第23話 さよなら。

side I


「……なんで」


 それしか出て来なかった。缶を握り絞めた指から力が抜けそうになる。

 缶を渡す事も出来なくて、ベンチに座る事も出来なくて、只公園の隅で二人、突っ立っていた。

 豪くんは目を逸らすようにして大きく息を吸い込んだ。ラフなスウェットパンツのポケットに両手を突っ込むと、それから目を合わせてはくれなかった。

「樹さん、俺の事別に好きじゃないですよね」

「……いや、そんな事ないよ」

「でもあんた、たまに違う匂いがする」

「……、っ、そ、」

 言われて、息が止まった。

 何の事を言っているのかはすぐに分かった。カシスミントの匂いだ。

「それは……多分友達の煙草が」

「そんなに身体中に染み込む程一緒にいるような仲ってどんなんですか」

 豪くんの口調が余りにも冷静で、思わず一歩足が下がった。心臓がドクドクと鳴り響く。何も言えなかった。

 無意識に言い訳をいくつか考えたけど、それを口に出してはもっと裏切る行為に繋がる気がして、おれは結局何も言えなかった。

「俺はあんたには相応しくない」

「え……?」

「あんたに必要なのは、俺じゃないんですよね」

 全然言葉が出て来ない。首を横に振ってはみせたけど、豪くんと目が合わない。

「そんな事ない」

 何とかして説得したい。でも言葉が出て来ない。何て言えば良い。

「ごめん、やめるから、だから」

「すいません、俺」

 普段そんなに変わらない豪くんの表情が、くしゃりと歪んだ。どうしても目が合わない。

「もう決めたから」

「豪くん……」

 その時漸く目が合った。まっすぐにこちらを見るその瞳はいつも通りで、彼はわざと、表情を隠そうとした。

「俺はもう、あんたとは連絡を取らない」

「待ってくれ」

「俺、」

 スウェットのポケットに入れていた右手がそこから出て来て、おれの左頬を包んだ。温かかった。

 自分が別れ話してるくせに、何でそんな顔するんだよ。


「俺は、あんたの事が、好きでした」




 豪くんが居なくなった公園のベンチで、一人そこに座ってみる。さっきまでは、彼がここで自分を待っていた。

「急だったなぁ……」

 手の中の二つの缶は、すっかり温度をなくしていた。気付かないうちに冷えていたらしい頬には、左にだけさっきからずっと温かさが張り付いている。

「ずっと、」

 気付いていたんだろうな。恐らく初めから。

 それなのに、ずっと何も言わず、知らないふりをしてくれていたんだ。気付かないふりをして、ずっと傍にいてくれた。

「ごめん……」

 知らぬ間に甘えすぎていた。

 酷い事をした。

 豪くんは、ずっとまっすぐに好きでいてくれたのに、自分は本当に酷い事をした。

 ごめんな。ごめんなさい。馬鹿だった。なんて馬鹿だった。勝手な事ばっかりして。

 もっとちゃんと向き合えば良かった。もっと大事にしてあげなきゃいけなかった。それなのに、おれは本当に自分の事ばっかりで……。

 ごめんなさい。本当にごめんなさい。ちゃんと好きだったよ。

 今更もう、遅いんだけど。


「どうしよっかな、これ」

 手の中の缶はいつまでも重さを持ったままで、寂しさが余計に溢れた。

 優しさと温もりの篭った大切な手を離したのは、自分だ。






side G


 バタンと乱暴に玄関を閉めて、その冷たいドアに額を押し付ける。歩いている途中から足が早くなってしまって、軽く息が乱れた。自分の家の中の匂いに安堵して深い溜め息が漏れる。

 彼は追い掛けては来なかった。

 これで良い。大丈夫、泣かなかった。思っていたよりも上手く出来た筈だ。

 一晩考えて導き出した別れの理由は、自分の中では至極軽いものだった。

 スウェットパンツの左ポケットに入れていたスマホを取り出す。液晶画面には、開きっぱなしのメールの受信画面。


『悪い。あれ返してくれないか』


 二日前の夜中に届いた社長からのメール。

 返信はしなかった。

 このメールが届いてからスマホが重くて、手に持てない程重くて、ずっと目頭の辺りが痛かった。


 あの人が自分の知らないところで何をしていようと、正直俺には関係なかった。甘い煙草の匂いがしても別に構わなかった。自分があの白い手を離さなければそれで良い。そう思っていた。只笑っていてくれれば、その柔らかい笑顔を見る事が出来れば、それ以上の望みはないと。


 だからこそ、あのメールが届いたからこそ、別れなくてはいけないと思った。俺は、あの二人が笑い合っている姿を好きだった筈なのだから。

 靴を脱いで玄関を上がり、ベッドに寝転んで目を腕で隠した。

 これで良かった筈なんだ。傷つけてしまったけれど。傷ついた顔をしていた。泣きたくなかったから、せめてもの抵抗にメールの事は言わなかった。最後と思って触ったそばかすのついた頬は、冷たかった。

 ほんの少しでも、彼の中に残ればいい。

 小さなしこりとしてでも、ほんの一欠けらでも、この数ヶ月が彼の中に残ればいい。大きく潤んだ瞳に最後の告白をした時、そんな事を思っていた。


「好き……か」


 好きって何だ。

 もう一度手を繋げたなら、キスが出来たなら、あの人に勝てると、そう思えただろうか。


 長い片思いがやっと終わったんだ。

 そう思うしかない。


 さっきの顔がもう思い出せない。

 笑った顔しか、出て来ない。


「『あれ』って……物じゃねぇっつーの」

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