第二夜 日出台の怪人たち②
いや、そもそも。
あの男もきっと酔っ払っていたに違いない。それに気がつく前に彼はコンビニへ走っていった。
俺はベンチから降り、その場で体育座りをしていた。女はベンチにふんぞり返っている。よく見ると、彼女の耳たぶには大きなイヤリング……いや、アシカがぶらさがっていた。Tシャツの上から法被のようなレースの上着を羽織っていて、その下は短いタイトスカート。生足がすらっと長く、平べったいスニーカーから伸びるのは逆三角形のアキレス腱。
「おまえ、新参者か?」
彼女は偉そうに言った。
「はい。今日、引っ越してきました」
「そうかい、確かに見ない顔だなと思っていたところなのだよ。いやぁ、そっかそっか。そいつはご苦労だったな」
「はぁ……どうも。よろしくお願いいたします」
「そうかしこまりなさんな。アタシ、こう見えて心はオホーツク海のように広いから」
例えが壮大すぎて意味が分からねぇよ。
だが、酔っぱらいに真剣なツッコミは不要だ。それこそナンセンス。だが、他に言いようがないので「そうですか」と返した。突然、絡まれて地べたに座らされているのだから、まぁこの反応は正しいと思う。
「おい、そこは『いや、それを言うなら北極だろ!』ってつっこまないと! ダメだねぇ、お前はツッコミ力が足りない」
「すいません……」
どうしてオホーツク海ではなく北極なのか。アシカは北極に住んでいるのだろうか。ふと、思った。
「アタシはね、アシカ屋っていうの。よろしくね」
彼女はにこやかに言い、「ひっく」としゃっくりした。組んだ足をぷらぷら動かすので、そのたびに俺はのけぞる。
「アシカ屋……?」
「うむ。アシカ屋だ」
「アシカを売っているんですか?」
「たわけ! んなわけあるかい! アシカ売るって、意味わかんねぇな。うひゃひゃっ、ひっく」
一喝したかと思えば愉快そうに笑う。まったく、感情がすさまじくコロコロ変わる。自称「アシカ屋」の生足を見ながら、俺はゴクリと唾を飲んだ。
その時、ようやく連れの男が戻ってくる。
「遅いぞ、シバオ!」
「さーせん。ほら、先輩。ハイボールどうぞ」
そう言いながら、彼は缶を放り投げた。見事キャッチするアシカ屋。良かった。帰ってきてくれて良かった。心底思う。
「ん? あれ? あんた、そんなとこに座らされてんの? かわいそうに……ほんと、すみません」
彼は驚いたように俺を見、ペコペコと頭を下げた。だが、顔はヘラヘラしている。締まりがない。彼の顔はどことなくゴールデンレトリーバーを思わせた。
「ほら、先輩。邪魔ですよ。座らせろ」
そう言って、彼はハイボールを飲む彼女の脇を思いっきり押しやり、俺に座るよう促した。
「失礼します……」
アシカ屋、俺、シバオくんの順で並ぶ。この並び、絶対間違っていると思う。
「なぁ、シバオよ。こやつは今日、この町に引っ越してきたらしいぞ」
「おや、そうなんですか。どうりで見ない顔だと思いました。ようこそ、日出台へ」
「はぁ……どうも。よろしくお願いいたします」
俺は縮こまった。
「ぼく、シバオと言います。柴田の柴に、英雄の雄。
「えー、そうなんだ。てっきり恋人かと」
「あはははっ! バカだねぇ。んなわけないでしょーが」
アシカ屋改め佐原さんが大げさに笑った。ハイボールをすすりながらも肩で笑っている。柴雄くんも上体を落とし、文字通り腹を抱えて笑う。
「いやぁー、先輩と恋人なんて、死んでも嫌ですね!」
「お互い様じゃ、ヴァカタレ!」
「お二人、仲いいですね」
俺もようやく打ち解けてきた。最初は絡まれてビビっていたが、気さくな笑い声とこの場の空気、あらかじめ飲んでいた酒のアルコールも手伝い、彼らに馴染んでいく。
「俺、喜多屋荘助といいます。二十八歳。今日、引っ越してきました」
「喜多屋荘助。よし、喜多屋荘助、酒を飲もう。どんどん飲もう」
佐原さんが機嫌よく言う。俺は持っていたレモンチューハイをぐいっと飲み干した。
「ちなみに、アシカ屋ってなんなんですか?」
訊くと、隣でライムチューハイを飲んでいた柴雄くんが噴き出した。
「もう、先輩ってば。初対面に言うかよ普通。ていうか、まだそんな肩書き背負ってたんですねー、呆れるー」
