第26話 おかえり。
「え」
何だ。何が起こっている。
幻覚か。
俺は慌てて指輪をポケットに隠した。目が合った樹は、入り口のドアに片手を掛けたまま、恐らく走ってきて赤らんだだろう顔を更に真っ赤にさせて、困ったような顔で俺を指差して譲治に凄んだ。
「き……聞いてない……!」
「ぁあ? そうだったか? まぁ良いじゃねぇかよ。さっさとそこ閉めろよ、店ん中冷えるだろうが」
エアコン代取るぞと脅しながら、譲治は俺の隣の席に新しいコースターを置いた。
「悪いな、ここしか空いてねぇんだ」
見渡す限りガラガラの店内で堂々とそう言ってのけ、樹がドアを閉めるために後ろを向いた一瞬、俺ににやりと笑い掛けた。
「開けるんだろ。レミー」
「……。チッ。開けるよ」
仕組んだなと気付くと舌打ちをせずには居られなかった。樹は素直に俺の隣のスツールに腰掛けようとした。でも悪いがそこには俺の上着が置いてある。俺はいつも通り壁際だから、反対側に移動させてやる事は出来ない。
どうするかと思っていると、気まずそうに俺から目を逸らしながらもうひとつ隣のスツールに俺の上着を移動させ、自分がそこに腰掛けた。それから一枚羽織っていた厚手の上着を脱ぎ、軽く畳んで俺の上着の上に置いた。
久しぶりに隣に座っている樹は困ったように眉を下げたままで、コースターを凝視している。その横顔が、最後に見た時よりも何だか少し大人びて見える気がして、まるで知らない別人のようにも思わせた。
半年もの月日を挟んだ事を実感して、少し胸が詰まる。
気まずいのはこちらも同じで、どんな顔でどんな態度でどんな声を掛ければ良いのか分からず、黙っていた。譲治は何気ない顔をしてレミーを二つ作り、追加のチョコレートを小皿に山盛りにして出してから、まだ残っている別の客のところへ行ってしまった。
仕方がないから冷えたグラスを手に取り、樹のほうへ少し寄せてみる。すると樹の指が自分のグラスを掴んで、こちらへ寄せてくれた。
カチン
グラスが音を立てた時、目が合った。頬をまだうっすら赤くして、下がった眉の下の瞳は微かに潤んでいる。
目が離せなかった。
「久しぶりだな」
口をついて出たのは、我ながら呆れるような有り触れた言葉だった。
「まあ、」
「元気だったか」
「まあ、それなりに」
嬉しい。
目の前に樹が居る。俺を見ている。会話をしている。嬉しいと思う。
それだけでまた胸が詰まる。
でも、素直には喜べない。
「豪とは、まだ続いてるのか」
出来れば聞きたくない。でも聞かなければいけない。
イエスって言うな。
「振られた。この間」
「……本当に」
「うん」
「別れたのか」
「別れました」
鸚返しのような拙い会話。外れない目線。何だこれ。
期待してしまう。
「へぇ、そうか。別れたのか。なら、」
期待していいか。降って湧いたとんでもないチャンスだ。手に持ったままだったグラスを落ち着くために一口だけ煽って、コースターに置いた。
樹のグラスも取り上げて、口をつけさせないまま布の上に戻す。代わりにその濡れた指をあからさまにしっかりと握った。
酔ってるから丁度良い。久々なんだ。ちょっとだけ、格好つけさせてくれ。
「なら、戻って来ないか。俺のところへ」
声を低くして、真剣な顔を少しだけ近付けて、握った指を手前に引く。見開かれた瞳から目を逸らさない。答えはイエスしか聞くつもりはない。
どんなつもりで今ここにいるのかなんて、知った事か。豪と別れたから、仕方なく代わりに俺? 結構じゃないか、大歓迎だ。
涙が滲みそうな瞳は堪えるように眉を寄せた。搾り出したような小さな声が返ってくる。
「……良いのかな。戻っても」
「当たり前だ」
下がりそうな情けない顔を無理矢理上げさせて、その頬を撫でてやる。優しく笑いかけてやれば、とうとう大粒の涙がぼたぼた落ちてきた。俺は泣かせてばっかりだな。
でも。
「おかえり、樹」
「ヒカル……」
スツールの近さを利用して、背中に腕を回してやる。それから頭を撫でて、次には殴られるのを覚悟で両手で思いっきりその身体を抱きしめてやった。
何だよこれ。笑い出したくて堪らない。
「おかえり!」
勢いまかせにそのまま叫べば、殴られる代わりに向こうの席から囃し立てるような口笛と咳払いが聞こえた。
腕の中からは、小さな嗚咽と鼻を啜る音と、シャツを握り返してくれる指が届いた。
「ただいま……」
悪いな、豪。
悪かったよ。
有難う。
衝動を抑え切れなくて、胸に凭れていた樹の顔を上げさせる。両手で頬を押さえて、逃がさないように。不思議そうな表情のその顔に、赤くなってる鼻に、唇に、にやけて止まらない唇を押し付けた。
嫌がられても無理矢理続けてやろうと思って居たのに、返ってきたのは拒絶ではなかった。吸い返してくる唇を離したくなくて、頬から離した左手で今度は頭を抱く。
右手は気付かれないように、ポケットに忍ばせた。
「おいおい、続きは帰ってからやってくれ。うちはそういう店じゃねぇんだ、こんなとこで脱がすなよ」
「ッ!」
「……邪魔すんなよ」
折角いいところだったのに、樹は譲治の言葉で慌てて唇を離してしまった。
「タクシー呼んでやるから、金だけ払ってとっとと帰れ。愚痴は聞き飽きたよ」
譲治は五桁の数字の並んだ紙切れだけ押し付けて、店の電話に向かった。樹はすっかり前を向いてしまっていて、顔を赤くしたまま汗を掻いたグラスに口を付けている。
俺は溜め息混じりに財布を探して、上着のポケットに入れている事を思い出した。
「樹、俺の上着から財布出して」
「あ、うん」
言われた通り素直に内ポケットから長財布を取り出してくれるから、ちゃんと気付くように右手で受け取った。
「あ、」
「あれ、お前指輪してないのか。俺はずっと外さなかったのに」
わざとらしくからかうように言いながら財布を開く。今夜は提示された金額を素直にカウンターに置いた。そうして、バツの悪そうな顔を横目でちらりと見てやった。
「自分だって今嵌めた癖に」
拗ねたような顔を見て、ああやっぱりそんなに変わってないな、と安心する。俺の知ってる樹だ。
左のポケットから出した、俺のよりもひとつ小さいサイズの指輪。右手の薬指に嵌められたのを見届けてから、譲治に気付かれないようにもう一度キスをして、右手の指同士を絡め合った。
「帰ったら続きだな」
「うん」
うん、やっぱり、笑った顔が一番だな。
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