第16話 夢。

side I


「なぁ、どこが良い?」


 おれはどこでも良いよ。好きなところ、決めなよ。


「そう言うなよ。折角なんだから、二人で決めよう。パンフレット沢山持って帰ったんだ」


 これ、海外ばっかりじゃないか。


「何だ、国内が良いのか?」


 国内で充分だろ、2泊3日なんだから。


「樹はどこに行きたいんだ?」


 そうだなあ……近場の温泉、とか?


「疲れたオッサンみたいだな」


 そういうヒカルは、どこに行きたいとかあるのか?


「俺は、そうだなぁ、南の島。ヨーロッパでも良いな、俺の買い付け先を案内して回っても良いし」


 仕事、余程好きなんだな。


「ああ、悪い。そうだよな、折角仕事じゃなくて旅行なんだから、やっぱり南だな」


 結局海外じゃないか。


「何だよ、良いじゃないか。知り合いが誰も居ないようなところを選んでさ、好きな事だけするんだ。ホテルで好きなだけ寝て、海行って、美味しい店で食事をしよう。買い物だって、観光だって、無計画にふらふらするんだ。ホテルに戻ったら夜景を見たりさ、一緒に風呂に入って、食事を済ませたらベッドに戻る」


 はは、それ二泊で出来るかなあ。


「何とかなるよ。だから樹、パンフレット全部やるから、次に会う時までにどこが良いか、ちゃんと選んでおけよ。決めたらパスポート取る手続きしよう」






 軽く息を吸い込んで、薄く目を開ける。

 朝起きたら部屋に一人だった。全身を取りきれない疲労が覆っている。頭がまだぼんやりする。

 枕の隣まで落ちてきている時計を拾い上げると、

「九時か……」

 豪くんとの約束は昼からだから、まだ寝れる。

 まだ起きたくない。さっきまで、とても幸せな夢を見ていた気がする。あまりちゃんと思い出せないけれど、再び目を閉じればまた続きが見られるような気がして、寝返りを打ちながら布団に潜り込んだ。

「うわ……っ」

 布団を動かした途端、中に篭っていた生臭い匂いが鼻について、まどろみが一気に消え失せる。気付けば自分は何も着ていない上に、昨夜の跡がそのままこびりついたように残っていて、腹の上と、触れば上下のシーツもガビガビになっていた。全身が渇いた汗に塗れてべたついている。

「洗濯……あ、いや、風呂……」

 仕方なしに回らない頭で何とか布団から這い出し、ベッドから降りてへたりこんだ。

「うぅー……だる……」

 腰の下の辺りが異様な鈍痛を孕んでいる。全身が鉛のように重かった。

 床につけた左手がさわりと何かに当たって、見れば前に一本だけ置いて行かれた煙草だった。もう碌に匂いもしないけれど、何と無く捨てられなくて、ベッドの宮に置いたままにしていた。昨夜の派手な振動で時計と一緒に落ちてきたのだろう。

 意味もなく唇に挟んでみて、そのままのそりと立ち上がった。まだ時間があるから、先に風呂だ。シーツを洗うのは、その後からでも良い。

 風呂場に向かう途中で目に入った玄関ドアは、鍵が開きっぱなしになっていた。




「どうしたんですか」

「うん、何か昨日、夢見が悪くてあまり寝られなくて……」

 顔の浮腫が取れないまま約束の時間に豪くんの家を訪れると、豪くんは顔を見た瞬間、怪訝そうな声を出した。本当の理由は言える訳がない。

「今日やめますか」

「いや、大丈夫だよ。DVD、借りてきてくれたんだろ。折角だし観ようよ」

 浮腫以外はいつもと変わりない筈だ。心配をさせないように努めて笑ってみせてから、部屋に入れてもらった。

 豪くんの部屋は、前に訪れた時と同じように小綺麗に整えられていた。ベッドと向かいになるようにして、一人暮らしには充分な大きさのテレビが置かれている。そのテレビの前の低いテーブルには、几帳面にも既にペットボトルと菓子袋が広げられていた。菓子袋の隣には、借りてきてくれたらしい最新の洋画のパッケージも並んでいる。人気シリーズの最新作だ。

「何が良いか分からなかったんで、取り敢えず新しいの選んできました」

「すげえ、おれこれまだ観てないんだ。ありがとう」

 レコーダーにセットして、カーテンを閉めて、電気を消して、リモコンで再生釦を押す。

 二人して隣同士、ベッドを背凭れの代わりにして床に座り込んだ。何の気無しに隣の豪くんを見上げると、まるで示し合わせたかのように目があったので、どちらからともなく軽く唇を重ねてから、テレビ画面に向き直った。


 流石人気シリーズだ。面白い。

 昼間なのに薄暗い室内。耳には心地良いボリュームの吹き替えの会話。身体の右側に当たる温かい体温。緊張感に欠けた空気。疲れて重い身体。次第にぼんやりする頭と視界。

 ぐらぐらと安定を失った頭は、ついにはうっかり豪くんの肩に凭れた。気付いた豪くんがリモコンでテレビのボリュームを落としてくれるものだから、ますます意識が遠くなっていく。

「ごめん、寝ないから大丈夫」

「いっすよ。疲れてるみたいだから」

 背中のほうに腕を回されて、指先で優しく髪を梳かれるともう瞼は開かなかった。抗えない睡魔に飲み込まれる。

 がくりと頭が落ちてしまって、顕わになった首筋に、一度だけ温かいものが触れた気がした。




「ん……あれ……」

 目が覚めると自分はすっかり横になっていた。頭に当たるのは豪くんの膝枕だ。豪くんが胡座のままだから、膝の位置が随分高い。

「ごめん、寝ちまっ、」

 起き上がろうと上を向くと、豪くんも座ったまま静かにベッドに肘を立てて眠っていた。首だけ動かしてテレビ画面を見ると、メニューに戻っている。寝た間に一周したのだろう。

 起こさないように膝の上からそっと頭を退かし、改めて豪くんの寝顔を覗き込んでみる。狸寝入りかと思う程その表情は崩れない。それでも微かに聞こえてくる安定した寝息に、熟睡しているのだとすぐに判断出来た。

 先に寝てしまったのは自分だし、起こすのは可哀相だから、起きるまで待っていよう。すっかり目が覚めてしまって、もう寝られそうにはなかった。

 飲み物を冷蔵庫に戻しておいたほうが良いだろうかと思い立ち、静かに隣を離れてペットボトル片手に台所に向かう。部屋が暗いから台所の電気だけ点けて、冷蔵庫を開いてみる。

「……うーん」

 飲み物と摘みのような菓子類以外、何も入っていなかった。

 この人いつも何を食ってるんだろう。

 今日の夜飯どうする。買い物に行くべきか。冷蔵庫を閉じて考える。

 でもおれが居ない間に豪くんが起きたら、豪くんが慌てるのではないか。というより、本当に食いもんないのか。軽く辺りを見回すと、冷蔵庫の傍の小さなメタルラックに山積みになったカップ麺を発見した。

「……。ま、いっか」

 今日はこれをひとつ分けて貰おう。次の時には、デリバリーでも頼むか。


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