顔をそむけてむせながら言う柴雄くん。すると、佐原さんは胸を張って言った。
「アシカ屋という看板は生涯下ろすことはないのであーるっ!」
「だから、そのアシカ屋ってなんなんですか!」
堪らず言うと、ようやく落ち着いた柴雄くんが答えてくれた。
「夏場は冷風を運び、冬場はヒーターを貸し出ししている仕事です」
「え? それは、つまり……レンタル屋?」
「と言うより、不審者。本業は自転車屋です」
もう何を言っているのか分からない。佐原さんを見ると、すでにハイボール缶をぐしゃりと潰しており、二本目を物色していた。そんな彼女を見遣りながら、柴雄くんが言う。
「この人、自転車にエアコン乗っけて走り回ってんですよ。アホでしょ。よく捕まらないよなぁ」
「待って待って、意味が分かんないんですけど! 自転車にエアコン乗っけて走り回ってる? 不審者じゃないですか!」
「だーかーら、不審者なんですって」
柴雄くんはケラケラとからかうように笑った。対し、佐原さんは「あ?」と不満げに声を上げる。
「その自転車を改造して、自家発電式にしたのはおまえだろーが、柴雄。こいつ、それなりにデカイ自動車メーカーの整備士なんだよ」
「あぁ、どうりで……作業着だから、どこかの工場で働いてるのかと」
柴雄くんの風貌を改めて見る。薄色の作業着。よく見れば、シェルホルダーみたいに胸から腰にいくつものドライバーをくっつけている。
すると、彼は得意げに言った。
「そりゃあのオンボロを二年かけて自家発電式エアコン自転車に改造したんだし、誰かに乗ってもらわないと自転車がかわいそうじゃん。だから、この怪人にあげたんです」
そして、彼はフッとニヒルに笑う。
「いやぁー、地味なもんですよ。ぼくはただ、直すだけですし」
「うーん……あなたもなかなか変人ですけどねぇ」
率直に言うと、柴雄くんは不満げに唇をとがらせた。佐原さんが膝を叩いて笑う。
「やーい、言われてやんのー!」
「先輩に比べりゃ、全然マシだっつーの!」
「類は友を呼ぶんだよぉ、柴雄。おまえ、また実家を改造したんだって? 部屋の窓からすべり台飛び出してたぞ。ばっかばかしい!」
「すべり台……?」
聞き捨てならない言葉に、俺は首をかしげた。どこまでが本当の話なのかすら疑わしい。柴雄くんは苦々しく顔をしかめた。
「なんで知ってんですか」
「おまえの妹ちゃんがぶつくさ文句言ってたからねぇ。変態工具バカ兄貴を持ってかわいそうだ」
「おい、うちの妹になんか吹き込んでないだろうな……ほんと、油断もスキもない」
柴雄くんは頭を抱えた。ものすごい悪口を言われていたのに、そこはスルーか。懐が深いのか天然なのか。ただ、変人なのは明白である。
「で、喜多屋荘助は? 仕事何やってんのー?」
「あ、俺は平凡です。むしろ平凡すぎて言いたくないです。普通の会社員なので」
「会社員かぁ」
佐原さんは感慨深げに唸った。そして、うまそうに酒をすする。ぺろんと唇をなめ、横顔が不敵に微笑んだ。
「会社員って、普段何してんの?」
「そりゃ、仕事でしょ」
すかさず柴雄くんが言う。
「つーか、みんながみんなアンタみたいにいつまでもフラフラしてないんですよ。本業そっちのけでエアコン怪人やってる場合じゃない」
「その、エアコン怪人とかアシカ屋丸出しの話やめてくれません? マジでついていけないんですけど」
俺は堪らず割って入った。すると、柴雄くんがキョトン顔でこちらを見る。
「いや、でも事実なんですよ……まぁ、見れば分かる。この町にいれば、否応なしにこの怪人に出くわすから」
それはそれで怖いんですけど。願わくば、俺が町を出歩くときにはエアコン怪人に遭いませんように。しかも、それが知り合いだなんてご近所にバレたくない。そんな思いを馳せていると、佐原さんは二缶目を飲み干して言った。
「アタシはともかくさー、一番やばいのはあいつでしょ。
「あー……」
柴雄くんが気まずそうに唸る。
「土偶はやばいっすね」
「土偶って? あの土偶ですか?」
「まともな質問だな」
俺の問いに、すかさず佐原さんがツッコミを入れる。いや、ボケたわけじゃないんだけど。
すると、柴雄くんが固い声音で言った。
