第四夜 無駄な時間④

 人通りが少ない裏路地へ行くと、遊歩道がある。その向こう側に広い公園があった。昼間はお年寄りたちがゲートボールや日向ぼっこをするスペースがあり、その脇に屋根つきのベンチが並ぶ。花壇のヒマワリが背を伸ばそうとし、その横にはオシロイバナが咲いていた。「朱馬あかま小学校一年生」という手作りの看板も花壇の中に刺さっている。

 熱気が残る公園に、深見さんはテクテクと入り、ベンチに掛けた。そして、さっそくビールを開ける。俺もならい、キンキンに冷えたビールで手のひらの熱を冷ましながらプルタブを起こす。

「お疲れさまでした」

 深見さんが機嫌よく言ってグイッと一口含む。俺も一口含む。前は嫌いだった麦芽も、今じゃただの炭酸麦茶にしか思えない。こんな蒸し暑い日には、やっぱりビールがいい。

 疲れた体に染み渡る一口を堪能していると、深見さんが横でガサガサと惣菜のパックを開けた。しなびたたこ焼きと唐揚げという組み合わせ。

「それ、あっためなくていいんですか?」

 訊くと、彼は「うん」とあっさり返事した。

「僕、猫舌だから」

 いや、猫舌だからって、せめてたこ焼きはアツアツがうまいのでは。

 俺はポテトサラダを開けた。枝豆といなり寿司という冷めててもうまいやつをベンチに並べる。今日はもうここで食べてしまおう。帰ったら即寝る。

 しばらく、お互いに惣菜を黙々と食べた。一口ずつつまみ、ビールで押し流す。深見さんは何も言わなかった。その時間があまりにも長く感じ、俺からようやく話を切り出す。

「で、話の続きは?」

「あぁ……」

「あぁって、自分から誘っといて」

「ですね。すみません。あの時は、すでに酒が入ってたから自然と打ち解けましたけど、今はそうでもないから……僕、人見知りなんで」

 あの時、というのは飲み会の時だろう。自然と会話できる相手だと思っていたが、どうやら違うらしい。疑わしいが。まぁ、そういうことにしておこう。

 深見さんは「うーん」ともったいつけて言った。

「どこから話したらいいかな。まぁ……そうですね、志熊さんが飲み会をセッティングした時点で、なんとなく気づいてたんですよ。『あっ、これはもしや、僕と加刈さんのためのか』って」

「最初から気づくなんて、鋭すぎませんか」

「そういう前フリがあったんですよ。ほら、僕と加刈さんは顧客と業者の関係なので。まぁまぁ付き合いも長いんですよね」

「そういえば、そうでしたね。加刈さんがこそこそ作ってる同人BLの印刷担当って」

「そうです、そうです」

 深見さんは愉快そうに言った。思い出すように笑う顔は、飄々としているも優しげだ。パクッとたこ焼きを頬張りながら言う。

「うちの会社って、同人誌を送ってくる個人顧客ってあんまりなくて。しかも成人向け。それで、うちの部で男性は僕か上司しかいないので、自然と僕が担当することになったんですよ」

 うーん。それはどうなんだろう。いくら成人向けの仕事だからって、自然と深見さんに回されるという環境がちょっと理解できない。

 そんな疑問を浮かべている間にも彼の話は続いた。

「技術的な話し合いが必要な場合は僕からお客さんにメールするんです。普段、入稿データを面つけしたり出力データを作る時なんて中身は見ません。校正も中身を『読む』というより、間違い探しをしている感覚です。時間に余裕があって、面白そうな内容なら読みますけど」

