第14話 デジャヴュ。
side I
その人は、カシスミントの香りと共に突然現れた。
譲治の店にはすっかり行きづらくなってしまって、代わりにふらっと立ち寄れるような別の店を探していた。常連のように通い詰めるつもりなんて始めからなかったけど、話を、本音を聞いてくれる赤の他人が欲しかった。そういうのは飲み屋の店主の得意とするところだ、それは譲治を見てきたから知っている。二年前には自分がこんなにも臆することなく見知らぬ店を探せるようになるなんて、想像もしていなかった。
たまたま目についた喫茶店かと思うような様相の店にうっかり入ってしまって、店内のざわついた雰囲気に何となくああ失敗したな、一杯飲んだらすぐに出よう。そう思った。
でも、知らぬ間に譲治の作る薄い酒に慣れていたのと、近頃頻繁に酒を飲む機会なんてほとんどなかった事が災いした。運悪くその店の酒は割り方がきつくて、たった一杯のライムの酒で軽く酔いを感じてしまった。
一杯分の金を払って、店を出る前にトイレに行こうと席を立つ。するとドアノブが勝手に動いて、トイレから人が出て来た。
「あ、すみません」
「いや」
一瞬だけ目が合った。切れ長の鋭い目だった。
皺もない綺麗なスーツを着たその人は、通り過ぎる時、カシスミントの香りがした。
トイレから出て、少しふらついた頭で店から出ると、数歩進んだだけのところで後ろから低い声を掛けられた。
「おい」
振り返るとさっきの人だった。誰だか知らないが、どことなく威厳のある表情とカッチリとしたそのスーツが、幾分上の立場を感じさせるような年上に思わせた。
誰かに似ている、気がした。
同じように店の扉を開いて、ゆっくりとした足取りで、それでも追い掛けるようにしてこちらへやって来る。酔ったといっても思考はまだちゃんとしていたから、当然警戒した。
「……なんですか」
何を言われるか、もしくはされるか。見当がつかなかったから、必要以上に身構える。
「お前、慣れてない癖にこんなところを一人でふらつくな。見ていて危ない」
「はあ」
音の低い声が上から降ってくる。
何だ、説教か。一番質の悪い面倒なパターンに引っ掛かったかもしれない。
自分だって一人だろうに。長々とそんな面倒な相手をする気はないから、早くその場を離れようと適当に相槌を打つ。
「そうですね、すいません」
「分かっていないようだな」
踵を返した拍子に、突然痛いくらいに腕を掴まれた。そのまま引きずられて店と店の間の狭い路地に押し込まれる。
「った、何すん……ッ、んん!」
次には、薄汚れた壁に背中と頭を打ち付けて、何故かキスをされた。
唇を合わせるだけじゃない、柔らかく、でも確実に強引に舌を捩込まれる。鼻と口の中に、清涼感のある甘い匂いが広がった。煙草の味だった。
「ちょっと! なん、ん! やめろ!」
「今忠告しただろう」
細身のような見た目にはまるでそぐわない程の力で押さえ付けられて抵抗がままならない。余程キスに慣れているのか、こちらは唇を閉じる事もうまく出来ない。
蹴り上げようとした足も虚しく止められて、代わりに横に置かれていたゴミ捨て用のポリバケツが音を立てて倒れた。
「やめ、」
角度を変えられる少しの間に抵抗の声を上げても、すぐにまた塞がれてしまう。息継ぎも難しい程舌を吸われて、只でさえ酒にぼんやりしていた頭が更にぼやけてくる。
しかも、初対面の見知らぬ男に無理矢理されている状況だというのに、確実に攻め立てるようなそのキスに次第に追い詰められる。脚の付け根が熱を持ちそうになってきて、止めて欲しいと思う半面、もう少し続けて貰いたいような気分が持ち上がってきて焦った。
それを感じ取ったのか、キスは段々と丁寧に濃厚になってきて、認めたくないけど今までにないくらい気持ち良くて、いつの間にか抵抗すれば良いのかどうかが分からなくなってくる。
