第2話 苦味。
side I
「で、酒が貰えず結局またうちに来た、と」
「ごめん……」
「良いですよ、今一人だし。どーぞ」
涼平はいつものようにすぐに部屋に入れてくれた。こっちも完全に喧嘩した時の駆け込み寺状態だ。
「酒がほしい」
「ビールしかないですけど」
「うん」
玄関上がってすぐ、勝手知ったる冷蔵庫に手を伸ばす。開けた瞬間広がる冷気に、泣き腫らした顔の水分が反応してちょっと痛かった。汗で湿っていたシャツもひんやり冷えていく。
銀色の缶を一つ取り冷蔵庫を閉め、その場で開けて一口目を大きく煽ると、キンキンに冷えた苦味が喉の奥に広がる。また少し冷静になれた気がする。
「今度買って返すから」
「はいはい」
「今日は、裕太くんは?」
1DKの部屋には、扇風機と、ローデスクの上にノートパソコン。床には英語の本と電子辞書が散らばっていた。
「今日は来てないですよ。あいつまだ高校生だし、っていうか受験生だし、そんなに時間に融通効かないですからね」
「そっか。……ごめん、課題やってた?」
パソコンの前に勝手に座り込むと、画面にはぎゅうぎゅうに詰め込まれたアルファベットが並んでいる。
「そうですよー。まさに今、ものの見事に邪魔されましたけどね。喧嘩する度に後輩に泣き付くっていうのもどうかと思いません?」
「本当にごめん……」
「ま、別に良いんですけど」
涼平は同じ缶を冷蔵庫から出してきて、右横にどかりと座って同じようにビールを煽った。黒の薄いノースリーブシャツは襟ぐりが広くて、ごくごくと動く喉仏が良く見える。日焼けした肌は浅黒い。鍛えた筋肉はシャツ越しには見えない。
「で? 今回は何で別れたんですか」
聞いて欲しいことを言わずとも察してくれて、しかも率直に聞いてくれる涼平の性格は、一緒に居て楽な一番の理由かもしれない。
「だって人妻はさぁ、流石に……」
「あー、成る程」
「そこまでして女が良いんなら、おれの存在って一体……って、思ったら、もう駄目で……」
弱々しくなっていく喉にビールをもう一口。既にさっきよりも少し生温い。口の中の苦味が増す。
涼平は何も言わなかった。片手を床について身体を支え、口元に缶を当てたままこちらを見ているのが、視界の端に入る。
おれはパソコンに並ぶアルファベットを眺めていた。
「裕太、居た方が良かったですか」
「……ううん」
涼平は床に飲みかけの缶を置いて立ち上がった。
「風呂入ってきます。それ飲んでちょっと待ってて」
「うん」
扉何枚分かを通した、くぐもったシャワーの音が聞こえてくる。出て来る時には多分裸のままだ。
別に涼平と付き合っているとか、そういう訳じゃない。彼には裕太くんっていう、可愛い恋人が居る。歳のわりには童顔な、屈託のない笑顔を浮かべる可愛い子だ。邪魔するつもりなんかない。
まぁ、恋人って言っても、裕太くんの一方通行らしいけど、でも本人は知らない。
涼平の本命は、別に居る。
彼のひとつ年上の、つまりおれの友達の、まなかだ。
でも彼は、彼女に手を伸ばす気はないらしい。
「複雑な男だなぁ……」
パソコン画面のアルファベットを指でなぞる。あ、スペルミスしてる。後で教えてやらないと。
そういえば、ヒカルと最後にビール飲んだの、いつだったかな。ここ最近は会えば喧嘩ばっかりで、一緒にお酒を飲んだり、笑ったりした記憶がない。自分から別れを切り出した癖に、頭の中はまだヒカルでいっぱいだ。
背中に温い風を送る扇風機。ヒカルなら今頃きっとクーラーをつけているな、とか。
嫌になる。
だらだら二年以上も一緒に居るから、別れたって言ったって、どうせまた時間が経てば傍に居る。いつものようにお構い無しに電話がかかってきてさ。馬鹿だから、表示された名前が嬉しくてその電話取っちゃって。声を聞けば会いたくなって、会えばそれなりに笑い合うことが出来る。
