第25話 薬指。

side I


 二回目のインターホンは鳴らなかった。

 ドアスコープを覗く勇気はなくて、玄関ドアに背中を押し付けるようにしてじっとしていた。革靴が規則的な音を立てて去って行くのを、ドア越しにずっと聞いていた。

 少し、惜しい事をした、と思わないでもない。さっきまでずっと手の中に握っていた筈のものが、急に消えてどこかへ無くしてしまったような、手持ち無沙汰な感覚だけを残して、藤城さんとの関係は呆気なく終わってしまった。きっともう、二度とは来ない。拒絶したら終わりだと、いつか言っていたから。

 玄関に立ったまま、何と無く両手の平を開いてみる。何もなくなってしまった気がして、寂しくて、落ち着かなくて、何かで隙間を埋めたくなる。


「……ああ、そうか」


 思い付いたら自然と顔が上がって、躊躇う事なくテレビの前まで移動した。足早に向かって手に取ったのは、すっかり埃を被った透明なカクテルグラス。少し白くざらついたカードキーを指先で持ち上げて、その下に隠すように仕舞っていた銀の指輪を摘んで取り出した。

 ずっと置きっぱなしにしていたそれは、触ると氷のように冷たくて、ずっしりとした重さを持っていた。親指の腹で、表面の埃を拭うようにしてぐるりと一回り撫でてから、左手の親指から順番に嵌めていく。サイズが合わないから嵌まる訳もなく、人差し指、中指。結局右手の薬指だけにしっくりと嵌まった指輪を、抜けないように少しだけ深く嵌め込んで、拳を作ってそれを左手で包み込んだ。

 まだ冷たい。

 体温が早く移るように。久しぶりに嵌めた薬指の違和感が、早く消えるように。


 じんわりと温度が移っていくのを感じ取ると、段々と腹の中が同じだけの速度で震えてくる。逸るように跳びはねる気持ちが抑え切れなくて、部屋でひとり、拳を握り絞めたまま声を出して笑った。

 馬鹿みたいだ。馬鹿みたいに胸が擽ったい。指が擽ったい。

 ずっとどこか足りなかったものが、こんな小さな金属なんかで満たされていく。まだ顔も見てないのに、声も聞いてないのに、触ってもないのに。

 逸る気持ちが止められない。


 なあ、やっぱり会いたい。まだ間に合うだろうか。会いに行ってもいいかな。触って、キスをして、好きって言ってもいいだろうか。顔が見たい。声を聞きたい。キスがしたい。どんな嫌な顔をされても構うものか。

 今まで散々こっちが嫌な思いをしてきたんだから、少しくらい付き合ってもらったって悪くない筈だ。

 嫌いになったのなら、頼むからもう一度、好きになってくれ。


 後ろのテーブルを振り返って、置いていたスマホを鷲掴みにする。今じゃないと駄目だ。

 時間が経ったらきっとまたいろいろ考えて躊躇ってしまう。アドレス帳を開いて、やっぱり「は行」のページに怖じけづいて、「さ行」を開いた。






side H


「お、悪い。ちょっと待ってろ」

 譲治はデカイ手で器用にスマホ操作をして、客の前で構わず電話に出た。

 珍しくいつもよりも早い時間に来たから、まだ他の客もちらほら残っている。レミーを傾けながら遠くの席のお嬢さん達に愛想笑いを振り撒くと、二人組の彼女達は、高い声を上げながら手を振り返し、こっちの席に来るのを迷っている。俺は今日は愚痴を言いに来ただけだから、彼女達の席まで移動する事はなく、黙ってレミーを片手に譲治の電話を聞いた。


「何だよ久しぶりじゃねぇか。ずっと来ねぇから存在忘れるところだったぞ。……あ? ……ああ。何だよそんな事か。なら今から来いよ。……大丈夫だ任せとけ。早く来ねぇと、店閉めちまうぞ。走って来い、走って」


 機嫌良く電話を切った譲治は、自分の酒を豪快に煽った。

「客か。こんな時間からお前が呼ぶなんて珍しいな」

「ああ。久々に来るうちの得意さんだ。お前もいつもうちに入り浸ってんだから、帰る前にちょっと顔だけ見せとけ」

「……ああ」

 そんな気分じゃないんだが、来るものは仕方がない。タイミングだと諦める。

 社交の場は顧客を増やす大事な場だ。仕事だ仕事。折角譲治が紹介してくれるって言うんだから、会社を背負っている立場上甘えない訳にはいかない。

 いけ好かないジジイだったら長い夜になりそうだな。面倒臭い。


「なぁ、なら今のうちに愚痴らせといてくれよ」

「おうおう喋れ喋れ。今なら何でも聞いてやらぁ。昨日も聞いたけどな」

 何か腹立つなと思いながらも、他に話せる相手もいないので仕方なしに酒を煽る。次に足したらボトルが空になる。どうしようか迷っていると、譲治が勝手にグラスに注いでしまった。空のボトルが目の前に置かれる。

「もう一本分、金出せや。どうせメール送った返事が貰えないって話だろ」

 カランカランと雑に氷を足される。水だけはいつものラインまで、きっちり。

「ああそうだよ。豪からも、樹からも、何の連絡もない。あいつらそんなに俺が嫌いか」

「知るかそんなもん。女々しいなぁ。本人に直接聞きゃあ良いじゃねぇか」

「阿呆か。素面でそんな事出来ないよ。ったく、こっちはいつでも会えるように指輪持ち歩いて仕事してるっていうのに」

「ああそうだ。お前それ嵌めとけ。持ち歩いてんなら丁度良いじゃねぇか」

「は、何が丁度良いんだ。そこらのお嬢さん達に見せびらかせってか」

 譲治は答える事なく席を離れた。店の奥の客が支払いをして帰って行く。譲治はそこの片付けが終わるまでは戻って来ない。

 一人くらい女の子を雇えば良いのに、払える金がないとか言って自分だけでやってるからこうやって俺がいつも待たされる。前に文句を言ったら「お前は客じゃねぇ」と言われたのでもう言わないが。

 スラックスの左ポケットから指輪を取り出して、親指と人差し指でくるくる遊ばせてみる。あれからずっと肌身離さず持っているから、すっかり体温が移って生暖かい。

 右手の薬指には、まだ嵌める気にならないが。だってまだ片方が行方不明だ。同じデザインの、サイズが違うやつ。あいつが嫌だって言うから、俺が一人で買いに行った。


「やっぱ駄目だったかなぁ……」


 スラックスのポケットに戻そうとしたら、まだ残っている別の客と話していた譲治が名前を呼んだ。


「多分、もう来るぞ」


 そうだった。客を紹介して貰うんだった。少し酔った頭を軽く振る。

 愚痴ばかりも言ってはいられない。仕事をしなければ。


 カラン、と店の入り口ドアの開く音がする。

「よぉ、久しぶりだな」

 譲治の声を合図に振り返れば、そこにはいけ好かないジジイではなく、息を切らして頬を上気させた、樹が立っていた。

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