「へぇぇ……じゃあ、漫画とか発売前に読み放題ですね」

「漫画の仕事はしてませんけど、まぁ、そんな感じです。世へ出る前に知れるという点では、情報の最先端にいるような感じですね」

「うわ、なんかかっこいい」

「現実はそうじゃないですけどねー」

 あはは、と照れたように笑う。そして、深見さんはため息を落とした。

「実際、ゴミを作ってるようなものですから」

 そう呟いてビールを飲む。急な毒舌に怯んでしまい、俺もビールを一口含んだ。ごくんと喉を鳴らす。

「だって、道端に捨てられるようなチラシに百年先も生きる価値はないでしょ」

「いや、でも……役に立つ重要な仕事だと思いますよ」

 気休めの言葉しか出てこない。同時に、自宅の郵便受けに溜まったチラシに煩わしさを感じていたことを思い出す。空気が重い。

 すると、深見さんはクスクス笑った。

「そんな風に思ってた矢先だったんですよ。加刈さんの同人BLが飛び込みで入ったのが」

 なるほど、そう繋がるわけか。俺は少し身を乗り出して耳を傾けた。

「で、データの面付け中に僕が誤字に気づいちゃって。営業担当も女の子だったから、なんとなく言いづらかったので自分からメールしたんです。そしたら、次の冬も入稿してくるようになって」

 深見さんは時折、笑いを交えながら言った。思い出し笑いが多く、聞いてるこっちも笑えてくる。お互いに真剣に仕事のやりとりをしているのに、状況の愉快さを想像するとさらに笑いが込み上げてきた。

「こういうのは普通、同人誌に慣れた会社に依頼するべきなんですよ。よりによって、うちみたいな下町の印刷会社を選んでくる意味が分からなくて。だから、翌年の夏の即売会に行ってみたんです」

「えっ、行ったんですか?」

「はい、行きました。思い切って」

「すげぇ」

「加刈さんの漫画、結構面白いんですよ。やってて楽しい仕事なので。今じゃ入稿が楽しみなくらい」

 深見さんは柔らかく笑った。

 そんな彼に「でも、中身はBLじゃん」とは言えず。まぁ、どんな内容かは分かんないからなんとも言えないけど。

「加刈さんのあの慌てふためきようは愉快でしたね……でも、彼女の手元に物が届く前にすでに読んでるこっちからしたら、別になんとも思わないし。会社には見本誌もあるし」

「なのに、わざわざ買いに行ったんですか?」

「そうそう。わざわざ買いに行った。で、訊いたんですよ。どうしてうちに頼んでくるんですかって」

 その行動力から察するに、絶対に人見知りじゃないだろと思った。が、話の腰を折りたくないので続きを促す。

「そしたら彼女、顔を隠しながら言ったんです。『納期がギリギリでも安く刷れるから』って」

「なんだよ、全然ロマンチックじゃない!」

 思わずガックリと肩を落として言う。なんか、もっと深い理由があるのかと思ったのに。すると、深見さんは手を叩いて笑った。

「そのあと、こうも言ってたんです。『深見さんの校正チェックが的確で助かる』って」

「おぉ……」

 思わずニヤけた。深見さんはビールを豪快に煽り、さらに笑い上戸になる。空気はかなりあったまってくる。蒸し暑いのに苦じゃないほど。そして、深見さんは照れ隠しに素早く言った。

「あとは、僕がデータを作った漫画がずらっと並んで、客の手元に渡る様子が、なんかこう……嬉しかったんですよね。これはゴミじゃないんだって、ようやく気づきました」

「なるほど。そういう馴れ初めがあったわけですね」

 俺も少し気恥ずかしいので茶化すように言う。これは確かに盛大な前フリだ。

「それからは、加刈さんが働く書店にも行くようになって、志熊さんとも友達になって、そのあとに鳥飼さんも自然と輪に入って。からの、飲み会だったんですよね。加刈さんが僕を誘って、志熊さんと鳥飼さんもそれぞれ誰かを誘ってくるという流れに」