傍にいることが幸せだと、もう一度思えるようになる。
そんな時間の流れが見て取れるから、今だって比較的落ち着いていられるのだ。傍に居るのが当たり前って、きっとお互いに思ってる。それが嫌な訳じゃないけど。
でもさ。
自分から寄ってきたんだからさ、もうちょっとくらい、大事にしてくれたって良いじゃないか。
「ヒカルの馬ぁ鹿……」
side R
「寝ーてーるーし。……ったく」
そういうことすんのかと思ってパンツだけ穿いて風呂から出ると、いつも面倒臭い愚痴ばっかり持ってくる一つ上の先輩は、ビールだけ二本分きっちり飲み干して眠っていた。
パソコンに倒れ込むように頭を乗せてるから、頭でキーボード打っちゃって、折角頑張った俺の課題が台なし。
「どうなってんのこの人ほんと」
仕方なしに部屋着の短パンを履いてから、ベッドの上の布団を床に降ろして、樹さんをそこまで引きずっていく。細身に見えても一応男だから、それなりに重い。まあ多少引きずったくらいでは起きないのは、過去の経験から分かっている。
布団に転がして腹の上にタオルケットを掛けてやってから、しゃがみ込んで顔を覗き見る。よほど泣き腫らして来たみたいで、目の回り真っ赤だ。ぶっさいくな顔になっている。
「やれやれ、毎度毎度」
流石にここまでの泣き顔には欲情しない。身体を触ってればそれなりに勃つし、抱こうと思えば抱けるけど、肝心の本人が寝てるしまぁ良いか。
服さえ着ていてくれれば、裕太が突然やってきても問題ないし。
下手に問題露呈して、裕太と別れるつもりはない。
「難儀だねぇ、あんたも」
どんな人なんだろうなぁ、ヒカルさんって。話に聞くばかりで会ったことはない。
別に会いたい訳ではないけど、そこまで浮気を繰り返せる程なら、やっぱり良い男なんだろうし、こんなに泣いてまで離れられない程夢中になれる存在なんだろ。
興味はある、同じ男として。
「いいなぁ、樹さん」
大事な人が居て、そんな人と真剣に向き合えて。羨ましいと思ったりもする。本人は大変なんだろうけどさ。
俺は、そうやって壊して駄目にして無くしてしまうのが怖いから、一番大事なものには触れない。現状維持が理想。
立ち上がってローデスクの上のスマホと煙草を取る。課題はやる気が削がれたから、今日はもうやらない。どうせ急ぎじゃないし。一年間必修だからって、わざわざ夏休みに課題なんか出すなよな。
ベランダに出て、煙草を一本取り出して口に挟み火をつける。ライターはジッポーより百円の使い捨てのが好みだ。肺まで吸い込んで吐き出すと、煙りが風に乗って全部流れた。
「口の中苦いから嫌です」
不意にこの間言われた声を思い出して、スマホで番号を捜し出して裕太に電話を掛ける。しまったよく考えたら上が裸だった。二階だから地面に近い。人に見られて不審者扱いされなきゃ良いけどな。
まだ十時だし、流石に寝てないだろ。
そう思っていると、相手はさも待機していたかのように二秒で出た。
本当、好きだよ、そういう犬みたいなところ。
「よぉ。裕太? ああ、俺だよ。明日さぁ、朝から遊びに来いよ。樹さん来てるんだ。そう、お前の大好きな樹さんだよ。……ばぁか、ちげぇよ、酔って泣いててさ、潰れて寝てるから、当分起きないよ。明日油性ペン持って来い。早起きしてうち来て、一緒に樹さんの顔に落書きしようぜ。ついでに二人掛かりで勉強もみてやるよ」
手の中のものは、滑り落とさないつもりだ。
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