「土偶は貸本屋です。夏休みの夕方、リヤカーで貸し本屋やってるおっさん」
「は? この令和の時代に? 嘘でしょ」
「いやいや、これがマジなんですよ。まぁ、本業はリサイクルショップの店長なんですけど」
神妙な顔つきで言われる。
……もうこの「いかにも変人です」オーラは本気にしないでおこう。
「なんだ、まともな人そうじゃないですか。脅かさないでくださいよ」
「いやいや、分かってないな、喜多屋荘助」
そう言うのは佐原さんだ。彼女は馴れ馴れしく俺の肩に腕を置き、哀愁たっぷりに遠くを見つめる。
「あいつは絶対に子ども相手にしか商売しない。宿題代行とか、絵日記代行とか、読書感想文代行とかやってるんだよ。普段は店に引っ込んでるのに、夏休みの夕方にだけ出没する。土偶みたいな体型だから、そう呼ばれてる」
彼女は苦々しく顔をしかめて酒をすすった。
「気味が悪くて遭いたくないやつナンバーワン。アタシが子どもの頃から存在している」
そう恐ろしげに言うが、奇人変人の類である佐原さんに言われても説得力は皆無なのだが。しかし、エアコン怪人直々にそんなお墨付きをもらうということは、これより上をいく生粋の変人なんだろう。うーん、遭いたくないな。夏場は要注意しよう。
俺は苦笑しながら二缶目を開けた。
「そう言えば、俺、これ飲むの初めてなんですよね」
思わず言う。すると、二人が大きくのけぞって驚いた。
「人生初っすか?」
「そう、人生初」
「マジかぁ。ウチら、喜多屋荘助の初めてに立ち会っているのかぁ。なんか感動」
「そんな大それたものじゃ……さっきもこれと同じシリーズのレモンは飲みましたけど」
言いながら、一口含む。その様子を二人が両脇からじっと見つめる。佐原さんに至っては下から見上げるように見ていた。据わった目が怖い。
「どうよ」
「どうよ」
佐原さんに続き、柴雄くんも同じ口調で訊く。俺は眉をひそめ、舌に残った味を確かめた。
「……ん」
プレーン味はなんとも形容しがたい味わいだった。ほんのり甘い。でも、しつこい甘さじゃない。アルコールのしつこさはかなりある。なんだろう。なんて表現したらいいんだろう。
回る酔いのせいか、すっかりかすんだ目で成分表を見る。
なるほど、レモンとグレープフルーツ、ライムも入っているのか。その味かと言われればそうかもしれないが、先ほど飲んだレモン味とは段違いに甘くない。なんというか……透明な味。飲みごたえ抜群で、喉は相変わらず痛い。一気にふわっと鼻から上へ熱が走る。初めての出会いだ。
「これ……すっ、ごいですね……初めての出会い。はぁーっ、すげぇ、意味不明な味」
「成分表を見ながら感想言う人、初めて見た」
柴雄くんが呆れ口調で言った。
「おいおいおい、喜多屋荘助。味とか成分とか、考えたら酒が不味くなるだろーがよ。もっと飲め、どんどん飲め。そして、酔いつぶれるがいい!」
「先輩、それアルハラだから、マジやめたほうがいいっすよ。訴えられても知らんからな」
佐原さんの暴言を柴雄くんが止める。俺はその言葉に従い、もう一口飲んだ。今度はかなり口いっぱいに含む。
「っはぁーーー、やっばい!」
ごくんと一気に飲むと、思わず言葉が漏れた。笑う。そして、この前、一緒に飲んだ吉田くんの言葉を思い出して、笑う。なんだかおかしくなり、前かがみになって笑っていた。
「え、何なに。怖い怖い怖い。急にどうした、酔ったか?」
「いや、この前言われたことを思い出したら笑えてきて。その人、俺の飲み方を『コマーシャルみたいな飲み方』って言ったんですよ。確かに、そうだなって」
「あー、言われてみれば。リアクションがオーバーなやつか」
柴雄くんは思い当たるように笑った。
「え? ひょっとして、喜多屋さんって普段はあんまり飲まないんですか?」
「普段どころか、もともと下戸でした。全然飲めなかったんです」
「そんなやつが、よくもまぁこの強い酒を買おうと思ったな。どうした、失恋でもしたか?」
三口目を飲もうとしていたら佐原さんがサラリと訊く。俺は思わず缶を落としそうになった。
「あ、図星だー」
柴雄くんが囃し立てる。佐原さんは言い当てたことに驚いたのか、目を見開かせたかと思ったら泣き真似をして俺の肩を叩いた。
