第27話 もっと。

side I


 どさり。

 濃紺のシーツの上に倒れるように雪崩れ込んで、舌同士が離れないままにお互いの髪に指を絡める。うなじの生え際を撫でて、そのまま背中へ。


「もっと、」


 もっと近くに来てほしい。

 もっと触ってほしい。

 もっと見てほしい。

 名前を呼んでほしい。

 好きって言ってほしい。

 触ってほしい。

 触ってくれ。

 もっと触ってくれ。

「なぁもっと」

「顔見てるだけで興奮する」


 苦笑いを見たのが嬉しくて、そういえばこんな気持ちで身体を合わせたのはいつぶりだろうかと数ヶ月前の記憶を辿ろうとして、どこまで辿れば良いか分からなくなってきた頃、舌を緩く噛まれて考えるのを止めた。

 お互いの釦を外す指はどちらもスムーズで、それはつまりこの慣れ親しんだ行為に時間が空かなかった事を示しているようだった。

 焦ったような荒い息使いだけが部屋中に響く。シャツに隠れていた肌同士が触れ合って、酷く熱くて、自分のベルトはもう既に外されていて、唇だけは重ねたまま。

「ん……、なにも…」

「ん?」

「なにも考えられない」

「考えなくて良い。黙ってろ」

「っ、んぁ……」


 こんなに気持ち良かったっけ。こんなに欲しがった事あったっけ。

 正直、ヒカル以外の人とした時も、素直に気持ち良いと思った。結局誰としたってやる事は同じなんだから当たり前かって。

 でも違う。

 違った。だって今日はひときわ心臓が煩い。痛いのすら気持ち良い。触られて嬉しい。名前を呼ばれるとくらくらする。求めて貰ってると思うと目頭が熱くなる。鼻の奥がツンとしてしまって、気を逸らそうと思ったらヒカルの足が目に入った。

「スーツ汚れるから……」

 手を掛けようと伸ばすと、ベルトに触れた手に手が重なった。

「悪い、今、あんまり触らないでくれないか」

 切羽詰まった苦笑いと目が合って、自分でベルトを外した音が聞こえて、意味を理解してつい笑ったら、中に入れられたままの指がまた奥を抉った。

 代わりに指で示されたので、勝手知ったる頭もとの宮から使いかけのコンドームの箱を手探りで取り出す。他の誰との使いかけでも構わない。そんな事今は関係ない。

 震える指でひとつ包装を破り開ければ、体制を変えて少しだけこちらに身体を寄せられた。そこに片手で装着出来るのは、やっぱり慣れた証。

「力抜いてろ」

 脚の間に全神経を集中させていると、汗とか体液とかいろんなものでべとべとになった手で頬を撫でられた。悩まし気な顔で笑い掛けられる。

「樹、」

 うん、と返事をしようとして、痛みに近い圧迫感と、入り込んできた違和感と息苦しさで言葉を失った。

「っ、は……」

「樹、なあ、」

 耐えるのに必死で、気持ち良いしか無くて、頭の中が真っ白だった。だからヒカルがさっきから何て言ってるのか、本当はよく分かってなくて、息をするのに必死で、ひたすら訳も分からないままに頷いた。

「樹、なあ、」

「な、に、……んぁ、あ」

「好きだろ、俺の事」

「あ、ひか、ちょっと待っ」

「もう何処にも行くなよ」

「待っ、いき、が」

「お前は俺だけだろ」

「ヒカル、あ、うん、うん、待っ」

「これでも一応、俺」

「あっ、……っ、や」

「愛してるつもりみたいなんだ、お前の事」

「や、やっ あ、くるし……」


 もっと言ってくれ。

 もっともっと。

 もっとくれ。

 全部くれ。

 そしたらもう死んでも良い。






side H


 いろんな体液が乾いてカサカサになった頬をもう一度撫でる。細い髪が、汗で束になって張り付いている。疲れて眠るその目元は、まだ少し腫れている。

 こいつさっきの、多分聞いてなかったな。別に良いか。

 シャワーを浴びようと身体を起こす。完全に起き上がる前に、もう一度カサカサの顔を撫でて、意識のない唇にキスを落とした。無意識に緩んだその表情に、堪らない気持ちになる。

 うん、好きだ。

 だから向き合おう、今度は、ちゃんと。

 本当に久しぶりなんだよ、自分以外の誰かをこんな好きになったの。


「ただいま、樹」


 ちゃんと向き合うから、もっと大事にするから、ちゃんとこっちを向いていてくれ。

 目を覚ましたらもう一度。聞こえるようにもう一度、ちゃんと言うからな。






side I


「……、ん」

 あったかい。

 好きな匂いに包まれて目を開けると、有って当たり前のように感じる腕の中にいた。

 この感触、この温度。久しぶりだけど、なんの違和感もない。少し顔を上げると、静かに寝息を立てるヒカルの顔があった。

 触ろうとして右手を出すと、薬指には銀の輪が嵌まっている。

「……夢?」

 まさかこんなに急にこんな事になるなんて、全然思っていなかった。譲治に相談してから落ち着いて会いに行こうと思っていたのに。

 自分から「好き」って言うタイミングを、また逃してしまった。

 昨夜の、指を引かれた時の顔を思い出す。駆け引きなんて何も出来ないくらい、格好良かった。

「……気障め」


 これで良かったのか、実はまだ少し迷っている。前に進んだ気は、正直、しない。

 元に戻った。そのほうがしっくりくる。

 きっとまたこれからも、自分達は同じ事の繰り返しだ。浮気して、されて、怒って、怒られて、今度こそ指輪も捨ててしまうかもしれない。

 でもまぁ、それも良いか。浮気なんて今更だ。指輪捨てたら、次はもっと高いやつを買って貰おう。

 何度だって繰り返してやる。こんな駄目な人に付き合えるような奴は、きっと自分しか居ない。

「はは。ばぁか」


 目を覚ましたら、最初になんて言おう。

「もっと、大事にして。かな」

 違うな。

 もっと、もっともっと。

 前より、もっとずっと、好きな気がする。だな。

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