迷った。

 同じ色形をした社長のそれが鳴るのではないかと、心配にもなった。

 後ろめたさもあった。

 それでも、顔を見たいと思ったから。声を聞きたい、と。

 落ち込んでいるのなら、泣いているのなら、出来れば自分がそれを慰めてやりたい。そう思った。

 俺は二人の、笑った顔が好きだった。




「まじで五個も食うの?」

「本当に腹減ってる時は、あと二つくらいは入りますね」

「よくそんなに入るな」

「いつもこんな感じっすよ」

 四人掛けのスペースを二人で陣取り、テーブルいっぱいにハンバーガーを広げる。五つは俺の。二つは彼の。ポテトに、アイスコーヒーが二つ。

「こんなに食う奴、初めて見た」

 よく笑う彼を見てふと、本当は無理をさせているのではないかと心配になる。笑っていて欲しいけど、無理に笑って貰いたい訳じゃない。

「あの、もし無理に笑ってんなら、そんなことしなくて良いですよ」

 俺の言葉を聞いた彼は、少し驚いた顔をして、次に困ったような苦笑いになって、それからまた柔らかく笑った。

「そんなんじゃないよ。豪くんはヒカルと全然違うからさ、何だか新鮮で……楽しいんだ。おれこそ、ヒカルのことばっかりだから、豪くんに気を使わせていたら悪いなって思っていたところだった」

「俺は……」

 やっぱり、この人の事を、あまり知らない。

「社長のことを好きな、あんたしか知らないから……」

 そう言うと、眼前の彼はいよいよ目を丸くした。

 そして、今日初めて、あからさまに寂しそうに笑った。

「やっぱり誰だって気付くよなあ。ごめんな、何だか迷惑かけてるみたいで……」

「いえ」

「……あのさ、」

「はい」

「……ヒカル、元気かな」


 俺は、社長のことを好きなあんたしか知らない。

 だけど、だからこそ一つだけ分かる。あんたの中には社長しか居ない。

「元気、ではないですね。……へたれてます」

 嘘をついた。元気だとは言えなかった。

 あんたの事をまるですっかり忘れたかのように振る舞っているなんて、俺には言えない。

「……ばかなんだからなあ」

 侮蔑の言葉にさえ優しさが含まれているのに、彼らは何故別れてしまったんだろう。

「何とかして下さいよ、社長の事。正直欝陶しいんですから」

「ははっ、酷いなあ。豪くんが助けてやってよ」

「無理です」

「そんなこと言わないでさ」

「あんた以外の誰にも無理です、そんなこと」

「豪くん……」

「俺は」

 笑ってるあんた達が好きだ。

 見たくないんだ、あんな社長の姿なんか。

「社長のこと、尊敬してるから、いつでも見てるつもりなんで」

「豪くんは、ヒカルのこと好きなんだな」

「あんたのことも好きですよ」

「はは、有難う」

 ほらみろやっぱり伝わらない。

 テーブルの下に隠した左手の拳。握り絞めた手汗を彼は知らない。

 気付いて貰いたい。

 だけど気付かれたくない。

 社長の隣で笑ってる姿が好きだった筈なのに、今この場で全てさらってしまいたいと思っているなんて、もっと色んな表情を見たいと思っているなんて、それを左拳ひとつで耐えているなんて、気付かれたくない。


 只、笑っていて貰いたいだけだ。


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