「それでも、自分たちのためだって気づく深見さんはすごいです」

 とは言いつつ、俺は志熊さんに誘われた時のことを思い出した。前言撤回。勘違いだったとは言え、甘い展開を想像してました。ばかやろう。

 深見さんは「うーん?」と不審感あらわに唸って顔を覗き込んでくる。

「え、でも、ちょっと期待しません? するでしょ。僕と加刈さん、かなり仲がいいから、周囲が気を遣うことが多々あって」

「えぇ……だったら、さっさと付き合えばいいじゃないですか。なんか、ダメな理由でもあるんですか?」

「いや、それはほら、恥ずかしいから」

「急に怖気付かないでくださいよ」

「だって、普段からBLの話ばっかりしてるんですよ。向こうの性癖のあらゆるとこを知ってて、そこから真剣に告白って、恥ずかしいじゃないですか」

 うーん。その気持ちは分からなくもない。

「……じゃあ、やっぱり真剣に好きなんですね」

 俺は鋭く言った。すると、深見さんは堂々と返した。

「そりゃもちろん、好きです」

「俺じゃなくて、加刈さんに言ってください」

「うん。だからね、もう話は済んでるんです」

「えっ」

「あの後、ちゃんと告白しましたよ」

 深見さんはサラッと言い、ビールを飲み干した。

 一方で俺は、

「えぇぇっ? 何その急展開!」

 動揺を隠せない俺に、深見さんはニヤニヤと笑っていた。なんだか手のひらで転がされている気分になる。

 やっぱり、この人わざとだ。わざとやってるんだ。そして気づいた。この長い長い話はつまり、

「惚気じゃん!」

「あ、気付きました? いやぁ、喜多屋さんって面白いですね。真剣に聞いてくれるから話してて楽しいなぁ」

「深見さんって、ほんといい性格してますよね!」

 俺は怒り半分、面白半分で言った。本当に悔しい。でも、憎めないから笑ってしまう。

「だいたい! 加刈さんとBL話ばっかりしてるから周りが世話を焼きたくなるんですよ!」

「うーん。でも、他にどんな話をしたらいいか分からなくて」

「他にもなんかあるでしょ。もっと生産的な話、とか」

「えー?」

 途端に深見さんは、大仰にのけぞって顔を歪めた。腕を組む。

「じゃあ、喜多屋さんは女の子と話す時、真剣に仕事の話とかするんですか? 世界情勢とか? 何が楽しいんです?」

「それは、そうだけど……でも、結局猥談しかやってない」

「相手の趣味に合わせて話をするのは定石ですよ。それに、楽しい話の方がいいじゃないですか。僕の普段の仕事なんて、ほんとに地味なんです。社内定款やら取扱説明書やら、分厚い年報だとかを作る。何が楽しいの」

 どうだ、と言わんばかりの弁舌に圧倒される。そう言われてしまえば何も言えなくなり、俺は頭を抱えた。確かに、売り上げやら取引先の話やら、気になる相手に話しても伝わらないし、つまらない。

「確かに、そうだ」

「ほら」

 勝ち誇ったように言われる。俺は敗北を噛み締めるように、残りの惣菜をかきこんだ。

 そんな時である。目の前を自転車のライトが横切った。キキっとブレーキがかかる。

「おや」

 深見さんがビールをすすりながら自転車に気づく。そして、馴れ馴れしく片手を挙げた。

「佐原」

 そう呼びかける。すると、向こうも手を挙げた。

「よう、深見」

「えっ」

 俺は思わず声を上げた。そして、反射的に飛び退く。

 佐原沙織──あのアシカ屋にしてエアコン怪人が相変わらずの薄着でエアコン自転車にまたがってこちらを見ていた。

「エアコン、使うか?」

「いや、今日はいいかな」

「あ、そう。喜多屋は?」

 当然のように佐原さんが訊いてくる。俺は驚きのあまり口がきけず、首を横に振った。すると、彼女は残念そうに「そっかー」と言った。

「んじゃ、またな」

「気をつけて」

 深見さんはサラッと手を振って、エアコン怪人を見送った。ゴウっと風が唸る。やがて、彼女は道の奥にある遮断機を通過して夜闇に消えた。

「え、え? 深見さん、あの人知ってるんですか?」

 ようやく言えたのはそれだった。なんか普通に挨拶してたけど、一体どういう関係なんだ。

 訝っていると、彼はキョトンとして俺を見上げた。

「知ってるも何も、あれ、元カノです」

「……はぁぁっ!?」

 やや遅れて声が出た。

 脳が処理を拒むとは、まさにこの状態をいう。持っていたビールを落としても、しばらくその場から動けずにいた。

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