第17話 雨。
side R
その日は、雨が降っていた。
俺は朝の天気予報を見ていたから、大学までちゃんとビニール傘を持って来ていた。朝から曇り空だったし。
ところが天気予報も見ない馬鹿は居るらしく、その馬鹿女はそろそろ暗くなりそうな夕方の講義棟のエントランスでひとり、外を見て突っ立っていた。
秋と冬の間の季節は、雨が降るとそれなりに冷える。膝までの青いスカートから下の剥き出しの脚が寒そうだった。
今日の講義はほんの十分前で全て終わり。あとは小雨の中を傘差して帰るだけ。
「持って来てねぇんすか、傘」
周りが続々と傘を開いて帰って行くエントランスで後ろから声を掛けると、湿気で広がったような髪が揺れて、振り向いたその顔は驚いたような動揺したような表情だった。
「だってすぐに止むと思ってたから……。リナは?」
「あいつは今日はサボり。代返しといてやったし。売店、もう閉まってましたよ」
「どうしよう」
困り果てる女を前に俺の選択肢はひとつしかなかった。
そいつは傘を持っていなくて、俺は傘を持っていた。そして降ってくる雨は、小雨といえども決して濡れて平気な降り方ではなかった。大きく吐き出した溜め息は、自分が思うよりもずっとわざとらしいものになった。
「ったく。入れよ、傘。言っとくけどあんたの家までは送らねぇぞ。俺の家、すぐそこだから、傘もう一本あるの貸してやるから自分で帰ってくださいね」
「良いの」
「他にどうしようもねぇだろ。俺も濡れて帰んの嫌だし」
「有難う」
一人分のビニール傘を開いて、自分よりもずっと華奢なその身体を近くに招き入れる。降っているのは確かに小雨だけど、止む気配はないから、肩を濡らしてやらないように少しだけ傘を傾けた。
「家、近くなのね」
「ああ。近くじゃないと、面倒臭くて学校行かないと思ったんで」
「変な理由ね」
お互いに言葉を選んでいるのが分かる。
目線は合わせなかった。狭い傘の中、馬鹿はちょっとずつ身体を離そうと横にずれていく。
「濡れるだろうが」
「ッ……」
仕方なしに肩を抱いてこちらへ引き寄せた。濡れるのはあんたじゃないよ、俺だ。勝手な言い訳を頭に浮かべながら、勢いで抱き寄せたその小さな肩を変に意識しないように努めるので精一杯だった。近付いた分、雨に紛れて柔らかい香水の匂いが鼻を擽る。
少しだけ会話が途切れて、先に口を開いたのはまなかだった。
「彼女、が、いるって聞いたけど、本当なの」
「は?」
なんだそりゃ。
彼女、は、居ない。違うのなら居る。
見かけより細い茶髪が頭に浮かぶ。
「……さあ」
「さあって……。自分の事じゃない」
「彼女、は、居ない」
嘘じゃない。
女は居ない。
「居ない、の」
「ああ」
「じゃあ……」
馬鹿が突然足を止めるから、釣られるようにしてこっちも立ち止まる。
狭い傘の中、目があった。
「家、お邪魔して良い?」
気付けばもうアパートの前まで着いていて、階段を上がれば手前から二つめのドアが俺の部屋だ。
「……別に、良いけど」
階段の軒下に立って傘を閉じる。
急に心拍数が上がった。
別にたいしたことじゃない。樹さんだってリナだって来た事はある。相手がいつもと違うだけだ。
自分にそう言い聞かせながら階段を上がる。
下からまなかが続いて上がってくる。いつも履いているヒールの音が響いた。
玄関の鍵穴に鍵を差し込んだところで、ぐるぐるした頭がやっぱりこれは無理だと悟る。
二人で一歩でもこの部屋に入ってみろ。俺はきっと冷静では居られない。我慢出来そうにない。
「悪い、あんたやっぱここで帰れ」
「え、なんで」
「襲うぞ」
「……え」
後ろを振り返ると明らかに動揺した顔がそこにあった。
頼むよ帰ってくれ。
ずっと耐えてきたのに、これ以上傍に寄られると我慢出来ない。いつもみたいに適当な言い訳して逃げろ。
「あんま気安く男の部屋に上がるとか言うなって。今、傘持ってくるから、」
「襲ってよ」
「はあ?」
「襲って」
「おい……」
玄関前の狭い通路。
一歩距離を詰めた華奢な身体。視界いっぱいに広がる濡れたような髪。雨に紛れた柔らかい香水の匂い。
唇に触れた、柔らかい感触。
頭の中がぐらりと揺れた。
一度離れたその感触の主は、少しだけ瞳を潤ませて真っ直ぐにこっちを見た。
「何よ、知ってるんだから私! ……あんたが私を、好きな事くらい!」
「……は、」
「だからッ、」
勢いに任せたような声は喉の奥から震えていて、睨みつけるように見開いた瞳は、大きく潤んだ。
「私はもう、逃げるのは嫌」
「……、ばかやろう」
畜生、やっちまった。どこから間違えた。
頭の隅で自分を責めながら、次は自分からキスをした。赤い、柔らかい、いつもと違う唇に呼吸も忘れそうな程深く。長い髪を絡めないようにきつくその小さな身体を抱きしめる。白いブラウスが雨で少し湿っていた。首に回された細い腕に、どうでも良い思考なんか全部すっ飛んだ。
そのまま片手で鍵穴に差したままだった鍵を回す。抱いた腕は離そうと思っても離せなかった。
ずっと触りたくて、ずっと我慢してきた人が今自分の腕の中に居る。
キスをしている。
嬉しすぎて心臓が止まりそうだった。
身体を密着させる度に柔らかな胸が当たる。ふわりと揺れるような香水の匂いに意識を全部持っていかれた。抱きしめてキスを繰り返したまま、俺は家の中へまなかを連れて入った。
その日は、雨が降っていた。
段々雨足も強くなってきていて、俺は目の前の女に夢中だった。
だから、気付かなかった。その土砂降りに変わりそうな雨の中、透明なビニール傘の下に隠れた茶色の髪が、家の前の道路に居た事に。
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