はっ、と息を吐き出される度にかかる甘い匂いが、とても気にかかった。
気付けば必死に嫌がっていた両手は、相手の肩辺りの服を握り締めていた。自分から舌を絡ませる事はしなかったけれど、抵抗感は、なくなっていた。
「ほらみろ。そんな顔で一人でいるから、こんな目に合うんだ。家まで送る」
「はい……」
それからすぐにタクシーを拾われて、一緒に乗り込んで、自分のアパートの住所を告げる。シートに座ったら急に疲労感が押し寄せてきて、家に着くまで目を閉じて肩を借りた。
アパートに着いて、お金を払ってくれているのを何も考えずに眺めて、連れだって部屋の前まで歩くと鍵を開けるように促される。
「……帰らないんですか」
「帰ると思ったのか」
顔を見ると唇が目に留まって、さっきのキスを思い出した。
戸惑ったけど、鍵を開ける。玄関を開けると、彼は続いて入ってきた。扉を閉めて玄関の明かりを点けると、また腕を引かれてキスをされた。
今度は後ろに壁なんてなかったけど、抵抗はしなかった。それどころかもっとして欲しくて、自分からも舌を伸ばす。柔らかく絡め取ってくれて、舌の感触にぞくりと肌が粟立った。酔ったからだ。酔ったからいけない。
キスをしたまま靴を脱いで部屋に上がり、ベッドに辿り着くまでに軌跡のように身につけていたものを剥がし落として行く。与えられるキスに夢中になっていて、脚にベッドのスプリングが当たってバランスを崩した。どさり、と音を立ててベッドに倒れ込む。
キスが終わって、代わりにそのまま首筋を舐められた。ああ、やっぱりこうなるのか。ぼんやり思いながらも抵抗をする気にならなくて、されるがままに残りの服を脱いで身体を触らせた。
指の感触がふわふわした頭には本当に気持ち良くて、まだ碌に胸しか触られていないのに下半身がどんどん熱を持つ。不思議と羞恥心はなくて、腰が揺れるから自分で手を掛けて擦った。その手を、上から彼の手が覆ってくれる。
豪くんの事は忘れていた。
軽く揺さ振られながら奥まで入れられると、何故か満たされたような気分になって、不思議と泣きたい気持ちになった。
揺すられる度に声が漏れる。気持ちが良い。それしかない。頭の中が真っ白になって、無意識に名前を呼んだ。
「あ、あ……ぅあ、んああ、ヒカル!」
瞬間、はっとして我に返った。
今、自分は誰を呼んだ。
「あ、ごめんなさい……」
「別に構わん。好きに呼べ」
切れ長の目のその人は、特に気にする様子もなく動き続けた。でもこっちは自分の口から出た名前に驚いて、もう集中なんてまったく出来なかった。
それでもそんな頭とは裏腹に身体は欲望に忠実で、間違いなく限界に近付いていく。ぐちゃぐちゃになってしまった思考のまま、突き上げられて吐き出した。
「この匂い……」
誰かに似ていると思った。
見た目じゃない。雰囲気が、似ていた。
その人はベッドに座ったまま、拾い上げたシャツから煙草の箱を取り出した。一本指に挟んで、横になっているおれの唇にフィルターを近付ける。
「おれ、吸わないです」
「吸わなくて良い。火はつけないから、軽く噛んでみろ」
言ってから、彼は自分でまず手本のようにフィルターを噛んで見せた。パチ、と音がした。
もう一度宛がわれたから、見よう見真似でフィルターを噛んでみる。パチパチッとカプセルの弾ける音がして、あのカシスミントの香りが広がった。
「あ、」
「これの匂いだろう」
その人はその煙草に火をつける事はなく手を離した。唇には、煙草が残った。
立ち上がって服を着るのを見て、自分でも何故か分からないけど、思わず声を掛けた。
「あの、また会えますか」
「気が向けばな」
「名前、教えてください」
彼は最後の一枚を羽織って、こちらを向く。
「藤城だ。藤城 光昭」
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