「そーかそーか、かわいそうに。そんじゃあ、好きなだけ飲むといいさ! この酒も持ってけ!」
そう言って、持っていたハイボール缶を渡してくる。さすがに飲みかけのものはもらえない。
「いや、結構です」
丁重にかつ冷静に断る。すると、彼女の眉がつり上がる。
「なにぃ? んじゃ、アタシが飲みまぁーす」
てっきり「アタシの酒が飲めんのか」と言われるのかと思った。柴雄くんもコケるふりをする。対し、佐原さんは元気にごくごくハイボールを飲み干していく。缶を握りつぶし、次は瓶の酒を取り出した。どんだけ飲むんだろう、この人は。そんな彼女を止めるわけでなく、柴雄くんはマイペースにチューハイを飲む。
「ほんと、そういう風に言いたいだけなんだから。先輩、酒癖悪すぎ。付き合わされるこっちの身になれっての。ねぇ?」
「いやぁ、でも、今まで飲めなかったのもあって、こういうの新鮮ですよ。会社の飲み会でも『んじゃ、喜多屋は烏龍茶だよな』って勝手に注文されますし。まぁ、強制は勘弁だけど」
「なんで急に飲めるようになったんですか? 飲めない人って体質的に受け付けないみたいな、そういうイメージでしたけど」
「えーっと……」
強い酒の手伝いもあり、俺の口はとても軽々しく「ふぁんとむ境」の話を始めた。
以下略。
「──はぁ……うわ、マジですか。そんなことあるのか……いや、あるのか? 意味分からん」
柴雄くんは疑心たっぷりに唸った。しきりに首をかしげるが、君も相当な変人だということはすでにバレているので、その仕草は間違っていると思う。
「そんなことがあったら、アタシの商売もその催眠術とやらで売上ガーンっと上げてほしいよな。『あなたの商売は軌道に乗るぅ〜』とか、なんとか言って、かけてほしー」
「いや、催眠術師は魔法使いじゃないんで、売上伸ばすのは別でしょ。佐原さんのやる気の問題では」
俺は冷静にツッコミを入れた。すると、佐原さんは嬉しそうにニマニマ笑った。だらしない笑顔を急に見せてくるので、つい胸がときめく。度数の高い酒のせいだろう。
「じゃあ、その〝ふぁんとむ境〟を探すために、公園飲みしてるわけ?」
柴雄くんが鋭く訊く。俺はこくこく頷いた。もうそういうことにしておこう。
「ちなみに、お二人は知らない? なんか、顔が広そうだし、この町のことなら知ってそうな」
「うーん……〝ふぁんとむ境〟ねぇ。聞かねぇ名前だなぁ」
佐原さんが真剣に唸る。柴雄くんも腕を組んで真面目に逡巡していた。
「土偶なら知ってるかな?」
「いやいやいや、あいつ酒飲めないしな。あと、まともに話が通じる相手じゃないから、聞いてもムダムダ」
俺の提案を瞬殺する佐原さん。耳たぶのアシカがぶるんぶるん揺れる。彼女の中では酒が飲める人種と飲めない人種の二局しか存在しないらしい。とんでもない仕分け方だ。
「しかし、そういう得体の知れないヤツは、たいていこの町に流れ着くと思うんだよな……それくらい、ここは住みやすいので」
柴雄くんが言う。彼はまだ考えているようで、宙を睨みながら缶の中の酒を飲み干した。そして、深い溜め息をつく。
「まぁ、住みやすいなら安心、かな……?」
俺は苦笑しながら佐原さんをそっと見た。
「ん? なんだよ、喜多屋荘助。やらしー目で見るな」
「はぁ!? 誤解です!」
「先輩みたいな変人が住んでるから不安って言いたいんでしょ。察しろよ、エアコン怪人」
「うーん……まぁ、おおむね合ってる」
俺はもにょもにょと言葉を濁した。柴雄くんもかなり変人だけどな。
まったく類は友を呼ぶとは言うが、そうなれば俺も同類なのかもしれない。催眠術師のふぁんとむ境が奇人であることは否めないが、催眠術であっさり酒を克服したというのも希少な存在なのではないか。いや、ただ単純で短絡なだけなのかもしれないが。この町でリサイクルショップを見つけても、絶対に入るまい。変な壺を買わされないように気をつけよう。
「しかし、アタシが気に入らんのは、その女だよ」
急に佐原さんが怒りをあらわにし、俺と柴雄くんは同時に笑みを引っ込めた。のけぞって様子を窺う。彼女は飲みかけの缶をぐしゃりと潰す。そして、酒をこぼしながら立ち上がった。
