第15話 心酔。

side I


「樹さんそれは最低だわ」

「分かってる……」

 コンビニ弁当をつつきながらピシャリと涼平に切り捨てられ、まったく否定出来なかった。

 まだ暑さの残る秋口の夜。エアコンのない涼平の部屋では、相変わらず扇風機が首を振りながら働いている。もう夏場のような蒸し暑さはないが、やはりそれなりに冷気は欲しい。

 機械で綺麗に切断された、冷えた柔らかい卵焼きを頬張りつつ、ほんの数日前の出来事を涼平に打ち明けていた。つけっぱなしのテレビでは、さして面白くもないバラエティー番組から派手な笑い声が溢れてくる。

「まぁ別に俺が知った事じゃないですけど。流石に二回目を期待するのはどうかと思いますよ、付き合いたてなのに彼氏可哀相すぎるだろ」

「期待したところで次なんてないよ。こっちは相手の名前しか知らないし、向こうはおれの名前すら聞きもしなかったんだから。……暇つぶし、とか、そんなんだよ、きっと」

「しかもまさか違う名前を呼ぶとはねぇ」

 涼平が煮物の椎茸を黙ってこっちの弁当の隅に置く。別にいいけど、と思いつつ代わりに自分の脂っこい唐揚げを涼平の弁当に二つ投げ入れた。

「あれはおれも驚いたな」

「俺としてる時は一度もなかったのに、余程似てたんですかね、ヤリ方」

「うーん」

 食事中にも関わらず恥ずかし気もなくその時の行為を思い起こしてみる。何かが似ていると確かに思ったのだけれど、時が経って考えるといまひとつピンとこない。

「よく分からないんだよなあ」

「ふうん。でもその藤城 光昭って名前、どっかで聞いた気がするんだよなぁ」

 行儀悪く箸を口に挟んだまま、涼平は何とか思い出そうとするかのように頭を抱えた。

「なに、名前知ってんの」

「何かで見かけたような……」

 もしかしたら涼平が彼を知っているかもしれないなんて。また会えるかも。有り得ない期待が少しだけ胸の奥で膨らんだ。

「駄目だー、思い出せない」

「なんだ……」

 明らかに落胆した声が零れてしまって、それを聞き逃さなかった涼平が眉根を寄せた。


「会いたいんですか」


「……いや、うーん、」

 どんな反応が正解に近いのか判断がつかなくて、なんにも言葉が出てこない。別に彼に会いたい訳ではない。でも、会いたくない、訳でもない。

 そんなおれに、涼平は見透かしたように呟いた。


「会うなら本物にするべきだろ」


「……それが出来れば、」

 こんなに考え込んだりしない。






 ピンポーン


 深夜に部屋のインターホンが鳴る。

 明日は土曜日だ。豪くんと会う約束をしているからと、涼平の家から早めに帰って風呂に入っていた。丁度身体を拭いて服を着込んだ時に聞こえたその音。早いといっても日付が変わっていないだけで、夜中には違いない。

 こんな時間に訪れる客など碌なものではない。

 訝しんで、インターホンの受話器を取る事はせず、濡れた髪のままそっと玄関に近付いてからドアスコープを覗いた。

「……えっ」

 慌てて目を離して、躊躇う事なく玄関を開ける。

「何だその顔は」

「なんで……」

 驚いてそれ以上声も出なかった。

 黒いかっちりとしたスーツを身に纏って、無表情なその人は立っていた。


「会いたかったんだろう、俺に」

「藤城さん……」




 こぽこぽ、と軽い音を立てながら、シンクでコップに麦茶を入れる。麦茶のペットボトルを冷蔵庫に仕舞って、狭い部屋の中、上着を脱いでベッドに腰掛ける藤城さんにコップを渡した。

「どうぞ」

「ああ」

 自分の家なのに何だか居心地が悪くて、彼から近すぎず遠すぎない距離はどこだと探して、斜め向かいの座椅子に座ってみた。チラリと盗むようにして見たベッドの上の藤城さんは、冷えた麦茶を静かに飲んでいる。

「暑いのにスーツで大変ですね」

「お前もそのうち同じようになる」

「そう、ですね」

 会話が続かなくて、静かなのがどうにも落ち着かなくて、リモコンを手に取ってテレビをつけた。

「つけるな。消して、ここへ来い」

「え、」

 ドクリ。

 心臓が音を立てて期待する。

「でも、」

「そこに居たら触れないだろう」

 触る。どこに。

 聞こうとして、切れ長の目に真っ直ぐに射竦められて聞けなくなる。指先は素直にもう一度リモコンの電源ボタンを押してから、まるで操られたみたいに、這うようにしてベッド下に移動した。

 足元の床にぺたりと座り込むと、藤城さんは持っていたコップをテーブルに置いてから、少し冷えたその指でおれの顎を、まるで猫を相手にするようにさわりと撫でた。

 顎を捕らえられたまま身体が傾いてきて、あ、と思って反射的に少し、顔を背ける。

「あの、すみませんおれ、明日人と会う約束があって」

「恋人か」

「はい、だからその、あまり今日は」

「だが、それは「ヒカル」、ではないんだろう」

「……え」

「顔に出ている。一度拒絶すれば、俺は二度とここへは来ないぞ」

 静かな声だった。

 それでいて威圧的な声だった。

 おかしな事を言われている気がする。自分達の何を知っていると言うんだ。そんなの何の脅しのネタにもならない。

 それでも、おれが逸らした顔をもう一度彼に向けるには充分だった。


「会いたいんだろう、「ヒカル」に」

「……~~ッ」


 貴方は彼じゃない。

 そう言いたい。でも言えない。

 だって会いたい。「ヒカル」に会いたい。


「どうする」


 唇のすぐ傍で選択を委ねられる。あの清涼感のある甘さが、鼻を擽った。

「風呂上がりか。良い匂いだ」

 ふわりと、初めて優しく微笑まれて、樹、と、頭の中で愛しい声が名前を呼んだ気がした。

 気付けば自分から目の前の唇に吸い付いていた。






 もう眠りに落ちてしまいそうだ。身体中が重くてだるい。

 ベッドのスプリングが壊れるかと思った。いつも頭のどこかにある冷静な部分が完全に飛んでいくみたいだった。

 おれが眠ったと思ったんだろうか、藤城さんは音を立てないように静かにベッドから降りた。テーブルの上のティッシュを数枚抜き取る気配がする。多分コンドームを取ってから自分のものだけ後始末をして、服を着込んだ。


「ふん。「ヒカル」、ね」


 意識が落ちる直前、鼻で笑ったような小さな声が聞こえた気がした。

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