第5話 線。
side R
「樹さん今日は居ないんですか、師匠」
「いねぇよ。裕太お前そろそろ俺の事涼平って呼んでみ?」
「無理です。そんなことよりちょっと聞いて下さいよぉ。こないだ三郎三兄弟が――」
「へえ」
「――、それで、たっちんがいつまでもうじうじしてるからって義明のやつがとうとうキレて、だから……」
こいつは一体どれだけ喋れば気が済むんだ。
玄関入ってきてからずっと喋り続けている。わざわざ人の家まで来てローデスクに広げた参考書はまるで進んでいない。
扇風機の前を一人で陣取りやがって。しかも黙って聞いてれば、出て来る名前が全部男。どんだけ女っ気ないんだ。高校確か共学だったよな。大丈夫かこいつ。
見兼ねて、冷蔵庫に冷やしておいた一リットルのペットボトルを取り出して、未開封のそれでゴツリと頭を小突いてやる。
「った!」
「いつまで喋ってんだ。さっさと書け、阿呆」
立ったまま上から見下ろせば、裕太は「ちぇぇ」と口を尖らせてから渋々黙ってシャーペンを握る。短くない茶髪がさらりと下を向いた。地毛でこれだけ茶色いのは羨ましいが、本人は教師と揉めて大変らしい。
ペットボトルを開けてそのまま口をつけると、炭酸の効いたサイダーが口の中を刺激した。
「苦手なんだろ、数ⅢC。言っとくけど俺はもうあんま覚えてないから、マトモに教えられないからな。分かんないとこあっても聞くなよ」
「分かってますよぉ……」
何でわざわざ教えてもらえないものを持ってくるのかね。まあ、苦手だから放置しすぎて溜め込んだんだろうっていうのは、想像がつくけれども。
「一問解いたら一口飲ませてやるよ、このサイダー」
気泡がたっぷり上がってくるペットボトルをローデスクの、参考書の隣に置いてやる。すると裕太は悔しそうに口を歪ませて見上げてきた。
「くっ! 解けないから困ってるのに!」
「いやそもそもまだ碌に問題見てないだろ。参考書だろ、解説読めよ」
「解説読んで意味分かるんなら困ってないですよ」
「なんっだそりゃ。それが現役受験生の台詞かよ。仕方がねえなあ。じゃあ、一時間で二十問正解すればご褒美」
「いや無理でしょ! だって分かんな……え、因みに何ですか? ご褒美」
こいつはいつも、あまりにも素直だ。ご褒美なんて言葉に釣られて目が輝いたのを見て、つい口角を上げてしまう。
「さぁ。お前の好きなものなんじゃないか? なんたってご褒美だし」
俺が裕太のどこを好きかって? 昔から変わらない、そうやって素直に俺の言葉に一喜一憂するところだよ。
屈んで、見上げてくるその顔に触れるだけのキスをしてやる。でっけえ目だな。
「っ! うわ……」
「よーし、一時間計るぞー、よーい」
「まっ待って、待って!」
「ドン」
スマホのタイマー機能を一時間にセットしながら、スタートボタンを押す前に発破をかけると、裕太は慌てて参考書とノートに齧りついた。
時間差でタイマーをスタートさせてからカリカリと滑るシャーペンの先を見ると、最初の一問は正解している。これで少なくとも一時間は静かだな。俺は裕太の背中を抱き込むようにして腰を降ろした。くっつくと暑いから少し離れて、脚の間には下を向いて丸くなった背中。裕太が胡座をかいて座っているから、自分の脚をその膝につける。
漸く扇風機の風に当たれた。
「……なんでしょう?」
「俺も扇風機に当たりたいんだよ。独り占めしてんじゃねえ。あ、サイダー飲めよ」
さっきのキスが効いたのか、裕太は俺を訝しみながらペットボトルを持ち上げる。一息でごくごく喉を鳴らして飲んでから、また渋々数字の羅列と向き合い出した。
自分で言い出したけれども一時間暇になってしまった。暫くは下を向く丸い背中を眺めていたけど、魔が差してティーシャツの袖から出ている右腕にそっと爪を這わせて引っ掻いてみる。と、裕太は面白いくらいに飛び上がって驚いた。