「そんな意味不明な理由で六年連れ添った彼氏を捨てるとか、意味が分からんぞ。おい、喜多屋荘助、おまえ、舐められてんじゃないか? そいつ、絶対ほかに男がいたぞ」
「えっ」
俺は喉元が急に絞まるような気がし、頬を強張らせた。
「ちょーっと、先輩! 急に何言ってんすか!」
柴雄くんも立ち上がり、佐原さんを座らせようとする。しかし、彼女は断固拒否し、柴雄くんを思い切り突き飛ばした。そして、据わった目で俺を見つめ、缶を持った指を鼻先に突きつけてくる。
「おまえも心のどっか片隅でそういう想像はしてんだろ。その女、おまえを舐めてやがったんだ」
「そんな……ことは……ないと、思います」
俺は苦々しく言った。
いや、佐原さんの言う通り、心のどこか片隅で舞香を疑っていた。それきり、彼女のことは考えないようにしてきた。同僚たち──原さんや市田くんも口にはしないが、舞香のことをそう思っているだろうし、俺のことを「捨て犬」だと思っている。はずだ。憐れまれている。そうなんだろう。
「あーもー、喜多屋さん、気にしないでいいから! ほら、先輩! いい加減にしろ、座れ、ほら!」
柴雄くんが強引に佐原さんの頭を押しやり、ベンチに座らせる。俺は苦笑を返すのみ。やばい、笑えているかどうか不安になる。
すると、彼もベンチにどっかり腰を下ろし、酒をぐいっと煽った。勢いよく含んだのか、口の端からこぼれた酒を拭って言う。
「でもま、確かに先輩の言うことも分からなくはない、か……喜多屋さんがどんな風に付き合ってきたかは知らんけど、その元カノの言い分は間違ってる」
「だろー? そうそう、それが言いたかったんだよ、アタシは。その女はちーっとも酒飲みの心がない。酒飲みの風上にも置けん!」
「ですね。酒飲みたるもの、酒を理由に男を捨てるべからず!」
「よし、よく言った、柴雄! おまえもそういう女とは付き合うんじゃないぞ!」
「はい、先輩! その教えを胸に、明日も経理部の女子を口説きます!」
「よろしい! それでこそ我が弟子!」
「ちょっと待って。俺を挟んで漫才しないでくださいよ!」
置いてけぼりな俺もようやく割って入る。ツッコミ不在でつい耐えられなかった。
「まったく、言いたい放題言いやがって。あーもう……あっはははっ」
体をくの字に曲げて笑う。笑えてくる。腹の底が愉快でたまらない。だから、目尻から涙が滲んだ。本当に笑えてくる。喉の奥から出る笑い声が徐々に高くなってしまい、俺は残っていた酒を一気に飲み干した。
「よし、いい飲みっぷりだ! 合格!」
佐原さんが俺の背中をドンっと叩く。すると、柴雄くんも楽しそうに笑い、肩を叩いてくる。俺はずっと腹を抱えて笑い続ける。
「合格って。何に合格したんですか、俺」
「そこは冷静に訊くとこじゃない!」
すかさず柴雄くんが言った。
「合格は合格だ。喜多屋荘助、アタシの弟子にしてやろう」
「弟子になったら、なんかいいことあるんですか?」
つい前のめりに訊く。と、彼女は「うむ」と厳かに唸った。そして、とても形のいい眉をキリッと持ち上げ、キレの良い動きで柴雄くんを指差す。
「自転車整備が無料だ」
何かと思えば、他人任せのデタラメだった。これに、柴雄くんはクスクスと笑うだけ。そこは冷静につっこむとこだろ、と思う。
「佐原さんは何もしないんですか?」
「んーーーーー……」
彼女は腕を組んで考えた。何も考えずに発言したのだろう。
やがて、佐原さんは「あっ」と思いつく。パチンと指を鳴らし、キザったらしく片眉を上げて言った。
「エアコン、タダで使わせてやろう。呼べばすぐ駆けつける。悪くないだろ」
「たっぷり考えてそれ!? って言うか、それって佐原さんを召喚しないと無理なやつ! 絶対イヤだ!」
言いながら宙を見上げる。二人はもうずっと笑いっぱなしだ。足をジタバタさせ、腹を抱え、泣きながら笑う。
まったく、疲れる。疲れるのに、楽しい。悔しいほどに面白くてバカバカしい。
「絶対イヤですからね! 二度と会うもんか!」
俺の嘆きはとっぷり更けた春の夜へと吸い込まれていった。
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