第4話 指輪。
side H
人生は、楽しくなければ意味がない。俺の持論だ。
仕事しかり。
人間関係しかり。
恋愛しかり。
セックスしかり。
「樹が来てたぞ、昨日」
縦長のグラスにカランと軽い音を立てて、不格好なロックアイスが四つ入れられる。深い緑色のボトルから注がれているのはレミーマルタンの、しかも一番高いやつだ。その上等な酒が、譲治の緩やかな手つきによってゆっくりと水で割られていく。
どっかの誰かが一口飲んで美味しい美味しい言うからわざわざキープしたのに、一向に減りゃしない。腹立たしい。
「へーぇ。どうせまた俺の文句言いに来たんだろ」
布製のコースターの上に置かれたそれを少し多めに口に含むと、何だかいつもよりも薄い気がする。
「ティッシュ一箱使って鼻かんでった」
「そりゃ凄いな。なぁ、これちょっと薄くないか」
譲治は呆れたような目で一瞥をくれてから、つまみの菓子の皿を出した。
「薄くない。お前の口がおかしいんだ」
皿の中から、透明なフィルムで包まれたチョコレートをひとつ選ぶ。今は懐かしアルファベットチョコだ。表面に浮き彫りされたアルファベットを確認すると、「I」。
堪らず溜め息が出る。なんだこれ。わざとなのか。
フィルムを剥いで口に放り込むと、いつも通りの甘さが舌に広がる。溶かしきる前にもう一度ブランデーを煽ると、チョコレートの甘さとアルコールの熱が喉に張り付くようで、これが良い。
「……出さなかったのか?」
「あ?」
「樹だよ。これ、出さなかったのか、昨日」
カウンターに置かれた深い緑色のボトルを爪で弾く。誰のためのキープだと思ってるんだ。
「そもそも酒を出してねぇよ。お前と来る時以外は、あいつに酒は出さない」
「金がかかるからか? これ出せばタダだろ」
「チャージがかかるだろ。払わないお前には関係ないかもしれんがな。いっつもきっちり二千円引いて払いやがって」
カウンターの向こうで見えないようにグラスを洗いながらチッ、と忌ま忌まし気に舌打ちをされると、流石の俺も何となく居心地が悪い。俺の痛いところを適確に抉ってくるのは、やはり昔馴染みだからか、それとも仕事柄人のことをよく見ているからか。
「俺、一応客なんだけど」
「こんな閉店間際に来て正規の金も払わねぇ奴は客じゃねぇ」
譲治は話しながらデカイ手で器用に布巾を使って、洗ったグラスの水分を拭き取っていく。慣れた手付きでとても早い。
「それに昨日は、あいつだって飲みたくなかっただろ、そのボトルだけはな」
「お前まで俺の文句言うなよ。……それ、終わったらお前も飲めよ」
レミーのボトルを指でつついて合図をすると、目の前にサイズの小さいグラスが一つ増えた。
「先に明かり落としてくるから、ちょっと待ってろ」
譲治は入り口の明かりを落とす前に一度店の外に出る。外に他の客が居ないかを確認しに行ったんだろう。
俺は待ちながらもう一口グラスを煽った。一気に飲み干してしまいたい気分だが、流石に勿体ないからそれはやらない。
戻ってきた譲治は、カウンターの奥に一度消えてから、自分用の簡素な椅子を持って戻ってきた。俺の酒を作り直してから、自分のグラスにも同じようにレミーを注ぐ。
カウンターの向こうで斜向かいになるように座った譲治は、カチンと音を立てて律儀に挨拶してから、上等な酒を煽った。
「あんまり、泣かしてやるなよ」
「本当だよなぁ」
「他人事か」
チョコレートをもうひとつ。次は「B」。
口に入れると、さっきよりも何だか苦い気がした。本当に口がおかしいのかもしれない。
「そんなつもりはない。ないけど、なぁ……」
上手く行かないんだよ。
楽しい筈のことが、ひとつも楽しくない。
「珍しいじゃねぇか、お前が二年も同じ相手に執着するなんざ」
「ああ、何となく、な。でもそろそろ」
氷が溶けて薄くなった中身に、手酌でボトルを傾ける。
「飽きたかなぁ」
「相っ変わらず、酷ぇ男だな」
「もともと性に合わないんだ。面白くなきゃ続けられない。樹なら多少ほっといても離れないだろうしな」
「お前がそれで良いなら別に俺は何も言わねぇけどよ。そのうち寝取られても知らねぇぞ」
寝取られて、と言われて脳裏に浮かぶのは、高卒でうちに入ったガタイのいい若い社員。
「
「その油断がどう出るかだな」
「何が言いたいんだ」
チョコレートをもうひとつ。次は「A」。
「無くしてから後悔しても遅いぞってことだよ」
「バツイチは言うことが深いな」
「お前と一緒にするなよ。俺のは浮気じゃねぇ」
「分かってるよ」
グラスを傾ける度に右手の薬指がチラチラと光る。
溶けた氷がカランと音を立てた。
「……外さねぇのか、それ」
言われて、銀の太い曲線を左手の指でなぞる。
「外すよ。今から人と会うんだ」
アクセサリーのひとつに、意味はない。
side I
「涼平め……」
酷い目に遭った。
シャワーから出てもう一度顔をタオルで強く拭う。
涼平の家で寝てしまって、朝起きたら裕太くんが来ていた。
二人があまりにも笑うから何かと思ったら、顔がペンで落書きされて酷いことになっていた。
水性の蛍光ペンで助かった。涼平は油性ペンのしかも黒で落書きしようとしていたらしい。止めてくれた裕太くんに感謝しなければ。涼平の家の洗面台で何度も顔を洗って、さっきもまた洗ったけど、鏡を見るとまだ付いているような気がしてくる。
諦めて何気なくテレビの方を見れば、その隣に並ぶものも自然と目に入る。
インテリアとして買った、百円の透明なデザイングラス。中には、右手の薬指に調度良いサイズの銀の指輪と、この家のものではないカードキーが入っている。喧嘩して追い出して、返すのを忘れてしまった。また埃が溜まっていってしまう。
この指輪。捨ててしまおうかと何度も思った。目に入らないところに隠しておこうかとも。
でも、いつもしなかった。期待の顕れだ。いつかまた、つける日が来るに違いない、と。
確信にも近い期待。
けど、それってどうなんだろう。
ヒカルのことは、正直嫌いになったわけではない。だからこそ思う。
「次」は、あったらいけないのではないか。
だってヒカルは、これからもきっと同じことを繰り返す。自分はそれをまた、許してはやれない。好きだから、悲しくて、悔しくて、虚しくて、寂しくなる。胸が裂けるように痛くなる。
そんな思いをしてまで、分かっていて、それでも傍に居ようとするのって、どうなんだろうか。
「好き」だけで釣り合うものだろうか。
分からない。迷う。
もしも離れているほうが、お互いのためだったら? 例えば別の選択をして、そちらの方が幸せだったとしたら?
「好き」を諦めて手放したら、違う「好き」が見つかったり、するのだろうか。
辛い思いをするのは、本当はもう嫌なんだ。
この指輪、今度こそ捨てるべきか。
迷う。
二年経っても褪せることなく存在を主張するそれに、今は触れない。
「取り敢えず、就活始めなくちゃな……」
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