「ひい!」
「色気のねえリアクションだなあ」
「ちょっと、イタズラやめてくださいよ、グラフ書いてたのに線が歪んだじゃないですか」
「悪い悪い」
「もおー!」
振り返った顔は眉尻が下がっていて、それに苦笑いを返してから床に寝転んだ。真剣に頑張っている間は大人しくしておこう。何しろこいつは俺と同じ大学に来たくて頑張っているらしいんだから。
煙草が吸いたいけどそれも我慢だな。苦いの嫌だって言われたし。さーて、寝よ。
スマホの振動音が耳の横で聞こえて、目を覚ますと一時間が経過していた。タイマーを止めて起き上がると、裕太は相変わらず背中を丸めながらローデスクに向かっていた。
「あ、師匠起きました? 聞いてくださいよぉ、オレ多分数え間違いじゃなかったら二十問出来ましたよ! 凄くないですか! 流石オレ! 今丸付けしてるんでもうちょい待ってくださいね、全問正解だったらごほう、ひい! いった! なんですか!?」
起き上がったら目の前に裕太の首があったから、襟足の毛を右手で除けて首に噛み付いた。
「お疲れさん。いいよ、丸付け。ご褒美やる」
「ちょっと待って」
腹に腕を回して抱き寄せると、裕太の身体が急激に熱を持ち始める。触ってたらすぐに分かるくらいだ。気にせずそのまま首筋や耳朶に舌を這わせると、裕太はされるがままだとでも言わんばかりに固まってしまった。
期待していたくせに、と鼻で笑いそうになるのを我慢して、襟首引っ掴んで無理やり肩を露わにしてやる。多少キスマークがついても、どうせ本人からは見えないから文句は言われないだろう。
「あの、ししょう」
「こっち向きな」
「はいぃ、」
背中側のシャツを引っ張って無理やりこっちを向かせると、裕太は困ったような顔で真っ赤になっている。慌てたように引き結んだ唇が微かに震えているのは見えたけど、無視して自分の唇で覆ってやった。口を開けるのはわりと抵抗なくなってきたみたいで、固まってた身体から力が抜けていくのは回数を重ねるたびにどんどん早くなる。
吸い付いていた唇を離すとちゅっと音がする。前にこの音が恥ずかしいって言っていたから最近はわざと音を立てているんだけど、多分こいつはわざとだってことには気付いていない。
しばらくそうしていると裕太が身体ごと完全にこっちを向くから、俺はそっとその身体を離した。
「おしまい」
「師匠……」
恨みがましそうな目で抱き付いて来られるともう暑い。言わないけど。
「なんでいつもここまでなんですか」
言いたい事は分かっている。答える代わりに抱き寄せて頭を撫でてやる。
「こんなんじゃ嫌ですよ、だって俺、もっと……」
「まだ駄目」
「何でですか」
そこが俺の中での、一線だからだよ。
「ガキ相手にはしねぇの。お前まだ高校生だろ」
「オレ、ガキじゃないですよ、もう」
真っ直ぐな瞳で見詰められて、思わず頬が緩む。犬が尻尾振っているようにしか見えない。
「なら、こうしようぜ。高校卒業したら最後までしてやる」
「え……」
「ガキじゃねぇんだろ」
「本当に?」
「約束な。卒業式の日に、ちゃんと最後までしてやるよ、裕太」
「師匠……本当に?」
さっきまでとは違う表情で赤らんで、段々と涙目になっていく。俺のことでそんなに思い悩んでいるのかと思うと、可愛くて仕方がない。
「だから今日はもうお預け。分かったか?」
「はい。絶対、絶対約束ですからね」
目の前に自分で引いた一本の線。目的は「護る」ため。
先ずは自分と、それから、大切にしたい筈の相手を。
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